昨年上演して好評だったので、今年も企画したと言う異種芸能のクロスオーバー「狂言と落語・講談」と言うちょっと変わった趣向の舞台が、国立能楽堂であったので出かけた。
最近、国立演芸場に通って、落語や講談を聞いているので、私には何の違和感もないのだが、国立能楽堂と言う寄席とは全く違った雰囲気の舞台で、落語や講談が演じられると言うのは非常に面白い。
講談は、宝井琴梅の「梅若丸」
落語は、古今亭志ん輔の「子別れ」
狂言は、シテ野村萬斎の万作の会の「六人僧」
「梅若丸」は、能の「隅田川」を下敷きにした梅若もので、京の北白川からさらわれて隅田川の畔で亡くなった梅若丸を追って来た狂女の物語で、講談は、読み聞かせると言うのが本旨であるから、非常に丁寧に筋を追ってリズミカルに語るので、話の詳細が分かり、聞いていて楽しい。
能の隅田川も、文楽の近松門左衛門の「雙生隅田川」も、まだ見たことはない。
歌舞伎の隅田川は、見た記憶があるが、幣を結びつけた笹の枝を肩にかついで花道から登場する班女の前(確か芝翫)から、幻想的な舞台だが、台詞回しもはっきりしない物語性に欠けたような舞台だったので、それ程印象は定かではない。
講談は、他の話とは少し違って、後日談が加わって、母は出家して妙亀尼と名乗って、梅若丸の菩提を弔うのだが、ある日、池の水面に写った自分の顔を我が子だと錯覚して追い求めるうちに、池の深みに足を取られて沈んで行くと言う結末を迎える。
隅田川にやっと辿り着いて、一周忌の法要で集まる人々の様子から我が子の死を知らされて悲嘆に暮れる母の断腸の悲痛が、この物語の頂点だが、沢山ある母子ものの物語の中でも、京都からどんな思いで苦痛に苛まれながら東路を下って江戸まで辿り着いたのか、武蔵の国と下総の国の境の隅田川での結末は、あまりにも悲しい。
古今亭志ん輔は、夏休みで子供の客も来ているので、子供の出る落語をやってくれと示唆されたのだが、先に梅若丸をやっているので、同じ主題をテーマにして続けるわけには行かないことになっているのだと笑わせながら、結局、子はかすがいと言う定番の「子別れ」の話をした。
酒飲みでどうしようもない神田堅大工町の大工熊五郎が、女郎の惚気話まで始めたので、堪忍袋の緒が切れ、愛想も尽き果てたかみさんは、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。眼が覚めた熊は断酒をし、一生懸命になって働いて3年経ったある日、番頭さんと一緒に木材の選定に木場へ行く途中、とある街角に差し掛かった時、わが子亀が友達と遊んでいるのに出くわす。倅に五十銭の小遣いをやって「明日、もう一度会って鰻をご馳走する」と約束して分かれたのだが、家に帰った亀坊は、大金50銭に気付いた母に、夫の『形見』である金槌を振り上げられて、「これでぶてば、おとっつあんが叱るのと同じ事だよ。さ、どこから盗ってきたか言わないか」と折檻されて、父と会ったことを白状する。翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出し、自分も居たたまれずに、後から鰻屋の店先へ行って、亀坊の誘いに乗って、夫婦が再開する。
ギコチナイ二人だが、そこは相思相愛に中、亀坊に煽られてハッピーエンドなのだが、「昔から、『子は鎹』と言うが本当だな」「えぇ」としみじみとなる夫婦に、横で見ていた亀が一言「『子は鎹』…か。道理で、おいらの事、トンカチで打つって言ったんだ」
しみじみと胸を打つ良い人情噺である。
熊五郎は、女郎を引き入れるのだが、幻滅するも、女郎から去られると言う体たらくなのだが、ふっと、夫婦善哉の映画で、淡島千景が森繁久彌に「どんなことをしてくれるの?」と身を寄せて女の手練手管を聞いていたシーンを思い出したが、「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」、男とは、目が覚めるまでは、どうしようもない生き物なのかも知れない。
