水島朝穂著「ライブ講義 徹底分析 集団的自衛権」岩波書店1800円を読んだ。法律の門外漢にとって、退屈であり難解な部分が少なくないが、国会中継などを見ていたり、毎週更新される水島氏のサイト、平和憲法のメッセージに目を通しているので、かなり読めたとは思う。
国会のでは野党側の質疑に、政権側はまともに答えられない。平気で前言を撤回するし、質問の意味すら理解していないことも少なからずある。11本もの法案を束ねた法案提出が極めて乱暴で、細かなところでは法案が精査されておらず、安倍晋三や中谷元が答えられないのは当然である理由が本書で分かった。
憲法は国家権力の暴走を抑えるために存在している。国家は憲法で授権されたことしかできない。しかしながら、安倍晋三は自らをその上に存在する権力者として、憲法を位置づけている。そのため、憲法を自在に操ろうとしているのである。ナチスが行ったよう(授権法)にして、憲法を下に置く行為そのものが、集団的自衛権の行使容認の昨年7月1日の閣議決定である。これは法治国家、立憲主義の根幹を否定する行為である。
自衛隊を合憲とする最高裁判決は存在していない。高村副総裁らが引き合いに出した、砂川判決は、アメリカの指示に従ったアメリカ軍駐留の判決であり、自衛隊は関係ないしましてや自衛権どころか集団的自衛権については全く関係ない判決である。彼らはいまだに、砂川判決を引き合いに出して集団的自衛権を最高裁が判断したとしているが、虚偽の根拠である。
自衛隊は戦力ではない、自衛力である(内閣法制局1954年)と言い続けてきた。軍隊でもなく専守防衛の自衛”隊”である。憲法は自衛権を否定していないと解釈し、この自衛力のため「個別的自衛権」の存在を引き出したものが自衛隊である。
安倍政権の唱える世界のどこにでも行ける集団的自衛権の行使容認は、明らかに専守防衛を越えた概念と言える。地域も広がり武力行使の質も広がり量も増える。自衛隊をギリギリ合憲としてきた概念を、安倍晋三は壊したのである。それでいながら、専守防衛は変わらないと、平然とこれを否定する。
最もばかげているのは、武力行使の新三要件である。「我が国の存立危機」を巡っては国会でのやり取りでも、引き合いに出された事例がことごとく後にひっこめられている。他国が攻撃されて、日本が存立危機に陥る事例などは、だれも全く説明できていない。こうした事態は『他国の戦争に巻き込まれるのではなく、巻き込まれにゆく』のが、集団的自衛権行使の本質である。助けに行く行為は、他国から見ると攻撃してもいない日本からの攻撃は、戦火の拡大を意味する。
他国が攻撃されて日本が存立危機事態に陥る滑稽な図式は、他国防衛を自国防衛と言い換える矛盾でしかない。
「必要最小限度」の集団的自衛権行使などない。安倍晋三はこれを量的概念であって、質的・絶対的概念ではないというのである。戦時の流動的状況では戦闘の質が変化することをを理解しない、都合のいい身勝手な解釈である。戦闘の量が圧倒的に高まれば、自衛の量も質も高まる。最小限などという概念は即座に否定される。
自衛権は本来持っている国家の権利であり、自然権の中に含まれるというのは間違いである。自衛権の概念は個人のものであり、国家が生まれながら持っているものではない。自然権は個人のものである。
戦前の軍部の発想と、7,1の閣議決定は酷似する。山本五十六の、「自衛権ヲ行使シ得ル条件」の5条件は、その後の戦争が自衛権の発動であると位置付けている。満州事変も支那事変も太平洋戦争も自衛権の発動である。安倍はさらに集団的という概念で、戦争理由を拡大させた。
報復的やり方は「テロ」に栄養を与える。水島氏はこう指摘する。暴力は新たな暴力を産む。アメリカは世界を暴力的解決を未だに試みている。その国家の軍隊を補佐しようとするのが、安保法制であり、戦争法と呼ばれるゆえんである。世界は変わったというが、変わったのはアメリカでありその補佐役を日本がやるというのが戦争法の本質である。
