東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

犯罪被害者の実名報道

2005-12-28 08:51:03 | 社会・経済

マスコミの「代表」が警察の発表は全部実名にしろと肩を怒らしている。

おととい来い、だ。泥田に咲く蓮という表現がある。泥沼に咲く蓮、だったかな。掃き溜めに鶴とも言う。汚らしいところにつりあわない美しいものが混じることを言う。

苦界に身を沈める女の数は多くても吉原や島原でおいらん道中を出来るのはほんの一握りだ。一人か二人の太夫を出すためには無数の遊女が必要というわけだ。このような世界がマスコミや芸能界である。芸術家の世界もそうだろう。一人のスターを出すためには得体の知れない、薄汚い無数の無頼漢的アーティストという肥溜め(発酵母体)が必要という悲しい現実である。

一人のまともなジャーナリストを出すためには、無数の正体不明の新聞記者が必要というわけだ。これが民主主義のためには我慢しなければならないことだというのだ。民主主義も高くつく。

加害者報道についてマスコミはまず反省すべきだろう。世間の耳目を集める事件が起こると犯人、容疑者についての無数の報道がなされる。とぼしい語彙を駆使して、驚くほど限られた情報のまわりを繰り返し、手を変え品を変えてステロタイプのどぎつい扇情的な報道が。しかし本当に事件の核心と思われる情報を読者に伝えているプロのジャーナリストがどれだけいるか。

相手の背後に恐ろしい勢力があると、たちまち安易な報道自己規制が全社画一でしかれる。自己検閲が行われる。あっけにとられる光景が毎度である。ハウ和団体とか、マイノリティといわれるエスニック・グループがいるとか、「とんだところで江田村典膳」とかなるとたちまちしり込みする。こんなマスコミに警察はすべて実名でマスコミに教えろ、それを報道するかどうかはマスコミの自主的判断にまかせてもらいたいと言われても、危なっかしくてしょうがない。

一つ例を挙げるが、前にも触れたが五年前の世田谷一家四人惨殺事件というのがある。初めの頃は、被害者家族の主人は外資系コンサルタント勤務と伝えられたが、会社名も仕事内容も報道されなかった。犯行の手口から見ても、この仕事がらみの事件の可能性が一番強いと思われるが、マスコミが取材した形跡もない。そのうちに彼の職業は「会社員」と素っ気無く報道されるようになった。このことが、逆にいろいろマスコミの自己検閲にいたる背景を推測させるわけである。

被害者のご両親だったか、犯人の情報について懸賞金をかけていると報道されたが、この方は彼の職業、会社名、事件前の仕事内容といった情報をあきらかにしているのだろうか。もし、そういうことを伏せておくと、懸賞金をかけてもあまり効果がないだろう。5年たっても、繰り返し報道するのは犯人の着衣だとか、靴のメーカーだとかだ。そんな情報で犯人に迫れるならとっくの昔に解決している。