詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)

2021-09-26 15:30:02 | 映画

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)(2021年9月2 6 日、KBCシネマスクリーン2)

監督 ヤスミラ・ジュバニッチ 出演 ヤスナ・ジュリチッチ

  映画が始まってすぐ、ファーストシーンで、私は、あれっと思う。室内。ソファに座っている男を映し出す。映像に奥行きがない。人物に立体感がない。精密な絵画か写真のよう。えっ、こんな映像をずーっと見せられるのか、といやな感じになる。作為的すぎる。映像を加工しすぎじゃないのか。
 ちょっとがっかりしながら、自動販売機で買っておいた缶コーヒーの一口呑む。
  映画は、画面が変わって、まず木と太陽が映し出され、戦車の一部が映し出される。一部で「全体」を暗示し、そこから「世界」を描き始める。これも、まあ、平凡な手法だなあ。そんなことも思う。
 ところが。
 主人公のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)が出てきてからが、引きつけられる。アイダは国連の平和維持軍の通訳をしている。通訳というのはなかなかやっかいな仕事である。自分の思っていることとは関係なく、ひとのことばを正確に別な人に伝える。時間が一瞬止まり、世界がことばのなかで繰り返され、ことばが通じた後やっと動き出す。この「間合い」がなんとも言えず「濃厚」なのである。その「濃厚」さのなかに引き込まれる。なぜ「間合い」が「濃厚」になるかといえば、アイダは一方でセルビア人に侵攻される住民(犠牲者)であり、他方で住民を守る平和維持軍の職員だからだ。つまり、守られる人間でありながら、守る人間なのである。もし彼女がどちらか一方だったら、彼女の行動は違ってくる。彼女にも主張があるはずなのに、通訳をするときは、それは封印されている。この封印感が間合いを濃密にする。
 この奇妙な「濃厚な間合い」は実際に「濃厚な関係/複雑な関係」を生み出す。アイダは国連軍の中にいて「安全」である。しかし、夫やこどもは国連軍の基地の外にいる。避難してくるが、中に入れない。避難させたい。しかし、国連軍はアイダの家族だけを特別待遇するわけにはいかない。混乱が大きくなるだけだ。アイダはまず夫を侵攻してきたセルビア人との交渉役に仕立てる。セルビア人と交渉する民間人の代表に仕立てる。そのあと強引に二人の息子も基地の中に引き入れる。基地の外にはまだ2万5000人も住民が避難場所を求めて待っている。
 アイダのやっていることは、だんだん「通訳」の仕事から、家族を守ることへと重心を移していく。しかし、これがなかなかうまくいかない。国連軍はアイダの家族を守るためにだけ存在するわけではなく、スレブレニツァの住民を守るために存在するのだから。ひとりの願いだけを聞いているわけにはいかないのだ。でも、アイダにとっては、まず家族なのだ。他の人が目に入らなくなる。「通訳」の仕事の枠をはみ出し、自分自身のことばを「英語」で、つまり自分の母国語以外で言うことになる。これが「敵」との交渉ならば、その「敵のことば」を話すということは意味があるが、「味方」と話すのに自分以外のことばをつかわなければならない。「敵」とは「母国語」で話し、「味方」とは「外国語」で話す。「外国人」にはアイダは「外国人のひとり」にすぎない。しかも、その国連軍が向き合っている「敵」はアイダの話すことばを話しているのである。ここで、とても奇妙なことが起きるのだ。国連軍が最後まで守るのは、結局「国連軍が話すことば(英語)」を話す人間だけであり、国連軍に協力する人間だけであり、それ以外の人間は「区別しない」のである。いちおうスレブレニツァの住民を守る姿勢は見せるが、具体的には、何もしない。放置する。
 結局、「英語」を話すために、アイダは家族から引き離されてしまう。そして家族は、夫、ふたりの息子が全員男であるために虐殺されてしまう。
 で。
 途中は省略するが、映画の終わりの方で、私はもう一度、あっと声を上げる。ファーストシーンの奇妙な映像、あれは「写真」だったのだ、と確信する。
 アイダはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わった後、自分の住んでいた家に向かう。そこには別な一家が住んでいた。家の中は改装されている。そこに住んでいる女が、アイダの家族の残したものを渡してくれる。それは写真だ。冒頭のスナップ写真はないが、きっとそのなかの一枚なのだ、と私は確信する。冒頭の奇妙な感じのシーンは、この写真を受け取るシーンの伏線なのだ。彼女には、もう写真しかない。記憶はもちろんあるが、記憶の証のようなものは写真しかない。家族は、その写真の中に生きている。この悲しみ、そして喜び(というと、変かもしれないが)。写真は、アイダにとっては過去といまとをつなぐ「通訳」のようなものである、とも思う。
 映画は、そのあともつづいていくのだが、「写真」の存在を、ことばをつかわずにただ映像の質の変化だけで表現したこの構成に私は心底こころを揺さぶられてしまった。(途中に、家族の交友関係がわかる写真を廃棄するシーンもあって、最初のシーンと写真の引き渡しのシーンを強く結びつけるのだけれど。)「スレブレニツァの虐殺」では、きっと、アイダの持っている写真さえも残されていない犠牲者がいるのだ。戦争は、人間の記憶さえも奪い去り、なかったことにしてしまう。そのことへの強い抗議が、この映画を貫いている。「一枚の残された写真」になろうとする映画である。個人に徹することで、歴史を忘れないという映画である。戦争は個人を破壊する野蛮な行為であると告発する映画である。
 私は、結局、缶コーヒーは最初の一口だけで、残りを飲むのを忘れてしまった。吸引力の非常に強い映画である。

