熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂~能・鬼界島(俊寛)&狂言・栗燒

2012年09月06日 | 能・狂言
   見たいと思っていた「俊寛」の能舞台を、やっと、国立能楽堂で観ることが出来た。
   近松門左衛門の「平家女護島」による文楽や歌舞伎の舞台では、何度か見ているのだが、これは、作者の創作意図が色濃く出ていて、物語としては面白いのだが、やはり、平家物語のように、シンプルに、「赦文 俊寛赦免されず 足摺」に集中すれば、どのような舞台になるのか、正に、無駄を一切省いて削ぎに削いだ能の舞台で観たかったのである。

   今回は、シテ/香川靖継で喜多流の舞台なので、タイトルは「鬼界島」となっているが、「俊寛」である。
   能の舞台は、前場には、長月重陽の頃なので、俊寛が持って来た谷の水を菊の酒に見立てて三人で酌み交わして、今の境遇を嘆き都での暮らしを忍ぶシーンはあるが、後場で、使者ワキ/赦免使殿田謙吉たちが赦免状を持って舟で島に到着して以降は、大体、平家物語の筋に則って、ただ一人赦免されずに島に取り残される俊寛の断腸の悲痛が展開されていて壮絶でさえある。

   ところで、近松の浄瑠璃の「平家女護島」であるが、平家物語と大きく違うのは、赦免使・丹左衛門が、俊寛については、重盛の計らいで九州までの帰参が許されたと告げたので、俊寛も乗船できたのだが、瀬尾から清盛の側室強要を拒否して妻・東屋が殺されたのを知らされたので、もはや都に未練はなく、俊寛の媒酌で祝言を挙げた、丹波少将成経の恋人千鳥が乗船を許されずに死のうとしたので、自分の替りに千鳥を船へ乗せて島に残ったことである。
   俊寛としては、清盛に対する最後の男の意地と言うか、平家への抵抗だったのであろうが、小高い岩場によじ登って去り行く舟を見送る俊寛の心には、平家物語のように女々しい人間俊寛ではなく、悲哀と同時に男として意地を通そうとした悲壮な心情が際立っていて感動を呼ぶ。

   さて、平家物語だが、ここでの俊寛は、徹頭徹尾、孤島に取り残される悲哀に泣き断腸の悲痛を曝け出し、
   ”・・・とりつき給う手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなしに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんぞをしたふように、足摺りをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とわめきさけべども、漕ぎ行く船のならひとて、あとは白波ばかりなり。”
   
   この後、俊寛は、粗末な寝所へも帰らず、渚で波に足を洗われ、夜露にうたれて夜を明かすのだが、少将は情け深い人だから、清盛に良いように取り成してくれるであろうと頼みに望みを託すと言うところで終わっているのだが、
   能では、これを受けて、最後に、
   成経/康頼が、帰ったら良きように取り計らうのでやがて帰洛は叶うのであろうから気を強く持てと言う言葉に、
   シテ これは真か、 地謡 なかなかに、 シテ 頼むぞよ、と応えて、地謡の・・・幽かなる跡絶えて舟影も人影も、消えて見えずなりにけり、跡消えて見えずなりにけり。
   シテ俊寛僧都は、茫然と立ち尽くし、シオリをして留める。
   平家物語のように、赦免状を何度も見直したり、裏返したり、必死なって乗船する康頼の袂に縋りついたり、纜に取り付けば櫓櫂を振り上げられたり、船端しがみ付いてせめて九州まで乗せて行ってくれと懇願して号泣する俊寛の修羅場は丁寧に演じられてはいるが、平家物語のサブタイトルにもなっている足摺だけは、精神性の高い能楽には、相応しくないのであろう。
   救いかも知れない。

   この「鬼界島」だけは、現実に生きる人間が登場するにも拘わらず、直面ではなく、この能だけの特別な面「俊寛」をつけると言う。
   歌舞伎では、冒頭から、老衰しきって足元も覚束なくよろけながらの登場で、俊寛の生き様を表現しているのだが、能では、絶海の孤島で極限の生活に生きる俊寛の究極の姿を、この面一面に凝縮して表す。
   「日焼けした肌に痩せ衰えた相貌を持つ面。頬の下に走る筋肉や口元からは、壮年の男性の気骨が感じられる。」と三浦裕子さんは言う。


