オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)(2022年12月03日、KBCシネマ、スクリーン2)
監督 オドレイ・ディワン 出演 アナマリア・バルトロメイ
ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの小説が原作。主役の女性が1940年生まれという設定だから、1960年ごろのフランスが描かれていることになる。アメリカを揺るがしている中絶問題がテーマなのだが、フランスはそれをどんなふうに解決したのか、問題を克服したのか。しかし、映画は、これをフランスの問題、あるいは国家の問題としては描いていない。ひとりの女性がどう向き合ったか、そのとき社会が(男が)どう対応したか、それに対して主人公がどう反応したかに焦点を絞って描いている。
だから。
この映画の特徴は、視線が拡散していかないところにある。情報量が少ないわけではないのだが、すべてが主人公の身体に接近した場所で描かれる。この主人公の肉体との距離をどう感じるか。ひと(他人)との距離の取り方は、習慣というか、国民性によって随分違うと思う。フランス(人)のことは私はよく知らないが、どちらかというとひととひとの「物理的距離」は近い。挨拶のとき抱き合ったり、キスしたり、カフェなどの座席の距離も狭い。しかし、「心理的距離」はどうか。独立心が強いというべきか、わがまま度合いが強いというべきか、意外と「遠い」。「遠い」(距離感が広い)から、わがままが許されるのだろう。そして、いったん対立すると、近づかなくなる。日本は、「物理的距離」はかなり広いが、「心理的距離(拘束感)はかなり強い。「同調圧力」(というらしい)がある。他人の「わがまま」を否定し、自立を許さないところがある。
この映画は、私が感じているままの「フランス人の距離感」で展開する。
カメラは主人公に密着する。いつも彼女から離れない。いつも1メートル以内(もっと短い、50センチ、30センチの距離か)にいる。遠くのものがカメラの中に入ってくるときもあるが、それはあくまで彼女の視線がその遠くのものをみつめたから。たとえば大学の教室での、離れた席にいる男、教壇にいる教師を見るという具合。主人公の「視線」から自由にカメラが世界をとらえるわけではない。
印象的なシーンがいくつかあるが、私にとってもっとも強烈だったのは、海のシーン。主人公が男友達と海へ行く。沖へ向かってどんどん泳いでいく。男が危ないと追いかけてくる。このときカメラが映すのは海の広さではない。追いかけてくる男や、遠ざかる岸も映さない。ただ水のなかで泳いでいる女を映す。彼女は、自分だけではどうすることもできない圧倒的なものと対面している。それは「全体」が見えない。水のようにただ肉体に絡みついてくる。決して「親身になることのない(近づいてくれない)」ものが、肉体のそばにぴったりとはりついている。ここに、彼女の「息苦しさ」が象徴されている。戦いたくても戦えない、助けを求めたいのに誰も助けてくれない。「いのち」が、ただ、「いのち」のまま存在している。巨大な、手に負えないもののなかで。
問題は。
このとき、私はどこにいるのか。私は、彼女にとって、たとえば巨大な海なのか。彼女を追いかけてきて、「引き返せ」といっている友達なのか。わかっているのは、私は彼女ではない、ということだけなのだ。この映画のなかには、私は、いない。そのことを、もっとも強烈に感じさせるのが、この海のシーンだ。そして、私がそこにいない(関与できない)にもかかわらず、私を彼女の「30センチ以内」の距離に引っ張りこむのがカメラなのである。
私は、ほんとうは、そこにいるのだ。たとえば、主人公に妊娠を告げる医師として。流産を引き起こすと嘘を言って流産防止薬の処方箋を書く医師として。助けを求められた男友達として。あるいは、堕胎の処置をする女として。同じ寮の友達として。その距離の中にいて、彼女を拘束するのではなく、彼女の独立とどう向き合うか。「30センチ」の距離以内に入らなければ、まあ、「知らん顔」ができる。私には無関係ということができる。しかし、カメラは、そういう私の「わがまま」を許さない。
他人を「わがまま」と切って捨てることは、もしかしたら簡単かもしれない。私と無関係ということは簡単かもしれない。しかし、簡単だから、その方法がいいとはいえない。これが、むずかしい。この映画が、ある瞬間、「恐怖映画」のように迫ってくるのは、その「距離感」があまりにも現実的だからかもしれない。古い時代設定だが、時間の距離を超えて迫ってくる。特に、あの海のシーンでは、そこには「歴史(過去)」ではない「時間(いま)」が動いている。
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