数年前、喫茶店で
友人の話
習字の宿題を父親が手伝って、教室の後ろにクラス全員の習字が張り出された時は嫌だった!
おまけに、「みんなと較べてどうじゃった。先生に褒められただろう」なんて聞くんだもの(プンプン)。
何十年も前のことなのに、彼女は思い出して憤慨していました。
私にも習字の記憶があります。昭和35年の田舎町。
その頃は冬休みが明けて、すぐに書初め大会がありました。
各クラスから3名ほど選ばれて、体育館で一堂に揃って書初めを競うのです。
選ばれてしまったのです。
選ばれた殆どの人は書道教室に通っているので、お手本や練習には心配は要りません。
「習っていないし、どうしよう」と、困った感覚は覚えています。
多分、帰宅して親に愚痴ったのでしょう。
困ってしまった親がこう言ったのを覚えています。
「神主さんなら字が上手だろうから、神主さんに頼んでみようか」
40年以上前の話、なんと素朴な発想。
そのときは、何でそんな、友人でも親戚でもない、普段の付き合いがあるわけでないのに神主さんなら字が上手いなんて…と無性にイライラし(冗談だったかもしれないけれど、私には余裕がなかった)、書初めなんかに選ばれたことを恨みました。
実際は、どうお手本を調達したのかは覚えていないのです。
書初め大会当日、穴があったら入りたいくらいで自信などまったくない私の所に、近所に住む上級生のMちゃんがやってきました。2学年上の6年生だから時間がずれているのか、両手を床について、私の傍で見守っているのです。
顔見知りの下級生を見つけて、子供なりに応援をと言うことなのでしょうね。
私は渋々大会に出ているのに。
いつも賞をとって褒められているMちゃんがスッと傍で見ていてくれる!
こんなことで自信が出るはずはないのですが、ただ卑屈にならなくてもいいのだと、そう言う気持ちになったような気がします。
あの時の体育館の空気は覚えています。
親が十二分に手助けできる環境と、期待できない環境。
要は子供本人のことだから、親の力量がどうであっても、どっちでもいいのです。
でも、その些細なことに、当事者は結構微妙に心を傷つけられたり、悩ませたりすることは、かつてはありました。
喫茶店で彼女話を聞きながら、「私の場合」が頭の中を言ったりきたり。
ほんの些細なことだから誰にも言わずにこの歳まで(夫にはボソッと少し喋ったけど)。
でも、自分が何か役に立てたらという思う動機付けのひとつにはなっています。
もし、どこかで、誰かが、不必要なことでいじけていたら、そっと背を支える人になりたいと、そう言う気持ちはずっとあります。
勿論、自分にできる範囲ですけれども。
友人の話
習字の宿題を父親が手伝って、教室の後ろにクラス全員の習字が張り出された時は嫌だった!
おまけに、「みんなと較べてどうじゃった。先生に褒められただろう」なんて聞くんだもの(プンプン)。
何十年も前のことなのに、彼女は思い出して憤慨していました。
私にも習字の記憶があります。昭和35年の田舎町。
その頃は冬休みが明けて、すぐに書初め大会がありました。
各クラスから3名ほど選ばれて、体育館で一堂に揃って書初めを競うのです。
選ばれてしまったのです。
選ばれた殆どの人は書道教室に通っているので、お手本や練習には心配は要りません。
「習っていないし、どうしよう」と、困った感覚は覚えています。
多分、帰宅して親に愚痴ったのでしょう。
困ってしまった親がこう言ったのを覚えています。
「神主さんなら字が上手だろうから、神主さんに頼んでみようか」
40年以上前の話、なんと素朴な発想。
そのときは、何でそんな、友人でも親戚でもない、普段の付き合いがあるわけでないのに神主さんなら字が上手いなんて…と無性にイライラし(冗談だったかもしれないけれど、私には余裕がなかった)、書初めなんかに選ばれたことを恨みました。
実際は、どうお手本を調達したのかは覚えていないのです。
書初め大会当日、穴があったら入りたいくらいで自信などまったくない私の所に、近所に住む上級生のMちゃんがやってきました。2学年上の6年生だから時間がずれているのか、両手を床について、私の傍で見守っているのです。
顔見知りの下級生を見つけて、子供なりに応援をと言うことなのでしょうね。
私は渋々大会に出ているのに。
いつも賞をとって褒められているMちゃんがスッと傍で見ていてくれる!
こんなことで自信が出るはずはないのですが、ただ卑屈にならなくてもいいのだと、そう言う気持ちになったような気がします。
あの時の体育館の空気は覚えています。
親が十二分に手助けできる環境と、期待できない環境。
要は子供本人のことだから、親の力量がどうであっても、どっちでもいいのです。
でも、その些細なことに、当事者は結構微妙に心を傷つけられたり、悩ませたりすることは、かつてはありました。
喫茶店で彼女話を聞きながら、「私の場合」が頭の中を言ったりきたり。
ほんの些細なことだから誰にも言わずにこの歳まで(夫にはボソッと少し喋ったけど)。
でも、自分が何か役に立てたらという思う動機付けのひとつにはなっています。
もし、どこかで、誰かが、不必要なことでいじけていたら、そっと背を支える人になりたいと、そう言う気持ちはずっとあります。
勿論、自分にできる範囲ですけれども。