 


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セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)

2021-09-23 16:31:27 | 映画

セバスティアン・ボレンステイン監督「明日に向かって笑え!」(★★★)(2021年9月21日、KBCシネマスクリーン2)

監督 セバスティアン・ボレンステイン 出演 リカルド・ダリン

 リカルド・ダリンは何本か見ている。「瞳の奥の秘密」が有名だ。シリアスな役者かと思っていたら、コメディーも演じる。スペイン語の練習もかねて、見に行った。「字幕」があるのでついつい字幕を見てしまう。それに、喜劇の方が、深刻な劇よりも「ことば」を理解するのがむずかしい、というようなことを考えながら、それでも笑ってしまう。
 何がおかしいかというと。
 出で来るアルゼンチン人が、みんな正直なのだ。銀行の頭取(?)と弁護士に、農協設立のために出し合った資金をだまし取られる。どうも、その金は、山の中の厳重な金庫に隠してあるらしいという情報を手に入れ、奪われた金を取り戻そうとする。「でも、全部はダメ。自分たちが奪われた分だけ」などと、真剣に相談する。まあ、他人のものまで取り出すと「盗み」になるからね。
 このあたりのやりとりは、私が真っ正直な人間ではないので、やっぱり笑ってしまう。そこまで正直にならなくていい、と。結局、奪い返した金の残りは慈善団体に寄付しよう、という結論にたどりつくのだが、これだって、なんというかアルゼンチン気質をあらわしているなあ、と思う。かたくなに信念を守る、というところがある。
 見どころは、どうやって警報装置のついた厳重な金庫を破るか。二面作戦が楽しい。ひとつは、物理的に金庫を破るためには警報装置が働かないようにしないといけない。簡単に言えば、停電。この簡単(?)なことも、奇妙に失敗してしまうところに味がある。根っからの悪人ではないので、上手くできないのだ。もうひとつが心理作戦。金庫のことが気になってしようがない弁護士を、警報装置を誤作動させることで、ふりまわす。警報装置から携帯電話にメッセージが流れてくるたびに、弁護士は山の中まで車をぶっとばす。何度も何度も。そんなことしなくたって、停電で警報装置を止めてしまうだけでいいじゃないか、というのではちょっと味気ない。単なる金庫破りになる。そうではなくて、金を奪った人間を精神的に追い詰める、という復讐がおもしろいのだ。これは「怒ってるんだぞ」と相手に分からせることだね。相手が、それに気づくかどうかは別問題。自分たちが憂さ晴らし(?)ができればいい。
 これは、最後の最後。悪徳弁護士が、正直者集団の車修理屋へやってくる。彼にオーナーがマテ茶を出す、というシーンに、さらっと描かれている。「何も知らないばかな弁護士」と、ちらっと思う。この「ちらっと」という感じがいいんだなあ。