   俊寛の愁嘆と絶望の場では、シテ/香川靖継師の時には激しい動きが揺れ動く俊寛の心の軌跡を追っているのだが、その面は殆ど上を向くことがなく、シオリやオモシオリの表情の悲しさは格別である。
   さて、俊寛だが、平家物語では、「大赦」の少し後段に「有王島下り」と言う段があって、法勝寺執行俊寛の侍童であった有王が、俊寛だけが帰洛しないので一目会いたいと鬼界島を訪ねて行って、餓鬼道に訪ね来たかと思う程悲惨な状態の俊寛に巡り合い、間もなく世を去る俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔うと言う感動的な話が語られている。俊寛の鬼界島での生活については、この段で詳しく語られているので、文楽や歌舞伎の舞台は、ここから大半の想を得ている。
   有王が鬼界島に行く前にたどたどしい手紙を書いた幼い姫御前は、有王から俊寛の最期を聞いて、憚ることなく号泣する。その後、奈良の法華寺に入り父母の後世を弔ったと言う。
   この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”

   
   この日、同時に上演された狂言は、シテ/太郎冠者・野村萬、アド/主・野村萬蔵の「栗燒」。
   主人が、丹波の伯父から貰った40個の栗を、客に出すために、太郎冠者に焼栗にするように頼むのだが、太郎冠者は、客に味を尋ねられて答えられなくては恥だと、味見するうちに、その美味さに負けて、全部食べてしまって、その言訳をしようとする話で、実に面白い。
   何よりも興味深いのは、扇子を使っての炭火で栗を焼く萬の器用な仕種で、特に熱い栗を一つ一つ拾い上げて、ふうふう言って冷ましながら皮を剥いて行く表情などは秀逸で、今回は、このシーンを観るだけでも値打ちがある。
   焼栗を持って行こうと思ったら、竃の神夫婦2人とその公達34人に呼び止められて栗を欲しいと言ったので与えて主人の富貴栄華を願ったと言い、残りの4つはどうしたと聞かれて、一つは虫食いで、後の3つは、栗焼く言葉に、逃げ栗・追い栗・灰紛れとあるように、それでなくなったと言う言訳が面白い。
   

(追記)口絵写真は、随分前に撮ったギリシャのスーニオン岬。俊寛の思いと重ならないであろうか。
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我々学生の安保反対デモは一体何だったのであろうか

2012年09月05日 | 政治・経済・社会
   先日、「吉田茂の見た夢」について書いたのだが、アイゼンハワー大統領の訪日を阻止するなど、学生たちが安保反対で全国的に激しくデモを繰り広げて、日本を騒然とさせていた頃、私も学生として、河原町のジグザグデモに参加していた。
   当時、京大構内では、至る所に革命騒ぎよろしく、派手なビラや立て看板や壁への殴り書きなどで騒然としていて、毎日のように学生大会が開かれていて、教授たちも、激しいアジ演説を行っていた。

   しかし、その後、海外でも色々な経験を重ねて、日本人として、永い間生きて来て、今頃になって、あの時の我々のデモは一体何だったのかと思っている。
   デモに反対してスト破りで授業を受けていたHなどは、今でも殆ど思想的にブレがないので見上げたものだと思っているが、その後、功成り名を遂げた友人たちの多くは、「わが祖国ソヴィエト・ロシアは!」と言った調子で左翼思想に傾倒して暴れまわっていたが、正に今昔の感である。
   私自身は、精々社会党程度の考えだったので、付き合い程度にデモに参加したと言ったところだが、果たして、どの程度、当時の日本の現状を理解していたのかと思うと、実に覚束ないのである。

   問題の安保改定だが、岸首相が、ダレス国務長官に改定の話を持ち出したら、「海外派兵できない日本が、安保を改訂して共同防衛の責任が取れるのか」と一蹴されて、「今に見ていろ!」と臍を噛んだと言う。占領時代の屈辱が、「独立国の完成」を真剣に考える最大のモチベーションであり、吉田も同じ気持ちで、「アメリカのための条約」を締結したことに悔いを残し、いつの日にかこれを対等な内容に変えたいと願い続けていたと言う。

