日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

-たったひとりのあなたにー(雑誌の小文から)

2006-03-19 14:47:52 | 私の雑感あれこれ
活字を読んでいて、波長が合ったためか「ふっ」と身体が浮いたように感じる瞬間がある。
活字を読んでいて、わたしの中のどの琴線に触れたのか「ぐっ」とくる時もある。

日曜の朝、宅配の週刊誌の付録としてついていた、冊子の数ページが気になって、嬉しい。
コラムの題名は『誉めて、与える(giving)というアート』文 木下玲子さん

「諸君、わたしはカネを儲けた。今度はキミたちが使い道を考えてくれ」と巨万の富を残したマッカーサー夫妻が遺言で残した財団の四半世紀にわたる運営姿勢の話です。
財団が資金提供し、支援したい人々とは「無名ゆえにあたら才能を無駄にしている、素晴らしいクリエイティビティを持った人々。 以下略 」
そして財団は、才能を豊かに開花させられるように自由な発想をして欲しい、ということを基本にして才能への支援を続けているとのこと。

この財団を紹介する文章の中で、木下さんの文章は次のように続きます。

「素晴らしい機会」は個人のあらゆる条件を考慮する前にだれにでも公平に与えられるべきだ、と考える発想があったほうがステキだと思います。
 そしてもし、わたしたちひとりひとりが心からそう発想出来るようになったら、その社会に生きる人々は限りなく夢や希望を膨らませることが出来るでしょう。 以下略

再引用 

つまり、‘ギビング ――相手を対等の個人として認め、自分に出来る協力を惜しまずに与えること――゛という精神がわたしたちの生きている社会の基本に流れているかどうかが大きな意味を持つような気がしてならないのです。社会に「ギビングの精神」が流れていれば、そこには簡単に失われない強さがあるようにも思えるのです。
「機会は誰にでも公平にある」、
「優れた才能は自分達が協力して世に出そう」、

中略

「ほめてあたえる」というギビング精神が素晴らしく輝くのは、わたしたち無名のひとりひとりが無名の市民を認めて励ませるところにあるのですから。

気まぐれに手にした冊子なのに、大ヒットの出会いです。
小さな文字の小さな題字。題名(たったひとりのあなたへ)までもが遠慮がちです。縦書き雑誌の左側ページから3ページの割り振りで、目にとめる人が少なそうだけれど、丁寧に読ませてもらいました。
社会に「自分ができることでかかわれる(あたえられる)」って、喜びのはずですから。
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伊坂幸太郎「死神の精度」を読む

2006-03-19 12:40:46 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
「魔王」に続き2冊目の本です。
今度は死神として人間と交流を持つ話が6つ。但し命じられた調査期間が常に1週間だから交流は1週間。
あるときは当世風若者。あるときは中年おっさん。あるときは…。
調査対象によって、死神は対応する人物になりすます。
誰でもが死ぬことを知っているのに、それがいつやってくるかわからない。わからないという前提で生活することに慣れきっている。
読みながら、ふと思った。
「この死神って、例えばガン細胞のようなものではないだろうか」と。
深い眠りについているもの。目覚めようかと眠りが浅くなっているもの。活発に動き回っているもの。
わたし達は死神のようながん細胞を内にもってるのではないかと。
相当の時間深い眠りにあるのが本来なのだけれど、何かの事情があって目を覚ます。
それはガン細胞の調査期間が、人を選んで、その人がそこで命を終えるべく意義をガン細胞なりに調査しているような気もしてくる。
調査の結果、死神調査員が「見送り」と報告すると命が永らえる。
逃れようもない死を、こちら側からでなく、あちら側から、淡々と。
人を嘆かせるガン細胞も、静かに眠っているのかもしれない。
「ガン細胞ってバカだよね。だって、増殖してその人の命まで奪ったら、自分も破滅なのに」
と、そんな風に思ったりしたことありませんか。
だから、本当は深く眠っているのが、得策なんです。
上司に仕事をしろと命じられて、律儀に動き出す奴に当ると悲しみがやってくる。本を読みながら、それに似ているよう気がしました。

書中に「天使は図書館が好き、だから図書館に行けば天使に会える」とか。
そして出てくる死神はミュージックが好き。だから死神は死神はCDショップに集まると(これは本の中での話です)。
さっぱりとした言い回しが面白い。

この本も「本屋さん大賞」のにノミネートされているようです。
今人気なのですね。アマゾンで購入するようになって、本屋さんへ行く回数がめっきり減りました。

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道路工事の年度末です。

2006-03-19 08:43:53 | 私の雑感あれこれ
ようやく私たちの地域の下水道工事の順番がまわってきて、ここ数ヶ月近所のあちこちが工事中になっていました。
待ちに待った下水道普及ですから交通の不自由はみんな暗黙の了解です。
だけれど、昨日の一方通行になっていた近所の道路の工事は、アスファルトのリニューアルです。確か深く掘ってはいませんでした。
おかしいなと思います。下水道工事区域なのに、だから今後1、2年のうちに道路が掘り返されるのが確かなのに、何で今の時期にアスファルトのリニューアルをする必要があるのだろう。
下水道工事が完了してからキレイにすればと、考えるのが自然ではありませんか。
町は赤字行政だといっているのに、何で?と情けなく思ってしまいました。
この工事で喜ぶのは受注した業者なのでしょう。
下水道工事も長い期間にわたって、指定業者が町の工事を請け負っているし、住民税も一旦町に入ってしまえば行政の力は絶大で、口出しする機会って選挙しかないのですから、隔靴掻痒です。
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日本人の文化度。

2006-03-19 08:26:39 | 私の雑感あれこれ
「日本人の…」なんて大きくいってはいけないのかもしれませんが、ちょっとここに。
昨日は枝垂れ梅見物に行ってきました。
この土日が梅祭りの最終日ということもあり、案の定梅林のある農業センターへの直近の四つ角は渋滞です。
いつもの方面から向かったので、梅林方向へは右折路線です。信号機は20~30台ほど先で進まなくなりました。「あぁ、しまった。せめて反対方向から左折路線のほうか良かった…」と、ぼやきながら、待つこと暫し。
あと1~2台になると交差点をいかに右折するか気になります。
いくべき梅林への道路は既に渋滞であり、信号が青でも入れません。一台分余地ができるごとに、信号待ちの最前車が一台進むという按配です。
見ていると左折車が入り、右折者が入り、一台分の余地があるところに半分回り加減の次の左折車が入りません。何で?と思っていると直進車を待っていたのでした。
あー、三方向から1台ずつって暗黙の了解なのでしょうか。
混雑するとわかっているのに、何でおまわりさん来ないの?とは一瞬思いましたが、なんら諍いもなく、ルールに則って、交互に前進していく、これってささやかなことだけれど、日本人の文化度の高さだと思った次第です(大げさかしら)。

枝垂れ梅は満開で見ごろでした。
桜と違って梅見物は肌寒さがつきものですが、風がなくて例年より少し遅めだったこととから、満足な一時を楽しみました。
何度も訪れる近場の梅林です。
すべて枝垂れ梅。その枝振りがこうもり傘の骨のようにピンとしていて、花笠って感じです。枝垂れ梅風にゆれてという微妙な風情ではないのです。
見事に満開で沢山の素人カメラマンの被写体になっていました。
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