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)

2021-09-08 09:46:40 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)(2021年9月6日、中洲大洋、スクリーン2)

監督 濱口竜介 出演 西島秀俊、三浦透子

 毎年カンヌ映画祭に行っているアメリカ人が「とてもおもしろかった」と激賞したので見に行ったのだが。
 私は村上春樹の小説が大嫌いなので、やっぱり、この映画はダメ。
 ぞっとした。
 何がぞっとしたかというと、冒頭の、女が夢か何か、物語を語る声にぞっとした。あえて感情を殺したような、たんたんとした口調。聞いた途端に、あ、この映画は「声」を描いているのか、と直感してしまう。その直感に、ぞっとしたのである。
 村上春樹の小説にぞっとしてしまうのは、それが「予想通り」だからである。「予想」を裏切るようには進まない。何か、全然知らないものが突然あらわれて物語を変えていくという瞬間、作者(村上)がそれにつられて変わってしまうという瞬間がない。
 いちばん「あざとい」と感じたのは、映画の中に出てくる「ワーニャ伯父さん」。これを役者が多国語で演じる。そのリハーサルの過程で「ことば/声」の問題が語られる。つまり、説明される。感情を込めずに、ただ、正確に。その訓練をしたあと、「正確なことば」が「演技」のなかで「感情の共有」を生む瞬間がある。それを「劇場」に来ている観客にも共有させる。それが芝居だ。その通りだと思うが……。だからこそ、芝居は「一声、二顔、三姿」というのだとも思うが。これを、そのままことばで説明してしまってはねえ。「手話」をもってきて、それを強調するのはねえ。
 私は、「ワーニャ伯父さん」でやっていことをこそ映画でやればよかったのだと思った。つまり、映画を多国語で演じる。逆に「ワーニャ伯父さん」を日本語だけで演じる。そうすると声の問題がもっと切実につたわる。声の中にはわかるものとわからないものがある。それを手さぐりで、あるいは体当たりでというべきか、探りながら自分を開いていく。わからないものにであったとき、人間は、たいてい自分に閉じこもる。西島秀俊は妻の浮気を目撃して(これも声がきっかけ)、自分に閉じこもる。妻が急死したあとも自分に閉じこもる。そこから、どうやってこころを開いていくか。何が西島のこころを開かせるか。それが「ことばの意味」ではなく、「ことばを語る声」である、というのなら、この部分こそ「声」を頼りにするしかない「多国語(何を言っている、意味がかわからない)ことばで映画にして見せなければ、映画にする意味がない。
 映画の中で起きていることを「ワーニャ伯父さん」の「日本語」が手がかりになって、観客の中で広がる。そういうふうにしないと。
 まるで、とてもよくできた村上春樹の「解説本」を読んでいるような映画だった。
 役者たちも、やっていることを完全に理解してやっている。この映画は「声」がテーマだとわかってやっている。それがまた、気持ち悪い。えっ、この役者、こんな人間だったのか、と映画を忘れて引きつけられる瞬間がない。こういう「完璧さ」というのは、私は大嫌い。

 


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内山雄人監督「パンケーキを毒見する」(★)

2021-08-03 17:06:01 | 映画

内山雄人監督「パンケーキを毒見する」(★)(2021年08月03日、KBCシネマ2)

