このところ、中国(シナではない。昔からの意味での中国地方)で痛ましい少女の事件が報じられている。自宅の近くでも被害にあう。
それに付けても考えさせられるのがジャリンコが一人で付き添いもなく都会のジャングルを通学する風習のおそろしさ、親の無神経さである。時々乗るバスで時刻どき(昼飯時ではない、それよりちょっと後)、幼稚園だか小学校の低学年だが生徒が大量に乗り込んできてバスの中は身動きが出来ないほど込むことがある。
学校のひけどきなのだろう。近くに有名な学校がある。車内はてんでに夢中になって甲高い声を張り上げて話す子供たちで、まるで日暮れ時街路樹に無数に群がってさえずるムクドリの大群に遭遇したような按配となる。降りようと思って、声をかけても話に夢中になっていて聞きもしない。付き添いの教師も出迎えの親もいない。しつけもないにもあったものではない。
それでも、集団でいるうちはまだいい。やがて地下鉄やJRの駅に着くとてんでに分かれて家路につく。日本の子供ほど、驚くほど遠くから、幼いうちから一人で通学する。有名校というブランドにバカ親はぞっこん弱いからである。
今度はJRに乗る(私がである。忙しいものだ)。子供がいる。大抵は数人から二、三人で固まって、からだのわりにバカでかいランドセルを背負って車内を駆け回る。大声で叫ぶ。やがてグループがばらけて一人になる。一時間以上をかけて通学するのはザラらしい。駅に着く。昔は7,8歳の幼女がやおらテレフォンカードを取り出して駅構内から、おそらく自宅へだろう、電話をかけている。考えてみればこましゃくれたというよりか、異様な風景だ。世界の非常識は日本の常識だと変なパイプマンはいうだろう。
最近ではみんな携帯電話をかけている。親がもたせて定時連絡をさせれば安心と思っているのだろうが考えがあさはかだ。
ついでだから言っておくが、このごろの親は子供に妙な名前をつけるね。おそらく母親主導なんだろう。私は姓名判断の権威であるが、事件事故の被害者には不自然な名前が多い。ロマンチックだとおもうのだろう。また、おそれ、つつしんで個人の名前に使うべきではない立派な漢字が使われているものが多い。親は親なりの凝った考えがあるのだろうが考え物だ。本人が漢字負けしてしまう。
事件事故の報道があると私はまず被害者の名前をみる。子供でも大人でもだ。大勢死んだJRの事故などでも丹念に被害者の名前をチェックする。おおいね。問題があるなまえが。姓名判断はなにも画数だけでやるのではない。平凡、自然な名前がよい。女だったら、トラ、クマ、ステ、花子なんていうのが無難である。一生を事件や事故にあわず、まっとう出来る。