熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

アラブに春は来るのか

2012年09月27日 | 政治・経済・社会
   2010年12月18日に始まったチュニジアでの暴動によるジャスミン革命から、アラブ世界に波及した”アラブの春”は、いまだに凄惨なシリアの内乱や、反イスラム的な米映画に対する抗議行動が、米外交施設内への侵入や銃器による攻撃に発展し、駐リビア米大使殺害に及ぶなど、その展開は予断を許さない状態である。
   イランの核開発を阻止するために、イスラエルがイラン攻撃を画策しているなど、火薬庫としての中東の危機状態は一向に終息を見せる気配はない。

   このイスラムの西洋文化文明への挑戦やテロ行為について、先日、ブックレビューしたスチュアート・L・ハートは、「未来をつくる資本主義」のエピローグ「未来を見据えて」の冒頭に、非常に示唆に富んだ論評をしているので、考えてみたい。
   我々日本人は、どうしても欧米メディアに影響された日本の報道情報から判断して、イスラム原理主義やその過激さ、時代錯誤(?)ぶりに批判的は気持ちを持つ傾向が強いのだが、もっと、本質的な視点から見るとどう言うことかと言うことである。

   ニューヨークで勃発した9.11事件についてだが、ハートは次のように考えている。
   殆ど人は穏健な手段を選ぶが、人は絶望し、権利を剥奪され、屈辱を味わわされたら、その状態を少しでも変えるためにどんなことでもする。ごく一部に、孤立と拒絶を究極の形で表現する人が出てくる。それがテロリズムだ。
   こうしたグループのリーダーが気付いているように、大勢の人を引き付け、大義を推進し後押しするためには特殊な状況が必要だ。生まれながらにして自爆者や民兵である人はいない。それほど過激な行動に駆り立てられるのは、長い間無視され、絶望させられ、希望を打ち砕かれ、機会を奪われ、あるいは脅かされ、搾取され、侮辱されて来たからに他ならない。
   要するに、組織的テロが起こるのは、社会全体にそのお膳立てが出来ているからだ。貧困、格差、絶望、尊厳の喪失など、テロを容認し支持する状況を覆すことでしか問題の根本原因に対処することは出来ない。
   テロリズムは兆候だ。その根底にある問題は、持続可能性を無視した開発にある。
   

   21世紀の中東は、近代史における最も純然たる「持続不可能な発展」の典型だろう。
   石油によって少数のエリートが莫大な金と権力を手に入れた一方で、一般大衆はその恩恵を殆ど受けていない。欧米の石油依存のお蔭で、独裁者や専制君主は石油を掘り続けることで、出来る限り頂点に君臨していられる。
   石油依存で経済発展を遂げ、生活水準を引き上げて文明生活を謳歌して来た欧米日の先進国が、どんどん石油に金を注ぎ込んで専制的為政者の権力を増長させて、アルカイダなどの過激グループがまさに破壊させようとしているイスラム専制国家を支持してきたのである。


   かっては世界最高の、どこにも劣らない科学的、芸術的功績を誇りとし、その壮大な遺産とギリシャ文明をイタリアに伝播してルネサンスを誘発したアラブ世界は、今や見る影もなく変わり果てて、絶望と屈辱に満ちている。
   中東では、記録的失業と機会不足の中、何千万人と言うイスラム教徒が成人を迎えており、大学出たての医師や弁護士など専門職の人材が日雇いやフリーターとして働いている現状を考えれば、たとえ間違っていたとしても、目的と帰属意識と経済的保護を与えてくれるものに引かれていくのは当然ではないか。

   アメリカのこれまでの対中東政策を見れば、如何に、自分たちの生活圏を守るために汲々して来たかが良く分かる。
   かっては、アメリカは、サダム・フセインやオサマ・ビン・ラディンの庇護者であったし、ごく最近まで、ホスニー・ムバーラクをバックアップし続けてきた。
   世界は、既に、フラット化してグローバルに繋がっていて、すべて連携しており、例え、地球の片隅で起こった事象でも、バタフライ効果のように伝播するにも拘わらずである。
   今回は、ハートの見解のみを記するに止めた。それで十分だと思う。
コメント
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