  安保改定については、当時の国際情勢とわが国の自衛力を勘案すれば、国内の米軍基地完全撤退まで一足飛びに行ける状態ではないことは明白であった。
  岸首相が考えたのは、「日本国の安全」と「極東における国際的平和と安全」を守ることが駐留の目的だと明確化し、そして、日米共同防衛の観点から米国による日本の防衛義務を明示することであった。そして、駐留米軍の配置等は事前協議制にするなど、対等の軍事同盟としての性格を強化しようと言う構想だったと言う。
   ところが、岸の意図は、マスコミや左翼勢力の情報操作もあって、国民には正確に伝わらず、軍事国家への道を再び歩もうとしているとの誤解を生んで、政治家と国民とに大いなる不信感と溝が出来ていたのだと言う。 

   いずれにしろ、安保改定については、アメリカのみならず日本国民を説得することが大変だったのではあろうが、今、振り返って考えても、吉田や岸の国際情勢分析や外交政策の大枠については、殆ど間違っていない筈で、私たちは、何を亡霊にして戦っていたのかと言う疑問と、良くも考えずに、日本のためにと大声を上げて突っ走って来たなあと言う述懐が残る。
   私自身は、原爆保持には抵抗があるのだが、九条を含めて憲法の改正は、早ければ早い方が良いと思っているし、自衛力を強化して対等な日米関係を構築すべきだと思っている。
   危惧する人が多いが、日本が、かってのように軍事国家に逆戻りすることなど、失うものがあまりにも大きすぎることを考えれば、有り得ないと信じているし、平和国家を押し通して行けると思っている。
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北康利著「吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」

2012年09月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和会議の条約調印式の話から始まっていて、主に、吉田茂が、総理大臣として日本の政治の中枢にいて、どのような業績を残したのか、その壮絶な生き様を活写することによって、戦後最も重要な時期にあった日本の政治史をビビッドに描いている。
   後半は、私自身が、安保反対で河原町をジグザグ行進をして気勢を上げていた頃の思い出を髣髴とさせてくれるのだが、多少、私の記憶は、曖昧だとしても、現に、半世紀以上も前に実際に経験した当時の日本の姿を思い出させてくれて、非常に興味深かった。
   現在の政局塗れで全く先の見えない政治と同じで、当時の日本も迷走続きで、お粗末極まりない政治状態であったと言うことを感じて、全く、何も変わっていないなあと言う印象であったのも事実である。
   しかし、この本のタイトル後半の「独立心なくして国家なし」と言う吉田茂の信念が示しているように、日本のあるべき姿を壮大なスケールで描きながら、決死の覚悟で邁進していた政治家が居たと言うことは、非常に貴重なことだと思っている。
   少なくとも、吉田、鳩山、石橋湛山などの政治哲学と高邁な独立国家日本への思いは、復興期の乱世とは言え、今の政治家の多くとは一桁も二桁も桁が違っていたと言うことだけは事実のようである。

   この講和条約締結後に、白洲次郎などの止め時だと言う助言を蹴って、吉田は、権力欲の魔物に取りつかれたのだと揶揄され非難されながらも続投し続けたのは、自分自身で「独立国の完成」をやり遂げたかったからだと言われている。
   奇跡の日本再建を実現した軽武装と引き換えに経済復興を優先すると言う「吉田ドクトリン」も、「独立国の完成」と言う最終目的に近づくための一里塚であった。
   独立を確保するためにやむを得ず、講和の際に締結された日米安保条約も、あくまでアメリカの国益を優先した片務契約であって改訂の必要があり、アメリカ主導で制定された日本国憲法も当然改正すべしと考えていた。
   自由主義陣営の一員として米国との同盟堅持を国家の基本戦略としたが、自国防衛まで米国に依存することで国民の覇気が失われることを最も恐れ、国民に独立心のない国家などあり得ないし、それは国の形をしていても、所詮植民地か冊封国家と同じだと考えていたのである。

