熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

北康利著「吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」

2012年09月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和会議の条約調印式の話から始まっていて、主に、吉田茂が、総理大臣として日本の政治の中枢にいて、どのような業績を残したのか、その壮絶な生き様を活写することによって、戦後最も重要な時期にあった日本の政治史をビビッドに描いている。
   後半は、私自身が、安保反対で河原町をジグザグ行進をして気勢を上げていた頃の思い出を髣髴とさせてくれるのだが、多少、私の記憶は、曖昧だとしても、現に、半世紀以上も前に実際に経験した当時の日本の姿を思い出させてくれて、非常に興味深かった。
   現在の政局塗れで全く先の見えない政治と同じで、当時の日本も迷走続きで、お粗末極まりない政治状態であったと言うことを感じて、全く、何も変わっていないなあと言う印象であったのも事実である。
   しかし、この本のタイトル後半の「独立心なくして国家なし」と言う吉田茂の信念が示しているように、日本のあるべき姿を壮大なスケールで描きながら、決死の覚悟で邁進していた政治家が居たと言うことは、非常に貴重なことだと思っている。
   少なくとも、吉田、鳩山、石橋湛山などの政治哲学と高邁な独立国家日本への思いは、復興期の乱世とは言え、今の政治家の多くとは一桁も二桁も桁が違っていたと言うことだけは事実のようである。

   この講和条約締結後に、白洲次郎などの止め時だと言う助言を蹴って、吉田は、権力欲の魔物に取りつかれたのだと揶揄され非難されながらも続投し続けたのは、自分自身で「独立国の完成」をやり遂げたかったからだと言われている。
   奇跡の日本再建を実現した軽武装と引き換えに経済復興を優先すると言う「吉田ドクトリン」も、「独立国の完成」と言う最終目的に近づくための一里塚であった。
   独立を確保するためにやむを得ず、講和の際に締結された日米安保条約も、あくまでアメリカの国益を優先した片務契約であって改訂の必要があり、アメリカ主導で制定された日本国憲法も当然改正すべしと考えていた。
   自由主義陣営の一員として米国との同盟堅持を国家の基本戦略としたが、自国防衛まで米国に依存することで国民の覇気が失われることを最も恐れ、国民に独立心のない国家などあり得ないし、それは国の形をしていても、所詮植民地か冊封国家と同じだと考えていたのである。

   憲法改正については、興味深い話があって、朝鮮戦争が勃発した頃、吉田は、マッカーサーに、第九条があっては、日本は軍事的な協力が出来ないので改正すると申し入れたようだが、直後にマッカーサーが解任となったので沙汰やみとなり、その後、アメリカからの軍事力増強圧力に抗するために、憲法改正を先のばしにせざるを得ず、それが、結果として、「吉田ドクトリン」を堅持するための防波堤となり、日本経済の高度成長の実現に貢献した。
   吉田の「独立国の完成」は、アメリカと敵対するのではなくて、親密な同盟関係を維持しながら、領土問題の解決や安保改訂などを進めて行き、あくまで、対等の立場で国際平和に貢献すると言うことだったが、「権力の亡者」と言う汚名との戦いの連続であったと言うことである。

   鳩山一郎は、総理大臣を目前にして公職追放にあって、総理の座を吉田に譲ったにも拘わらず、吉田が居座り続けることに憤懣やるかたないので、吉田の日米安保条約と引き換えにした屈辱外交には反対で、「日米安保破棄、早期改憲、自主的な軍事力整備」を主張し始めていた。
   また、鳩山は、日ソ国交回復が持論であった。面白いのは、自分を公職追放したアメリカを恨んでいたので、その裏返しだとも言われているが、実際、公職追放を強く提言したのはソ連であったとマッカーサーが吉田に言っていたと言う。
   ソ連と中国とに敵対しておれば国連加盟など望めないので、日ソ国交回復は必然の道ではあろうが、当時は、米ソ冷戦の言う大きな対立軸が生まれていて、どちらかの陣営に属することが不可欠な状況であり、むしろ、アメリカを利用して、その支援を受けながら国力を強化して「独立国の完成」を達成する方が近道だと吉田は考えていたのである。
   
   興味深いのは、吉田の「中ソ離間論」である。  
   東南アジア諸国に、”自由主義陣営に入った方が豊かになる”ことを具体的に示して共産党革命の連鎖を防ぎ、同時に中国の心をソ連から引き離して自由陣営入りさせようとする外交戦略で、そのためには、自由主義諸国が一致団結して東南アジア諸国に人的・物的な支援をし、国情を安定させるとともに経済発展を促すと言う考え方で、その結果、中ソの脅威がなくなれば日米安保条約の重要性も低下するので、「独立国の完成」に近づくと言うのであった。

   昭和31年(1951年)10月19日、鳩山首相は、日ソ共同宣言に調印して、日ソ国交回復が実現したが、帰途、アメリカに立ち寄ったが、大統領はおろか国務長官にも会えず、ロバートソン国務次官補が会うと言う極めて冷遇を受けたのだが、岸内閣になるまでは、日本の対米関係は冷え切ったままであったと言う。
   ウイキペディアによると、鳩山は、「近年、1955年に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、アメリカに打診していたことが明らかになっている。」と言うことだが、米国一辺倒の吉田と違って、もっと先を行った「独立国の実現」を目指していたのであろうか。
   この路線を踏襲せんとしたのか、或いは、誤ったのか、孫の鳩山由紀夫首相の対米政策や外交路線が異例づくめで、普天間基地問題への対応の拙さに加えて、対米関係が一気に悪化ししてしまったのは最近の話だが、日米関係をどうするのか、日本にとっては、今も昔も最も重要な案件であることには変わりがない。

   ところで、吉田と違って、鳩山一郎に対する国民の人気は大変なもので、日本各地で「鳩山ブーム」現象を引き起こしたと言う。
   一方、吉田と言う政治家は、国民は自分たちが指導して幸せにするべき対象であり、世論の動向に従って政治を進めていくなどと言うことを微塵も考えていなかった。貴族主義的な彼は、汚れ役は側近がやるものと心得、マスコミは勿論、国会で野党に質問されることさえ嫌い、しばしば国会をずるやすみした。本心は側近にしか明かさず、密室で物事を決めながら、自分の出した結果で国民に判断して貰おうとしたと言うことで、説明責任を果たそうとする姿勢など毛頭もなかったと言う。

   カメラマンに水をぶっかけ、バカ野郎解散で勇名を馳せるなど、国民をけむに巻いた逸話には事欠かないのだが、吉田の死後、息子の吉田健一が父親の蔵書を整理していたら、シェイクスピアのマクベスの「人生は歩きまわる影法師、哀れな役者だ」と言うところにアンダーダインがしてあったのを見つけたと言う。

   
   NHKは、現今の政治のお粗末さに嫌気をさしてか、カツを入れるためにか、週末から、渡辺謙主演で、吉田茂の「負けて、勝つ」を放映して、占領下の塗炭の苦しみから立ち直って復興への道を歩む日本の姿を見せてくれると言う。
   もう一度、しっかりと、今日の日本の原点とも言うべきあの時代を凝視してみる必要があると思っているので、大いに期待している。
   
コメント
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