政府主催のエネルギーに関する公聴会で、中部電力の職員が(課長らしい)「原発事故の放射能で死んだ人間はい一人もいない」と発言した。あきれるばかりであるが、よく考えてみると彼らの本音が見え隠れする。
電力会社とその職員たちは、長年保護されてきた企業としての傲慢さがすっかり根付いていることがわかる。今回の事故でも、電力会社は社会を支えてきたという驕りの呪縛から逃れていない。
中部電力は抗議の電話が相次ぎ、ホームページで謝罪をした。不適切な発言で被災者に迷惑をかけたというのである。発言内容の訂正や認識を問題視しているわけではない。単なる社交的謝罪である。
福島の事故後、社内で原発に対する電力会社としての意見交換や反省などが、なされていなかったことが判る。この謝罪も、再稼働までの我慢位にしかとらえていないように見える。
公聴会に、電力会社関係者がこんなにもたくさん応募しているばかりか、会社の方針や意見を述べに来たとも発言していた社員もいる。事故に対する反省など、会社ぐるみで誰もやっていないことが判る。
さて「誰も死んでいない」というフレーズであるが、まず第一に現場で起きている、多くの深刻な問題の認識がない。死ぬことよりも恐ろしい、世代を超えた影響を考慮した発言と思えない。放射能を駆使する企業でありながら、放射能に対する認識がない。
事故を起こした加害者としての認識がない。例えば5人ほど死んでいれば、たった5人しか死んでいないと発言するだろうし、自殺者や仮設住宅での孤独死など、眼中にないのである。
大飯原発と志賀原発の直下に、活断層があるのが分かった。今回分かったのでもなければ、科学技術が進歩して判明したわけでもない。建設前の調査で確認されていた、断層である。専門家の意見は、だれが見ても活断層であるが、なぜか無視されて原発は建設された。
こうした独善性と傲慢さが、事故後いまだ払しょくされていない。会社の対応や職員の態度を見ているとよく解る。東電の料金値上げの経過にみる態度も同じである。
結局、日本の原発は政権に保護され身勝手に運営され、事故が起きても反省すらする能力もない企業になってしまったのである。
野田が再稼働を強引に許可した大飯原発は、活断層の上で起動し発電を開始した。電力会社は反省もなく、時間が経過するのを待ち再稼働を画策しているのである。