   憲法改正については、興味深い話があって、朝鮮戦争が勃発した頃、吉田は、マッカーサーに、第九条があっては、日本は軍事的な協力が出来ないので改正すると申し入れたようだが、直後にマッカーサーが解任となったので沙汰やみとなり、その後、アメリカからの軍事力増強圧力に抗するために、憲法改正を先のばしにせざるを得ず、それが、結果として、「吉田ドクトリン」を堅持するための防波堤となり、日本経済の高度成長の実現に貢献した。
   吉田の「独立国の完成」は、アメリカと敵対するのではなくて、親密な同盟関係を維持しながら、領土問題の解決や安保改訂などを進めて行き、あくまで、対等の立場で国際平和に貢献すると言うことだったが、「権力の亡者」と言う汚名との戦いの連続であったと言うことである。

   鳩山一郎は、総理大臣を目前にして公職追放にあって、総理の座を吉田に譲ったにも拘わらず、吉田が居座り続けることに憤懣やるかたないので、吉田の日米安保条約と引き換えにした屈辱外交には反対で、「日米安保破棄、早期改憲、自主的な軍事力整備」を主張し始めていた。
   また、鳩山は、日ソ国交回復が持論であった。面白いのは、自分を公職追放したアメリカを恨んでいたので、その裏返しだとも言われているが、実際、公職追放を強く提言したのはソ連であったとマッカーサーが吉田に言っていたと言う。
   ソ連と中国とに敵対しておれば国連加盟など望めないので、日ソ国交回復は必然の道ではあろうが、当時は、米ソ冷戦の言う大きな対立軸が生まれていて、どちらかの陣営に属することが不可欠な状況であり、むしろ、アメリカを利用して、その支援を受けながら国力を強化して「独立国の完成」を達成する方が近道だと吉田は考えていたのである。
   
   興味深いのは、吉田の「中ソ離間論」である。  
   東南アジア諸国に、”自由主義陣営に入った方が豊かになる”ことを具体的に示して共産党革命の連鎖を防ぎ、同時に中国の心をソ連から引き離して自由陣営入りさせようとする外交戦略で、そのためには、自由主義諸国が一致団結して東南アジア諸国に人的・物的な支援をし、国情を安定させるとともに経済発展を促すと言う考え方で、その結果、中ソの脅威がなくなれば日米安保条約の重要性も低下するので、「独立国の完成」に近づくと言うのであった。

   昭和31年(1951年)10月19日、鳩山首相は、日ソ共同宣言に調印して、日ソ国交回復が実現したが、帰途、アメリカに立ち寄ったが、大統領はおろか国務長官にも会えず、ロバートソン国務次官補が会うと言う極めて冷遇を受けたのだが、岸内閣になるまでは、日本の対米関係は冷え切ったままであったと言う。
   ウイキペディアによると、鳩山は、「近年、1955年に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、アメリカに打診していたことが明らかになっている。」と言うことだが、米国一辺倒の吉田と違って、もっと先を行った「独立国の実現」を目指していたのであろうか。
   この路線を踏襲せんとしたのか、或いは、誤ったのか、孫の鳩山由紀夫首相の対米政策や外交路線が異例づくめで、普天間基地問題への対応の拙さに加えて、対米関係が一気に悪化ししてしまったのは最近の話だが、日米関係をどうするのか、日本にとっては、今も昔も最も重要な案件であることには変わりがない。

   ところで、吉田と違って、鳩山一郎に対する国民の人気は大変なもので、日本各地で「鳩山ブーム」現象を引き起こしたと言う。
   一方、吉田と言う政治家は、国民は自分たちが指導して幸せにするべき対象であり、世論の動向に従って政治を進めていくなどと言うことを微塵も考えていなかった。貴族主義的な彼は、汚れ役は側近がやるものと心得、マスコミは勿論、国会で野党に質問されることさえ嫌い、しばしば国会をずるやすみした。本心は側近にしか明かさず、密室で物事を決めながら、自分の出した結果で国民に判断して貰おうとしたと言うことで、説明責任を果たそうとする姿勢など毛頭もなかったと言う。

   カメラマンに水をぶっかけ、バカ野郎解散で勇名を馳せるなど、国民をけむに巻いた逸話には事欠かないのだが、吉田の死後、息子の吉田健一が父親の蔵書を整理していたら、シェイクスピアのマクベスの「人生は歩きまわる影法師、哀れな役者だ」と言うところにアンダーダインがしてあったのを見つけたと言う。

