2022年起きた安倍晋三銃殺事件は、この年最大の事件と後年語り継がれることは間違いないだろう。
この事件は極めて特異で多様な側面を持つことが次第に明らかになてくる。未だに事件の意味や評価が定まっていない。事件の呼び名も決まっていない。それどころか時間が経つにつれて、次第にその評価は大きく振れ振幅は大きくなっているかに見える。
政権の側は当初、民主主義への挑戦、許されないテロ事件、と危機感を煽る言葉を並べたてた。しかし実行犯の犯行動機などが明らかいなるにつれ、山上徹也をテロリストに仕上げるには、かなり無理があることに気が付き態度が大きく変わった。この事件を政治的に利用する価値が低いことに気づく前に、岸田は深慮せずに安倍晋三の国葬を事件後僅か6日で決定してしまう勇み足をしてしまった。
自民党内に統一教会との大きく無数のパイプが存在し、根も深く長期に及んでいることが知れてしまった。もしくは地下深く伏せ隠匿していた恥部が、衆目の下に晒されたことへの修復と隠ぺい作業に明け暮れる。
自民党は所属の議員にアンケート調査をしたが、党外の誰をも納得させるものでもない表在的な自己申告である。統一教会との接点を報告した議員は、「統一教会とは知らなかった」と判を押した異口同音の弁明が哀れでもある。統一教会とし知らなかったのは政治家として失格でもあることのに気が付きもしない感覚。
党所属の衆議院議議長を細田を、会派離脱という理由で対象にしなかったり、死亡を理由に最も関係の深かった安倍晋三を調査から外したりと、明らかに後ろ向きの対応は事件の経年劣化を待つ姿勢といえる。統一教会事件は自民党を浄化する能力がない。
勝共連合としてターゲットになった共産党以外の政党は、この事件の評価に躊躇する。とりわけ立憲民主党の泉健太代表は、政治的感覚の鈍感さから左右に上下に定まらない動きを繰り返す。安倍晋三の国葬参加についてやっとたどり着いた結論が、「”党幹部”は参加しない」という与野党何処にも評価をされない、曖昧なものであった。野田は出席する。維新も国民民主も権力に従順である。
統一教会問題は野党を強力にすることも出来ない。
報道側で最も酷かったのはNHKである。宗教団体に対する逆恨みからの犯行と、数日間統一教会の名前さえ伏せたままであった。公共放送としてのNHKの底を見た感がある。ニュース報道も緩慢である。統一教会に握られた何か不都合なことがあるのか。れいわの山本太郎に問われて、黙すのも不自然である。
TBSの報道特集が足で稼ぐ取材で健闘している。それとBSの報道番組がそれなりに健闘しているが、
そんな中で今回の事件で、最も留飲を下げているのは山上達也自身であろう。留置所内でどれほどの情報が得られているかは疑問であるが、少なくとも彼の思いは達成できたろうし、反響は予測を多きく越えたであろう。バブルの時代に進学できなかった恨みは、同時代の秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大の苦悶と重ねることができる。
山上を精神異常者にするようにも見えるが、ことの本質を見失ってしまう。山上は統一教会への怨念を晴らす最高のターゲットを殺害できた。山上効果は彼の当初の目論見を大きく超えて、日本を席巻し政権を揺るがす。統一教会は身動き取れなくなった。格好の金ずる、看板、政治活動の場を失うことになる。
統一教会が宗教団体の指定解除を自民党は拒むだろう。ましてや解散命令も出すことも出来ないだろう。当分は世間の鎮火を待つであろうが、それでも統一教会は最大の拠点、最大の資金源を失うことになる。
自民党は浄化能力がない。同様に鎮火を待つであろうが、政権を失うほどのダメージをこの国の国民は与えることがないだろう。これまでも繰り返された無数の不祥事や疑獄に国民は寛容であったからである。修復能力を失った社会は、また同類の事件を起こすだろう。