見たいと思っていた「俊寛」の能舞台を、やっと、国立能楽堂で観ることが出来た。
近松門左衛門の「平家女護島」による文楽や歌舞伎の舞台では、何度か見ているのだが、これは、作者の創作意図が色濃く出ていて、物語としては面白いのだが、やはり、平家物語のように、シンプルに、「赦文 俊寛赦免されず 足摺」に集中すれば、どのような舞台になるのか、正に、無駄を一切省いて削ぎに削いだ能の舞台で観たかったのである。
今回は、シテ/香川靖継で喜多流の舞台なので、タイトルは「鬼界島」となっているが、「俊寛」である。
能の舞台は、前場には、長月重陽の頃なので、俊寛が持って来た谷の水を菊の酒に見立てて三人で酌み交わして、今の境遇を嘆き都での暮らしを忍ぶシーンはあるが、後場で、使者ワキ/赦免使殿田謙吉たちが赦免状を持って舟で島に到着して以降は、大体、平家物語の筋に則って、ただ一人赦免されずに島に取り残される俊寛の断腸の悲痛が展開されていて壮絶でさえある。
ところで、近松の浄瑠璃の「平家女護島」であるが、平家物語と大きく違うのは、赦免使・丹左衛門が、俊寛については、重盛の計らいで九州までの帰参が許されたと告げたので、俊寛も乗船できたのだが、瀬尾から清盛の側室強要を拒否して妻・東屋が殺されたのを知らされたので、もはや都に未練はなく、俊寛の媒酌で祝言を挙げた、丹波少将成経の恋人千鳥が乗船を許されずに死のうとしたので、自分の替りに千鳥を船へ乗せて島に残ったことである。
俊寛としては、清盛に対する最後の男の意地と言うか、平家への抵抗だったのであろうが、小高い岩場によじ登って去り行く舟を見送る俊寛の心には、平家物語のように女々しい人間俊寛ではなく、悲哀と同時に男として意地を通そうとした悲壮な心情が際立っていて感動を呼ぶ。
さて、平家物語だが、ここでの俊寛は、徹頭徹尾、孤島に取り残される悲哀に泣き断腸の悲痛を曝け出し、
”・・・とりつき給う手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなしに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんぞをしたふように、足摺りをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とわめきさけべども、漕ぎ行く船のならひとて、あとは白波ばかりなり。”
この後、俊寛は、粗末な寝所へも帰らず、渚で波に足を洗われ、夜露にうたれて夜を明かすのだが、少将は情け深い人だから、清盛に良いように取り成してくれるであろうと頼みに望みを託すと言うところで終わっているのだが、
能では、これを受けて、最後に、
成経/康頼が、帰ったら良きように取り計らうのでやがて帰洛は叶うのであろうから気を強く持てと言う言葉に、
シテ これは真か、 地謡 なかなかに、 シテ 頼むぞよ、と応えて、地謡の・・・幽かなる跡絶えて舟影も人影も、消えて見えずなりにけり、跡消えて見えずなりにけり。
シテ俊寛僧都は、茫然と立ち尽くし、シオリをして留める。
平家物語のように、赦免状を何度も見直したり、裏返したり、必死なって乗船する康頼の袂に縋りついたり、纜に取り付けば櫓櫂を振り上げられたり、船端しがみ付いてせめて九州まで乗せて行ってくれと懇願して号泣する俊寛の修羅場は丁寧に演じられてはいるが、平家物語のサブタイトルにもなっている足摺だけは、精神性の高い能楽には、相応しくないのであろう。
救いかも知れない。
この「鬼界島」だけは、現実に生きる人間が登場するにも拘わらず、直面ではなく、この能だけの特別な面「俊寛」をつけると言う。
歌舞伎では、冒頭から、老衰しきって足元も覚束なくよろけながらの登場で、俊寛の生き様を表現しているのだが、能では、絶海の孤島で極限の生活に生きる俊寛の究極の姿を、この面一面に凝縮して表す。
「日焼けした肌に痩せ衰えた相貌を持つ面。頬の下に走る筋肉や口元からは、壮年の男性の気骨が感じられる。」と三浦裕子さんは言う。
俊寛の愁嘆と絶望の場では、シテ/香川靖継師の時には激しい動きが揺れ動く俊寛の心の軌跡を追っているのだが、その面は殆ど上を向くことがなく、シオリやオモシオリの表情の悲しさは格別である。