   
   NHKは、現今の政治のお粗末さに嫌気をさしてか、カツを入れるためにか、週末から、渡辺謙主演で、吉田茂の「負けて、勝つ」を放映して、占領下の塗炭の苦しみから立ち直って復興への道を歩む日本の姿を見せてくれると言う。
   もう一度、しっかりと、今日の日本の原点とも言うべきあの時代を凝視してみる必要があると思っているので、大いに期待している。
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・時今也桔梗旗揚  

2012年09月03日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   染五郎の奈落転落事故で役者に交代のあった秀山祭で、この日観た夜の部で、「時今也桔梗旗揚」の小田春永が、染五郎から歌六に変更になった。
   丁度3年前のこの秀山祭で、この「時今也桔梗旗揚」が上演され、吉右衛門が武智光秀を演じて、大体、主要な役どころは今回と同じだったと思うが、小田春永は、富十郎であった。
   謂わば、この芝居は、光秀と、徹底的な暴君で、光秀を徹頭徹尾苛め抜く偏執狂的な春永との二人の心理戦争のようなものなので、春永役者の力量によって、芝居の出来不出来が大きく違って来る。
    
   前回の芝居の富十郎の春永に対して、私はこう記している。
   ”春永・富十郎は、灰汁の強さがない分あくどさが前面に出てこないので、極端な嫌味がなく、私など、この方が良かったと思うのだが、凛として滔々と流れるような高い声音が光秀の対極にあって良い。光秀を追い詰める暴君としては、もう少し、毒々しい凄さがあっても良いかのも知れないが、台詞回しだけで十分である。”

   この芝居での春永像だが、と言うよりも、織田信長については、日本の歴史を変えた屈指の偉大なリーダーだと思っているので、元々、鶴屋南北のこの姑息極まりない春永像には抵抗があり、単なる芝居のキャラクターだからそのつもりで見ようと思って見ている。
   しかし、やはり、信長と光秀の関係を意識するとそれも、それ程単純には切り替えられないもので、その意味では、全く印象の違う若い染五郎の舞台に期待をしていた。


   さて、歌六の春永だが、私自身は、これまで歌六の芸には心服しており、高野聖の親仁や、伊賀越道中双六「沼津」の平作などでの、非常に滋味深い人間性の滲み出た演技や、任侠ものの親分や忠臣蔵など古典の重要な脇役など、貫録のある渋くて重厚な演技には感服しているのだが、今回は、少し、ミスキャストの様な気がしている。
   仮にも、春永は、天下人寸前の権力者で、光秀の上司であるから、そこはかとした威厳と貫録がなければならないのだが、如何せん、苛め抜く相手が吉右衛門の光秀であるから、冒頭から位負けしていて、どうにも軽っぽくて嫌味だけが突出してしまう。
   そうであればある程、光秀が、何故こんな詰まらない暴君に、それ程まで這いつくばって耐えねばならないのか、隙を見て切り殺せば良いではないかと思ったりしてしまって、そのフラストレーションがつのって行く。
   他の多くの舞台、例えば、義経などの様に、それ程演技をせずに登場する比較的良い役なら別だが、丁々発止の火花が散るような対決で、このような相手の主役を心理的に追いつめて行くような舞台では、少なくとも、それを越えた威厳と貫録、そして、芸格の高さが要求される筈である。

   この「時今也桔梗旗揚」は、4代目鶴屋南北の珍しい歴史物で、怪奇と言うか鬼気迫る作品の多くとは、一寸雰囲気が違っているのだが、やはり、重臣である筈の光秀に、これだけの嫌がらせと悪質な苛めに徹して、万座の前で恥をかかせると言う作品に仕上げてしまうと、悪趣味の極みと言う以外にはないような気がする。
   唯一の救いは、堪忍袋の緒が切れて、本能寺の春永を討つ決心をして、勇み立つラストシーンである。
   明智光秀については、史実上いろいろ言われているが、大半は、江戸時代の価値観で処理されてしまっているような感じで、真実は藪の中だが、同じ光秀が主人公でも、人形浄瑠璃が元になっている「絵本太閤記」になると、光秀の扱いが、もっと、人間的になっており、面白くなっている。
   いずれにしろ、太平天国で、爛熟して(?)殆ど変化が止まって沈潜し切っていた江戸の世相を色濃く反映していて興味深いのだが、私には、重い舞台である。