さて、古今亭志ん輔だが、『シェイクスピアを楽しむ会』で、リチャード三世やヘンリー六世をやっているようだが、どんな落語か、是非聞いてみたいと思っている。
いずれにしろ、色々なジャンルの芸能芸術に幅を広げて、首を突っ込んでいると、色々な新しい発見や驚きがあって楽しいのである。
最後の狂言「六人僧」は、大蔵流にはない狂言で、岩波講座の狂言鑑賞案内にも記載のない、6人も登場人物のある1時間近くもかかる珍しい狂言である。
シテ/仏詣人(萬斎)が、諸国仏詣の大願を起して、男二人を誘い合って旅に出るのだが、途中、「どんなことがあっても腹をたてないようにする」と誓いを立てる。辻堂で一休みしている間に、二人が男を坊主頭にしてしまうのだが、約束の手前男は面と向かって怒れない。腹に据えかねた男は先に帰って、二人は死んだと嘯いて、二人の女房に落飾させて、その髪を持って二人を追っかけて行き、次第を語って泣き崩れる二人にも髪を落とさせる。帰り着いて妻たちの無事を知るのだが、一部始終を聞いていた仏詣人の妻(万作)も髪を落としていて、順繰りだが、6人すべてが出家となり、一蓮托生で、僧になり尼となって修行の旅に出る。
宗教を何と心得ているのか、携帯電話のない時代であるから、確かめようもない悲喜劇だが、携帯があっても、振り込め詐欺が頻発し続けているのを見ても、人間は、中々、嘘を見抜けないのであろう。
私の狂言鑑賞も、ぼつぼつ、満一年。少し楽しめるようになってきた。
ところで、口絵写真は、このエッセーに何の関係もない何十年も前に訪れたパルテノンだが、古い旅写真を見ていて出て来たのでスキャンして出して見た。
子供の頃、一番憧れたところで、これから私の海外への旅路が始まったので、懐かしいのである。
最近、国立演芸場に通って、落語や講談を聞いているので、私には何の違和感もないのだが、国立能楽堂と言う寄席とは全く違った雰囲気の舞台で、落語や講談が演じられると言うのは非常に面白い。
講談は、宝井琴梅の「梅若丸」
落語は、古今亭志ん輔の「子別れ」
狂言は、シテ野村萬斎の万作の会の「六人僧」
「梅若丸」は、能の「隅田川」を下敷きにした梅若もので、京の北白川からさらわれて隅田川の畔で亡くなった梅若丸を追って来た狂女の物語で、講談は、読み聞かせると言うのが本旨であるから、非常に丁寧に筋を追ってリズミカルに語るので、話の詳細が分かり、聞いていて楽しい。
能の隅田川も、文楽の近松門左衛門の「雙生隅田川」も、まだ見たことはない。
歌舞伎の隅田川は、見た記憶があるが、幣を結びつけた笹の枝を肩にかついで花道から登場する班女の前(確か芝翫)から、幻想的な舞台だが、台詞回しもはっきりしない物語性に欠けたような舞台だったので、それ程印象は定かではない。
講談は、他の話とは少し違って、後日談が加わって、母は出家して妙亀尼と名乗って、梅若丸の菩提を弔うのだが、ある日、池の水面に写った自分の顔を我が子だと錯覚して追い求めるうちに、池の深みに足を取られて沈んで行くと言う結末を迎える。
隅田川にやっと辿り着いて、一周忌の法要で集まる人々の様子から我が子の死を知らされて悲嘆に暮れる母の断腸の悲痛が、この物語の頂点だが、沢山ある母子ものの物語の中でも、京都からどんな思いで苦痛に苛まれながら東路を下って江戸まで辿り着いたのか、武蔵の国と下総の国の境の隅田川での結末は、あまりにも悲しい。
古今亭志ん輔は、夏休みで子供の客も来ているので、子供の出る落語をやってくれと示唆されたのだが、先に梅若丸をやっているので、同じ主題をテーマにして続けるわけには行かないことになっているのだと笑わせながら、結局、子はかすがいと言う定番の「子別れ」の話をした。