監督 内山雄人 

 菅の、「何もしゃべれない(自分のことば=思想を持たない)」愚かさを浮き彫りにしているが、その恐ろしさにまで迫っているとは言えない。それが物足りない。
 「出会い系バー(?)」に出入りしているということから、スキャンダルをでっちあげられた前川がなんとなく暗示しているが、菅は内閣調査室をつかって多くの人の「暗部」を握っているのだろう。そして「公表されたくなかったら俺の言うことを聞け」という形で他人を支配している。前川は、出会い系バーの問題では何も後ろめたいことをしていないので平然としていたが、ほかの人は平然とはしていられない「秘密」を持っているのかもしれない。それは自民党議員も野党議員も、官僚も、それから一般の企業経営者も同じかもしれない。そう考えないことには、あんなに何もしゃべれない人間がトップでいられるはずがない。
 共産党の小池に追及されたとき、加藤が「代弁」し、菅に質問した、菅が答えろと言われて、「加藤が言った通りです」という国会答弁があったが、それが象徴的だ。管は、小池の質問も加藤の聞いていない。理解していない。加藤の答弁を理解しているなら、「加藤の言った通りです」と言わずに、しれーっとして、それをそのまま言いなおせばいい。それができない。それすらできない。自分の問題として理解していないからだ。小学生だって、だれかの「言い訳」がうまいと思ったら、それを即座にコピーできる。あ、こう言えばいいんだと理解し、狡賢くふるまう。それができないのは、何が原因で菅が追及されているか、それすら理解していないということだろう。理解しているのは、追及されている。追及をかわさないといけない、ということだけなのだ。
 何の答弁だったか忘れたが、官僚が急ごしらえで書いた「答弁」をそのまま読むシーンも再現されていた。急ごしらえなので「ふつう体(である体)」で書かれている。少し頭を働かせれば、「である」を「です、ます」に変えることくらいできるのに、それすらできない。
 口からでまかせの安倍の嘘がいいというわけではないが、その口からでまかせで乗り切るということが菅にはできない。嘘のためのことばも持っていない、ということだ。
 ここからわかるのは、やはり「脅し」だけである。「おまえには知られたくないことがあるんじゃないのか。私はそれを知っている。ばらしてもいいか」。ばらされたって、それで命がなくなるわけではないだろうが、みんな見栄っ張りなので、おとなしくしている。それだけではなく、菅を持ち上げている、ということか。菅を尊敬しているのではなく、ただ菅を恐れている。
 この映画は、菅の「出世(?)」を「博打」にたとえていたが、「博打」に菅は次々に失敗している。それなのに失脚せずに、逆に出世している。ここにも、ほんとうは注目しなければならない「何か」がある。ふつう、一般庶民は博打にまでは手を出せないが、パチンコや競馬、仲間内のマージャンなどで「負け」が込むとにっちもさっちもいかなくなる。借金に手を出し泥沼にはまる、ということも起きる。菅がそうならないのはなぜなのか。「博打」といえば「やくざ」である。そういう「うさんくさい」何かを監督はつかみ、暗示しようとしているのかもしれないが、よくわからない。博打で負けても、負けをチャラにするだけの、相手の「弱み(秘密)」をちらつかせて、負けても負けても、勝負(賭け)ができるのかもしれない。
 女博徒がさいころを振るシーンをばかばかしい演出と思ってみていたが、それはばかばかしい演出を超えた「暗示」なのかもしれない。前川を脅し、口封じをしようとした行為に通じるものが、その演出に隠されているかもしれない。もし、そうであるなら、この演出はおもしろいが、実際のところはよくわからない。
 映画の最後に、若者が出てきて、政治と若者について語ったが、菅に対して、あるいは日本の政治に対して「恐怖」を感じていないのが、なんとも不気味だった。恐怖を感じていないから、怒りも感じていない。つまり批判にならない。政治を語ることさえ、なんというか「保身」のための行動に見えてしまった。
 「新聞記者」と同様、どこまでも追及してやる、という気概が伝わって来ない映画なので、私は、見て損をした、と思った。管に接近はしているが、素顔に迫るにいたっていないし、素顔を暴くとは、到底言えない。日本の映画の限界なのかもしれない。
 映画館は、私を含め、高齢者でいっぱいだったが……。

 


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エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」

2021-07-18 17:02:47 | 映画

エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」(★★★★★)(2021年07月17日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 エリザ・ヒットマン 出演 シドニー・フラニガン、タリア・ライダー

