国民は天皇の声を昭和二十年八月十五日正午のいわゆる玉音放送で初めて聞いた。
放送事業開始前は国民が玉音を聞く機会は勿論なかった。放送事業開始後も天皇が放送で話すこともなかった。極端な神格化を進めたので、神の声が民草の耳に聞こえるわけがない、という政権側の配慮である。八月十五日正午、国民は初めて「へえ、こういう声をして(いらっしゃるのだ)」と聞いたのである。
天皇は1946年(昭和二十一年)から1954年まで全国巡幸を始めた。国民は声を聞くだけでなく、天皇の姿を間近に拝見し、国民に語り掛ける姿に接したのである。これは実に有史以来最大のハラダイム・チェンジであった。
勿論昔から天皇が巡幸で地方に行くことはあったが、吉野や伊勢など各地の神社聖地へ国家安泰の祈願に行くためで国民に接することが目的ではない。昭和天皇の巡幸は各地で熱烈な歓迎をうけ、国民に感動を与えたが、大戦の内地への惨害がようやく終わった翌年のことである。このことは戦争の責任が奈辺にあったかを、国民がどう理解していたかを如実に物語っている。
それは理不尽な欧米諸国による日本に対する徹底的経済封鎖であった。またその経済封鎖という相手側の挑発戦略にまんまとはまり、軍部政府が幼稚な対応をしたためであると国民は理解していたのである。
この国民の熱狂は対外的にも大きな影響、印象を与えたことは間違いない。戦勝国の対日政策の変換にも影響を与えた。