さて、俊寛だが、平家物語では、「大赦」の少し後段に「有王島下り」と言う段があって、法勝寺執行俊寛の侍童であった有王が、俊寛だけが帰洛しないので一目会いたいと鬼界島を訪ねて行って、餓鬼道に訪ね来たかと思う程悲惨な状態の俊寛に巡り合い、間もなく世を去る俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔うと言う感動的な話が語られている。俊寛の鬼界島での生活については、この段で詳しく語られているので、文楽や歌舞伎の舞台は、ここから大半の想を得ている。
有王が鬼界島に行く前にたどたどしい手紙を書いた幼い姫御前は、有王から俊寛の最期を聞いて、憚ることなく号泣する。その後、奈良の法華寺に入り父母の後世を弔ったと言う。
この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”
この日、同時に上演された狂言は、シテ/太郎冠者・野村萬、アド/主・野村萬蔵の「栗燒」。
主人が、丹波の伯父から貰った40個の栗を、客に出すために、太郎冠者に焼栗にするように頼むのだが、太郎冠者は、客に味を尋ねられて答えられなくては恥だと、味見するうちに、その美味さに負けて、全部食べてしまって、その言訳をしようとする話で、実に面白い。
何よりも興味深いのは、扇子を使っての炭火で栗を焼く萬の器用な仕種で、特に熱い栗を一つ一つ拾い上げて、ふうふう言って冷ましながら皮を剥いて行く表情などは秀逸で、今回は、このシーンを観るだけでも値打ちがある。
焼栗を持って行こうと思ったら、竃の神夫婦2人とその公達34人に呼び止められて栗を欲しいと言ったので与えて主人の富貴栄華を願ったと言い、残りの4つはどうしたと聞かれて、一つは虫食いで、後の3つは、栗焼く言葉に、逃げ栗・追い栗・灰紛れとあるように、それでなくなったと言う言訳が面白い。
(追記)口絵写真は、随分前に撮ったギリシャのスーニオン岬。俊寛の思いと重ならないであろうか。
近松門左衛門の「平家女護島」による文楽や歌舞伎の舞台では、何度か見ているのだが、これは、作者の創作意図が色濃く出ていて、物語としては面白いのだが、やはり、平家物語のように、シンプルに、「赦文 俊寛赦免されず 足摺」に集中すれば、どのような舞台になるのか、正に、無駄を一切省いて削ぎに削いだ能の舞台で観たかったのである。
今回は、シテ/香川靖継で喜多流の舞台なので、タイトルは「鬼界島」となっているが、「俊寛」である。
能の舞台は、前場には、長月重陽の頃なので、俊寛が持って来た谷の水を菊の酒に見立てて三人で酌み交わして、今の境遇を嘆き都での暮らしを忍ぶシーンはあるが、後場で、使者ワキ/赦免使殿田謙吉たちが赦免状を持って舟で島に到着して以降は、大体、平家物語の筋に則って、ただ一人赦免されずに島に取り残される俊寛の断腸の悲痛が展開されていて壮絶でさえある。
ところで、近松の浄瑠璃の「平家女護島」であるが、平家物語と大きく違うのは、赦免使・丹左衛門が、俊寛については、重盛の計らいで九州までの帰参が許されたと告げたので、俊寛も乗船できたのだが、瀬尾から清盛の側室強要を拒否して妻・東屋が殺されたのを知らされたので、もはや都に未練はなく、俊寛の媒酌で祝言を挙げた、丹波少将成経の恋人千鳥が乗船を許されずに死のうとしたので、自分の替りに千鳥を船へ乗せて島に残ったことである。
俊寛としては、清盛に対する最後の男の意地と言うか、平家への抵抗だったのであろうが、小高い岩場によじ登って去り行く舟を見送る俊寛の心には、平家物語のように女々しい人間俊寛ではなく、悲哀と同時に男として意地を通そうとした悲壮な心情が際立っていて感動を呼ぶ。
さて、平家物語だが、ここでの俊寛は、徹頭徹尾、孤島に取り残される悲哀に泣き断腸の悲痛を曝け出し、
