本ブログは開設してもう10年になる。昨日今日へのアクセスが当然多いが、何かの目的で検索して呼ばれる方も少なくないようで、何度も見られるのが、北海道の150年はそのままアイヌ抑圧の歴史であるという、2年前の記事がよく読まれている。
私たちは、北海道アイヌの歴史を私たちは全く学んでこなかった。アイヌ人は蝦夷(蝦夷)と言われ、江戸時代頃には関東周辺にまで住んでいたが、明治維新後の150年に限ってアイヌは抑圧されていたわけではない。
今回、釧路アイヌ懇話会主催による、「道東アイヌ民族」と題した3回の渡る文化講座に
アイヌの蜂起には、〇コシャマインの戦い(1457年~1525年)、〇シャクシャインの戦い(1669年)、〇クナシリ・メナシの戦い(1789年)があり、三大蜂起と言われている。今回は道東のアイヌということで、クナシリ・メンシの戦いについての学習であった。前の二つの戦いは松前藩に近く、民族としての圧政に対する蜂起の戦いであった。
江戸幕府末期のクナシリ・メンシの戦いは、過酷な労働をアイヌが幕府に訴えていたが、それに耐えかねて和人71名を殺害している。クナシリ(国後島)22人、メナシ(羅臼、標津町辺り)49人を殺害した。これに対し松前藩は、クナシリ14人、メナシ23人の計37人を処刑している。
これに対し、(上図の左から)アッケシのイコトイ、クナシリのツキノエ、ノッカマップのションコの首長が、松前の処分を容認した。お味方アイヌと呼ばれた酋長たちは、戦力の差を知っていたことと、南下するロシアや中国などとの交易を行っていて、権益を持っていたこともある。蜂起した若者たちは裏切りに見えたことであろう。ロシアとの交易でロシア正教の影響を恐れ、松前藩は宗門改めまでやっている。
クナシリ・メンシの戦いはおよそ150年後の1930年に起こった、日本統治下の台湾の霧社事件に酷似している。お味方アイヌは、松前藩家老の蠣崎波響の絵、夷酋列像の12人の長の、中国ロシアの豪華な衣装をまとった絵で高く評価されている。
道東アイヌの制圧は、明治維新後の周辺諸国への進出のモデルになったともいえる。先住民の言葉や名前や文化、文明を奪い同化政策を日本政府は行った。20年前の国連の人権宣言を受けて、台湾でもオーストラリアでも先住民族への謝罪と再評価がなされている。日本もオリンピックに向けて、ようやくアイヌを先住民族と評価し、ウポポイなどを作り開会式のセレモニーにも入れた。しかし、世界には中国のように先住民族、少数民族の同化政策、人権蹂躙が間断なく行われている。国内問題と中国政府は少数民族の人権など国外からの抗議を、受け付けようとはしない。日本は抗議する前に、自国の先住民族の歴史を教育のスケジュールに乗せるべきである。純日本料理のような昆布の歴史や、北前船寄港地が栄えた日本海などの存在と背景を、しっかりしておくべきである。
文字を持たなかった民族の歴史は脆く弱く儚い。上記の歴史、反乱内容も和人の一方的なものでしかない。
あまりにも厳しい自然環境で誰も工事に着手できない。その難工事を見事にやり遂げた人が当時、日本国有鉄道の測量技師だった川村カ子トさんでした。
もうずいぶん昔になりますが、町史でそのことを初めて知り本当に驚きました。工事の人や村人たちの真ん中に、長いヒゲの男性が満面笑みで座っていて、「ひどい偏見の中での難工事。この人は大恩人です」との村人のコメントもありました。完成後にご家族を連れて村を訪れた写真もありましたが、どれも明るい笑顔でした。
「大恩人だよ」という村人の言葉に救われましたが、風化させてはいけないですね。自分たちの身近にあるアイヌの人たちのこうした歴史はきちんと子供たちに伝えていくべきだと思っています。
東京には多くのアイヌ語の地名が残っていますし、征夷多将軍は、アイヌを追い出すことだったし、松前藩には東北のアイヌの血を引く人たちも多かった。
ジンギスカンに対して、20年場も戦った樺太アイヌは勇猛だったといえます。
本文にも書きましたが、文字のない民族は口承d家では極めて不利な歴史しか残りません。
こうした論議こそが見識を深めてくれます。