   吉右衛門にとっては、推敲に推敲を重ねて満を持して立った舞台であるから、一挙手一投足を噛みしめながら演じている。
   下戸である筈の光秀が、無念残念の思いをかみ殺して、馬盥の酒を飲み乾す仕草を、幸いに少し斜めの席だったので双眼鏡で大写しで表情を見ていたが、何とも言えない程険しく崩した表情で断腸の悲痛を表現していたのだが、もう、吉右衛門は、演技の域を超越していて、光秀になり切っていた。
   凄いのは、シーン展開が悲劇的な様相を加えて行くにつれて、表情が徐々に険しさを増してくるのだが、その台詞回しが、テンポと表情に少しずつ変化を兆して悲劇性と凄さが現れて来ることで、心の起伏が途切れることなく流れるように展開して、クライマックスの終局に向かうことである。

   最後の出陣で大見得を切る四天王但馬守は、前回は幸四郎で、今回は梅玉。
   いつ見ても、絵になるシーンである。

   この日の夜の舞台の最後は、
   中村芝翫を忍んで、福助の「京鹿子娘道成寺」であった。
   道成寺ものには、随分バリエーションがあって面白いのだが、これは、もっと本格的で、鐘供養から、最後には、松緑の大館左馬吾郎が勇ましい恰好で花道から登場して渡り合う押し戻しまであって、福助が、厳つい隈取をした蛇身姿で鐘の上に立ち上がって幕となる。
   五頭身くらいの芝翫の踊りも優雅で美しかった筈だが、福助の花子には、更に、スタイルの良さが加わって、非常に華やかで綺麗な舞台で、1時間をはるかに超える長丁場を楽しませてくれた。
   ところで、もう20年以上も前の舞台写真だと思うのだが、「日本の近世 伝統芸能の展開」に芝翫の「京鹿子娘道成寺」の組写真が載っているのだが、鐘の上での見得では、隈取ではなく普通の顔である。

   歌舞伎座の正面の板囲いが少しずつ外されて、新装なった古い歌舞伎座のファサードが、見えて来ている。
   後半年で、新歌舞伎座がオープンのようだが、さよなら公演と同じで、当分は満員御礼となるのだろうが、今は端境期か、空席がある。
   来月から、国立劇場も始まるのだが、顔見世もあるので、客足もまずまずであろうか。
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国立能楽堂~講談・落語・六人僧

2012年09月01日 | 能・狂言
   昨年上演して好評だったので、今年も企画したと言う異種芸能のクロスオーバー「狂言と落語・講談」と言うちょっと変わった趣向の舞台が、国立能楽堂であったので出かけた。
   最近、国立演芸場に通って、落語や講談を聞いているので、私には何の違和感もないのだが、国立能楽堂と言う寄席とは全く違った雰囲気の舞台で、落語や講談が演じられると言うのは非常に面白い。

   講談は、宝井琴梅の「梅若丸」
   落語は、古今亭志ん輔の「子別れ」
   狂言は、シテ野村萬斎の万作の会の「六人僧」

   「梅若丸」は、能の「隅田川」を下敷きにした梅若もので、京の北白川からさらわれて隅田川の畔で亡くなった梅若丸を追って来た狂女の物語で、講談は、読み聞かせると言うのが本旨であるから、非常に丁寧に筋を追ってリズミカルに語るので、話の詳細が分かり、聞いていて楽しい。
   能の隅田川も、文楽の近松門左衛門の「雙生隅田川」も、まだ見たことはない。
   歌舞伎の隅田川は、見た記憶があるが、幣を結びつけた笹の枝を肩にかついで花道から登場する班女の前(確か芝翫)から、幻想的な舞台だが、台詞回しもはっきりしない物語性に欠けたような舞台だったので、それ程印象は定かではない。
   講談は、他の話とは少し違って、後日談が加わって、母は出家して妙亀尼と名乗って、梅若丸の菩提を弔うのだが、ある日、池の水面に写った自分の顔を我が子だと錯覚して追い求めるうちに、池の深みに足を取られて沈んで行くと言う結末を迎える。
   隅田川にやっと辿り着いて、一周忌の法要で集まる人々の様子から我が子の死を知らされて悲嘆に暮れる母の断腸の悲痛が、この物語の頂点だが、沢山ある母子ものの物語の中でも、京都からどんな思いで苦痛に苛まれながら東路を下って江戸まで辿り着いたのか、武蔵の国と下総の国の境の隅田川での結末は、あまりにも悲しい。