国会のでは野党側の質疑に、政権側はまともに答えられない。平気で前言を撤回するし、質問の意味すら理解していないことも少なからずある。11本もの法案を束ねた法案提出が極めて乱暴で、細かなところでは法案が精査されておらず、安倍晋三や中谷元が答えられないのは当然である理由が本書で分かった。
憲法は国家権力の暴走を抑えるために存在している。国家は憲法で授権されたことしかできない。しかしながら、安倍晋三は自らをその上に存在する権力者として、憲法を位置づけている。そのため、憲法を自在に操ろうとしているのである。ナチスが行ったよう(授権法)にして、憲法を下に置く行為そのものが、集団的自衛権の行使容認の昨年7月1日の閣議決定である。これは法治国家、立憲主義の根幹を否定する行為である。
自衛隊を合憲とする最高裁判決は存在していない。高村副総裁らが引き合いに出した、砂川判決は、アメリカの指示に従ったアメリカ軍駐留の判決であり、自衛隊は関係ないしましてや自衛権どころか集団的自衛権については全く関係ない判決である。彼らはいまだに、砂川判決を引き合いに出して集団的自衛権を最高裁が判断したとしているが、虚偽の根拠である。
自衛隊は戦力ではない、自衛力である(内閣法制局1954年)と言い続けてきた。軍隊でもなく専守防衛の自衛”隊”である。憲法は自衛権を否定していないと解釈し、この自衛力のため「個別的自衛権」の存在を引き出したものが自衛隊である。
安倍政権の唱える世界のどこにでも行ける集団的自衛権の行使容認は、明らかに専守防衛を越えた概念と言える。地域も広がり武力行使の質も広がり量も増える。自衛隊をギリギリ合憲としてきた概念を、安倍晋三は壊したのである。それでいながら、専守防衛は変わらないと、平然とこれを否定する。
最もばかげているのは、武力行使の新三要件である。「我が国の存立危機」を巡っては国会でのやり取りでも、引き合いに出された事例がことごとく後にひっこめられている。他国が攻撃されて、日本が存立危機に陥る事例などは、だれも全く説明できていない。こうした事態は『他国の戦争に巻き込まれるのではなく、巻き込まれにゆく』のが、集団的自衛権行使の本質である。助けに行く行為は、他国から見ると攻撃してもいない日本からの攻撃は、戦火の拡大を意味する。
他国が攻撃されて日本が存立危機事態に陥る滑稽な図式は、他国防衛を自国防衛と言い換える矛盾でしかない。
「必要最小限度」の集団的自衛権行使などない。安倍晋三はこれを量的概念であって、質的・絶対的概念ではないというのである。戦時の流動的状況では戦闘の質が変化することをを理解しない、都合のいい身勝手な解釈である。戦闘の量が圧倒的に高まれば、自衛の量も質も高まる。最小限などという概念は即座に否定される。
自衛権は本来持っている国家の権利であり、自然権の中に含まれるというのは間違いである。自衛権の概念は個人のものであり、国家が生まれながら持っているものではない。自然権は個人のものである。
戦前の軍部の発想と、7,1の閣議決定は酷似する。山本五十六の、「自衛権ヲ行使シ得ル条件」の5条件は、その後の戦争が自衛権の発動であると位置付けている。満州事変も支那事変も太平洋戦争も自衛権の発動である。安倍はさらに集団的という概念で、戦争理由を拡大させた。
報復的やり方は「テロ」に栄養を与える。水島氏はこう指摘する。暴力は新たな暴力を産む。アメリカは世界を暴力的解決を未だに試みている。その国家の軍隊を補佐しようとするのが、安保法制であり、戦争法と呼ばれるゆえんである。世界は変わったというが、変わったのはアメリカでありその補佐役を日本がやるというのが戦争法の本質である。