酒飲みでどうしようもない神田堅大工町の大工熊五郎が、女郎の惚気話まで始めたので、堪忍袋の緒が切れ、愛想も尽き果てたかみさんは、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。眼が覚めた熊は断酒をし、一生懸命になって働いて3年経ったある日、番頭さんと一緒に木材の選定に木場へ行く途中、とある街角に差し掛かった時、わが子亀が友達と遊んでいるのに出くわす。倅に五十銭の小遣いをやって「明日、もう一度会って鰻をご馳走する」と約束して分かれたのだが、家に帰った亀坊は、大金50銭に気付いた母に、夫の『形見』である金槌を振り上げられて、「これでぶてば、おとっつあんが叱るのと同じ事だよ。さ、どこから盗ってきたか言わないか」と折檻されて、父と会ったことを白状する。翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出し、自分も居たたまれずに、後から鰻屋の店先へ行って、亀坊の誘いに乗って、夫婦が再開する。
ギコチナイ二人だが、そこは相思相愛に中、亀坊に煽られてハッピーエンドなのだが、「昔から、『子は鎹』と言うが本当だな」「えぇ」としみじみとなる夫婦に、横で見ていた亀が一言「『子は鎹』…か。道理で、おいらの事、トンカチで打つって言ったんだ」
しみじみと胸を打つ良い人情噺である。
熊五郎は、女郎を引き入れるのだが、幻滅するも、女郎から去られると言う体たらくなのだが、ふっと、夫婦善哉の映画で、淡島千景が森繁久彌に「どんなことをしてくれるの?」と身を寄せて女の手練手管を聞いていたシーンを思い出したが、「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」、男とは、目が覚めるまでは、どうしようもない生き物なのかも知れない。
さて、古今亭志ん輔だが、『シェイクスピアを楽しむ会』で、リチャード三世やヘンリー六世をやっているようだが、どんな落語か、是非聞いてみたいと思っている。
いずれにしろ、色々なジャンルの芸能芸術に幅を広げて、首を突っ込んでいると、色々な新しい発見や驚きがあって楽しいのである。
最後の狂言「六人僧」は、大蔵流にはない狂言で、岩波講座の狂言鑑賞案内にも記載のない、6人も登場人物のある1時間近くもかかる珍しい狂言である。
シテ/仏詣人(萬斎)が、諸国仏詣の大願を起して、男二人を誘い合って旅に出るのだが、途中、「どんなことがあっても腹をたてないようにする」と誓いを立てる。辻堂で一休みしている間に、二人が男を坊主頭にしてしまうのだが、約束の手前男は面と向かって怒れない。腹に据えかねた男は先に帰って、二人は死んだと嘯いて、二人の女房に落飾させて、その髪を持って二人を追っかけて行き、次第を語って泣き崩れる二人にも髪を落とさせる。帰り着いて妻たちの無事を知るのだが、一部始終を聞いていた仏詣人の妻(万作)も髪を落としていて、順繰りだが、6人すべてが出家となり、一蓮托生で、僧になり尼となって修行の旅に出る。
宗教を何と心得ているのか、携帯電話のない時代であるから、確かめようもない悲喜劇だが、携帯があっても、振り込め詐欺が頻発し続けているのを見ても、人間は、中々、嘘を見抜けないのであろう。
私の狂言鑑賞も、ぼつぼつ、満一年。少し楽しめるようになってきた。
ところで、口絵写真は、このエッセーに何の関係もない何十年も前に訪れたパルテノンだが、古い旅写真を見ていて出て来たのでスキャンして出して見た。
子供の頃、一番憧れたところで、これから私の海外への旅路が始まったので、懐かしいのである。