今日は89年前の1932年(昭和7)、海軍将校が首相の犬養毅を殺害した日、いわゆる5,15事件の日である。これ以降、終戦まで政党人が首相の座に就くことがなかった。政党政治が死んだ日といえる。凶弾を受ける前に将校に、「話せばわかる」言ったことが、犬養毅を象徴する言葉として語られる。
昭和天皇から、「ファショに近きものは絶対に不可」と元老西園寺公望を介して伝えられ、首相に就いた犬養毅である。明治維新の後日本の政治を抑えていたのは、薩長土肥である。一旦政界を退いていた犬養は、藩閥と軍による横暴に対抗して、普通選挙権を成人男子に与え護憲三派が圧勝し、第一政党になった立憲政友会が組閣することになる。元老には連立(協力)内閣を要請されるが、犬養は単独内閣を選択する。
血盟団事件に続く5.15事件は、軍縮を目指し財政を立て直す政党政治は、満州ひいては中国に利権を拡大を目指す軍にとって犬養は目障りそのものである。孫文など中国に起きつつある、民主的政党を日本の政党の奥は支持育成して他たのである。
1921年に原敬首相が暗殺され、1930年に浜口雄幸首相が東京駅で撃たれ半年後に死亡する。しかし政党政治はまだ生きのこっていた。
事件後多くの政党人は繰り返されるテロに恐れをなし、西園寺は軍を基盤とする人物との協力内閣を示すが、元海軍大将の斎藤実が首相になった。
5.15の襲撃者た日の裁判が始まると、助命嘆願運動運動が始まっている。事件の実行犯の愛国心を評価し、政党の腐敗や軍縮への批判が背景にあったのであろう。このことは2.26事件ではさらに明確になってゆく。明らか軍部に一部が関わっていた、2.26事件・クーデターであるが、やがて政権の中枢に収まってゆくことになる。
国民に愛国心を鼓舞し、危機感を煽り軍事力の強化をさらに進める。その間にいかなる失政があっても、為政者がいかなる不受理や犯罪に加担しても、支持者はそうしたことに目をつむり、健全な論議がなされない。現在の日本は政権政党が、犯罪に係わり、近親者を優遇し、私怨で執政をし、政党内でも政権間でも開かれた論議もなく、政党政治の体をなしていない。日本はほどなく軍事拡大へ進み、5.15の後と同じ道を歩むのかに見える。