”・・・とりつき給う手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなしに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんぞをしたふように、足摺りをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とわめきさけべども、漕ぎ行く船のならひとて、あとは白波ばかりなり。”
この後、俊寛は、粗末な寝所へも帰らず、渚で波に足を洗われ、夜露にうたれて夜を明かすのだが、少将は情け深い人だから、清盛に良いように取り成してくれるであろうと頼みに望みを託すと言うところで終わっているのだが、
能では、これを受けて、最後に、
成経/康頼が、帰ったら良きように取り計らうのでやがて帰洛は叶うのであろうから気を強く持てと言う言葉に、
シテ これは真か、 地謡 なかなかに、 シテ 頼むぞよ、と応えて、地謡の・・・幽かなる跡絶えて舟影も人影も、消えて見えずなりにけり、跡消えて見えずなりにけり。
シテ俊寛僧都は、茫然と立ち尽くし、シオリをして留める。
平家物語のように、赦免状を何度も見直したり、裏返したり、必死なって乗船する康頼の袂に縋りついたり、纜に取り付けば櫓櫂を振り上げられたり、船端しがみ付いてせめて九州まで乗せて行ってくれと懇願して号泣する俊寛の修羅場は丁寧に演じられてはいるが、平家物語のサブタイトルにもなっている足摺だけは、精神性の高い能楽には、相応しくないのであろう。
救いかも知れない。
この「鬼界島」だけは、現実に生きる人間が登場するにも拘わらず、直面ではなく、この能だけの特別な面「俊寛」をつけると言う。
歌舞伎では、冒頭から、老衰しきって足元も覚束なくよろけながらの登場で、俊寛の生き様を表現しているのだが、能では、絶海の孤島で極限の生活に生きる俊寛の究極の姿を、この面一面に凝縮して表す。
「日焼けした肌に痩せ衰えた相貌を持つ面。頬の下に走る筋肉や口元からは、壮年の男性の気骨が感じられる。」と三浦裕子さんは言う。
俊寛の愁嘆と絶望の場では、シテ/香川靖継師の時には激しい動きが揺れ動く俊寛の心の軌跡を追っているのだが、その面は殆ど上を向くことがなく、シオリやオモシオリの表情の悲しさは格別である。
さて、俊寛だが、平家物語では、「大赦」の少し後段に「有王島下り」と言う段があって、法勝寺執行俊寛の侍童であった有王が、俊寛だけが帰洛しないので一目会いたいと鬼界島を訪ねて行って、餓鬼道に訪ね来たかと思う程悲惨な状態の俊寛に巡り合い、間もなく世を去る俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔うと言う感動的な話が語られている。俊寛の鬼界島での生活については、この段で詳しく語られているので、文楽や歌舞伎の舞台は、ここから大半の想を得ている。
有王が鬼界島に行く前にたどたどしい手紙を書いた幼い姫御前は、有王から俊寛の最期を聞いて、憚ることなく号泣する。その後、奈良の法華寺に入り父母の後世を弔ったと言う。
この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”
この日、同時に上演された狂言は、シテ/太郎冠者・野村萬、アド/主・野村萬蔵の「栗燒」。
主人が、丹波の伯父から貰った40個の栗を、客に出すために、太郎冠者に焼栗にするように頼むのだが、太郎冠者は、客に味を尋ねられて答えられなくては恥だと、味見するうちに、その美味さに負けて、全部食べてしまって、その言訳をしようとする話で、実に面白い。
何よりも興味深いのは、扇子を使っての炭火で栗を焼く萬の器用な仕種で、特に熱い栗を一つ一つ拾い上げて、ふうふう言って冷ましながら皮を剥いて行く表情などは秀逸で、今回は、このシーンを観るだけでも値打ちがある。
焼栗を持って行こうと思ったら、竃の神夫婦2人とその公達34人に呼び止められて栗を欲しいと言ったので与えて主人の富貴栄華を願ったと言い、残りの4つはどうしたと聞かれて、一つは虫食いで、後の3つは、栗焼く言葉に、逃げ栗・追い栗・灰紛れとあるように、それでなくなったと言う言訳が面白い。
(追記)口絵写真は、随分前に撮ったギリシャのスーニオン岬。俊寛の思いと重ならないであろうか。