 「17歳の瞳に映る世界」とは、何とも奇妙なタイトルである。まるで見ることを拒んでいる。特に私のような高齢の男が、わざわざ17歳の少女に世界がふうに見えるかということは、頭では関心があっても、肉体として関心がない。そんなもの見ても何も感じないだろうなあ、と思ってしまう。しかし、「予告編」の映像が不思議に気になって仕方がなかった。あ、この映像は珍しい、見たことがないという印象があるわけではないのだが、気にかかるのである。
 主人公は、当たり前だが17歳。妊娠している。これも、まあ、あり得ることである。母親も父親も気づかない。友人が気づく。少女はだれに相談するでもなく堕胎を決意する。少女が住むペンシルベニアでは両親の同意が必要。少女は両親には知られたくないので、ニューヨークへ行って堕胎しようとする。その旅行(?)に、やはり17歳(?)のいとこがつきあう。
 このときの車窓の風景が奇妙。なんのおもしろみもない。「近景」があるだけなのだ。ロードムービーの感じがしない。それもそのはずである。ペンシルバニアとニューヨークは遠くない。同じバスに乗る青年が何も持たずに乗る距離である。少女たちは重いバッグを持っているが(このバッグのせいで、長い旅を思ってしまうが)、本来なら必要ない。「近い」からこそ、ニューヨークで堕胎しようと思ったのである。途中でバスを乗り換えるシーンがあるが、連れの少女が「なぜ、乗り換え?」と聞くくらいの近さなのである。手術しても、せいぜい一泊、ことによれば日帰りができると思っていたのである。
 で、ニューヨークなのだが。
 「近い」けれど、やっぱり「遠い」。人の密度がペンシルベニアとはまったく違う。密度が違うと、人に対する「関心度」がまったく違う。簡単に言えば、少女に対して「ビッチ」などとはだれひとり言わない。この映画では、たまたまバスに乗り合わせた青年が主人公ではなく、いとこの方に関心を持って近づいてくるが、ほかにはだれも近づいてこない。自分から近づいていかないと、「親密」が生まれない世界である。「自分を知っているものは誰一人いない」。この冷たい感じが、街の映像そのものとなって動いている。もともと堕胎が目的だから、少女たちも「観光客」のように視線を動かさない。少女たちも街に近づくわけではないのだが。
 この不思議な映像には、私は、かなり困惑した。予告編で感じたのは、この印象である。この「疎外感」いっぱいの街を、「堕胎」をしてくれる医院(施設?)を探して歩く。つまり「近づく」ということを少女が必要に迫られて行動する。ここからが、すごい。映画がまったく別の生き物のように動き始める。
 たどりついた施設は、「近づいてくる」少女を施設は拒まない。言いなおすと、「堕胎はよくない」というような説教をしない。そういう領域へは「近づいていかない」。近づいてきた部分だけを受け入れ、そこで何ができるかを探し出す。最初の施設は妊娠期間が18週間なので、ここではできない、と別の施設を紹介する。
 次の施設では、手術前の処置に一日、手術に一日と二日かかると言われる。そして、その、「決意」を再確認するとき、少女に、突然「近づいてくる」ものがある。担当の相談員が、少女に質問をする。初体験はいつだったか。いままで何人とセックスしたか。どんなセックスをしたか。避妊をこころがけていたか。少女は、四択の答えのなかのひとつを選んで応えていくわけだが、だんだん答えられなくなる。セックスを強要されたことはあるか。暴力を振るわれたことはあるか。そういうとき、拒否したことはあるか。「Never Rarely Sometimes Always 」(一度もない、めったにない、時々、いつも)。答えられないのは、「一度もない」と断言できないからである。つまり、彼女の妊娠は、望んでいたものではない、ことを思い出してしまうのだ。もちろん、だからこそ堕胎にやってきたのだが、その堕胎の直前で、自分は自分のためにだけセックスをしてきたのではないという事実を再確認するのである。セックスをさせられたことがある、それを受け入れたことがあるという事実を再確認するのである。質問に答えようとして、答えられないことを知る。少女は、突然、自分自身に「近づいていく」ことを強いられる。それは「近づきたくない自分」である。
 このシーンには、釘付けになってしまう。少女が答えられなくなってからのシーンは、たぶん二、三分だと思うが、まるで何時間にも思える。
 そして、あ、これだったんだ、とおも思う。「近づきたくない自分に近づく旅」。近づきたくない自分を目の前に抱えながら、ニューヨークを歩く。そのとき、世界はたしかにこんなふうに見えるのかもしれない。冷たい無関心。それはニューヨークの人々の視線が生み出すのではなく、少女自身の「近づきたくないものがある」ことが生み出している部分の方が大きいのだ。
 手術を終えて、少女は帰っていく。その途中、トンネルのなかか何かで、スクリーンが暗くなって、終わる。少女は、いままで生活してきた「家」へ近づいていくしかないのである。そこで見出す自分はどんなものなのか。近づいてみないとわからない。