   古今亭志ん輔は、夏休みで子供の客も来ているので、子供の出る落語をやってくれと示唆されたのだが、先に梅若丸をやっているので、同じ主題をテーマにして続けるわけには行かないことになっているのだと笑わせながら、結局、子はかすがいと言う定番の「子別れ」の話をした。

   酒飲みでどうしようもない神田堅大工町の大工熊五郎が、女郎の惚気話まで始めたので、堪忍袋の緒が切れ、愛想も尽き果てたかみさんは、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。眼が覚めた熊は断酒をし、一生懸命になって働いて3年経ったある日、番頭さんと一緒に木材の選定に木場へ行く途中、とある街角に差し掛かった時、わが子亀が友達と遊んでいるのに出くわす。倅に五十銭の小遣いをやって「明日、もう一度会って鰻をご馳走する」と約束して分かれたのだが、家に帰った亀坊は、大金50銭に気付いた母に、夫の『形見』である金槌を振り上げられて、「これでぶてば、おとっつあんが叱るのと同じ事だよ。さ、どこから盗ってきたか言わないか」と折檻されて、父と会ったことを白状する。翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出し、自分も居たたまれずに、後から鰻屋の店先へ行って、亀坊の誘いに乗って、夫婦が再開する。
   ギコチナイ二人だが、そこは相思相愛に中、亀坊に煽られてハッピーエンドなのだが、「昔から、『子は鎹』と言うが本当だな」「えぇ」としみじみとなる夫婦に、横で見ていた亀が一言「『子は鎹』…か。道理で、おいらの事、トンカチで打つって言ったんだ」
   しみじみと胸を打つ良い人情噺である。

   熊五郎は、女郎を引き入れるのだが、幻滅するも、女郎から去られると言う体たらくなのだが、ふっと、夫婦善哉の映画で、淡島千景が森繁久彌に「どんなことをしてくれるの?」と身を寄せて女の手練手管を聞いていたシーンを思い出したが、「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」、男とは、目が覚めるまでは、どうしようもない生き物なのかも知れない。
   さて、古今亭志ん輔だが、『シェイクスピアを楽しむ会』で、リチャード三世やヘンリー六世をやっているようだが、どんな落語か、是非聞いてみたいと思っている。
   いずれにしろ、色々なジャンルの芸能芸術に幅を広げて、首を突っ込んでいると、色々な新しい発見や驚きがあって楽しいのである。

   最後の狂言「六人僧」は、大蔵流にはない狂言で、岩波講座の狂言鑑賞案内にも記載のない、6人も登場人物のある1時間近くもかかる珍しい狂言である。
   シテ/仏詣人(萬斎)が、諸国仏詣の大願を起して、男二人を誘い合って旅に出るのだが、途中、「どんなことがあっても腹をたてないようにする」と誓いを立てる。辻堂で一休みしている間に、二人が男を坊主頭にしてしまうのだが、約束の手前男は面と向かって怒れない。腹に据えかねた男は先に帰って、二人は死んだと嘯いて、二人の女房に落飾させて、その髪を持って二人を追っかけて行き、次第を語って泣き崩れる二人にも髪を落とさせる。帰り着いて妻たちの無事を知るのだが、一部始終を聞いていた仏詣人の妻(万作)も髪を落としていて、順繰りだが、6人すべてが出家となり、一蓮托生で、僧になり尼となって修行の旅に出る。
   宗教を何と心得ているのか、携帯電話のない時代であるから、確かめようもない悲喜劇だが、携帯があっても、振り込め詐欺が頻発し続けているのを見ても、人間は、中々、嘘を見抜けないのであろう。
   私の狂言鑑賞も、ぼつぼつ、満一年。少し楽しめるようになってきた。

   ところで、口絵写真は、このエッセーに何の関係もない何十年も前に訪れたパルテノンだが、古い旅写真を見ていて出て来たのでスキャンして出して見た。
   子供の頃、一番憧れたところで、これから私の海外への旅路が始まったので、懐かしいのである。

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