これは日本の右翼がほとんど総出で皇位継承問題(具体的には昭和天皇「当時皇太子」のお后選び)で政界実力者に揺さぶりをかけた事件である。某重大事件と言い慣わしているが、これは具体的に生々しく言うと、憚りありということであろうか。それにこれは実に深刻な影響を後に残した紛争であるにもかかわらずマスコミ紙上にはまったく現れなかったせいかもしれない。
皇太子殿下の婚約が内定したのは大正7年である。お相手は久邇宮邦彦王の長女良子である。母はちか子妃で、公爵島津忠義の七女である。島津忠義の父は西郷の嫌った島津久光、すなわち斉彬の異母弟である。久光は維新後左大臣となる。良子妃の生母は寿満という。
母方をたどると曽祖父久光から四代の間におゆらと寿満の二回庶系がある。
中学三年生だった良子妃は学習院を退学して皇后になるための教育をお受けになっていたが、大正9年、良子妃の兄が学習院での身体検査で色弱であることがわかり、そのことが元老の山縣有朋に伝えられた。山縣が西園寺公望と松方正義の二人の元老に相談したことから問題は大きくなり、とうとう東京帝国大学医学部の5人の教授が診断することになった。一方では婚約を取り消すべきだという意見があり、それに反発する意見があり、大騒ぎになった。生母寿満が軽度の色盲であったためという。
問題を聞きつけた右翼はほとんどが婚約の辞退を求める山縣に反対した。皇太子、良子妃の教育を担当した杉浦重剛が国家主義運動の実力者である頭山満と親しかったところから、右翼はほとんどが婚約解消に反対した。北一輝などは山縣など元老たちの暗殺団を組織したという噂もながれた。
結局大騒ぎののち、翌年宮内大臣は婚約には変更がないという声明を発表して事件の幕はおりた。元老山縣は右翼の言論、示威活動に敗れたのである。維新以来画期的な出来事である。以後、昭和の不安定、混乱期へと一気になだれ込むのである。やがて、軍閥が藩閥に変って実権を握るようになる。軍閥というのは高級軍人官僚の集団であって、確固とした核のない未成熟の星雲のような、頼りなげに空に漂う浮雲のようなものである。元老から軍閥へと権力が移った最大の結果は、軍事が政治の手段ではなくなったことである。
官僚は自分の仕事を自己目的化する。本来、外交も軍事も政治の手段として用いられないととんでもないことになる。また官僚であるから、責任をはっきり取るものがいなくなった。政治も行政も有効に機能しなくなったのである。これは平成の官僚支配の実態とまったく同じと言えよう。