 これは、大変な傑作である。この作品に比べると、先週★5個をつけた「ライトハウス」は、まあ、映画でなくてもいい作品、いわば「文芸」である。見る順序が逆だったら、「ライトハウス」は★2個かもしれない。タイトルに騙されずに、見てください。なお、原題は、クライマックスシーンで繰り返される「Never Rarely Sometimes Always 」。
 

 


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ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)

2021-07-10 18:52:36 | 映画

ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)(2021年07月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 ロバート・エガース 出演 ウィレム・デフォー、ロバート・パティンソン、鴎、汽笛、螺旋階段。

 モノクロの真四角なスクリーン。そしてそのスクリーンには「余分」なのものが何もない。余分なものがない、というのはこんなに美しいものなのか、と改めて思う。
 その余分なものがない中で、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンの、二人だけのドラマがはじまる。北海の孤島。灯台が舞台。余分なものはないと書いたが、余分なものはある。通りすぎていく霧笛の音、そして鴎。ふたりの男以外には、それだけ。そして、その余分が二人を刺戟する。たぶん鴎も霧笛も自由だからだ。どこへでも行くことができる。けれど灯台守の二人は、交代の人間が来るまで、どこにも行くことができない。
 しかし、そういうときでも、人間のこころはどこかへ行ってしまうのだ。どこかへ行きたがる。こころが「肉体」のなかからはみだし始める。これがモノクロに、不思議な色をつける。
 まず、他人が気になる。孤島に四週間、二人だけで生活しなければならないので、どうしても相手が気になる。こういうとき、ふつうは互いに自己紹介をする。名前を名乗る。ところが、二人は名前を呼ばない。二人しかいないから、「おまえ」で通じるから、名前は必要ない。実際、映画を見ていて、名前を呼ばないことを、最初は不自然に感じない。二人は、ここに来る前に当然名乗りあっていると思って映画を見ている。
 しかし、若いロバート・パティンソンがまず耐えられなくなる。「名前で呼べ」と反抗する。ウィレム・デフォーは名前で呼び始めるが、彼自身が名を明かすのはずっとあとだ。名前を名乗ったときから、ロバート・パティンソンの「過去」が語られ始める。名前とは「過去」というか、アイデンティティーなのだ。私は、久々に、アイデンティティーということばを、この映画を見て思い出した。アイデンティティーとは、単なる過去ではなく、「相手が知らない過去=過去の秘密」ということである。「過去の秘密」がロバート・パティンソンに、孤高の灯台守という仕事を選ばさせたのだ。
 ウィレム・デフォーは、そのことにうすうす感ずいている。「過去の秘密」がない人間が、孤島の灯台守の仕事なんかをするはずがない。「若いくせになにか隠している」と直感的に思う。そして、それは同時にウィレム・デフォーにも「過去の秘密」があるということを暗示する。
 ここから「世界」が狂い始めていく、というのがなんともおそろしい。ふつうは名乗ることから安定した関係(世界)がはじまるのだが、この映画では逆なのだ。名乗ることで、その名前の背後にはあった「過去」が「現在」へと噴き出してくる。しかも、こういうときは、どうしても「過去を隠したい」という気持ちもあるから、それは「ほんとうの過去」ではないことになる。嘘を語る。
 そして、嘘を語ってみてわかることがある。ウィレム・デフォーはしきりに「白鯨」(だと思う)のことばを「引用」する。他人のことばを引用する。自分のことばでなにかを語るのではなく、他人のことばで語るのは、それが嘘だからだ。
 こうやって互いの「秘密」の暴き合いがはじまる。このときも自分の嘘に耐えられなくなるのは若いロバート・パティンソンである。自分が名乗った名前は嘘だった。それは前の仕事をしていたとき(木こり、筏で丸太を運搬する)、仲間を事故で死なせてしまった。もともと折り合いが悪くて、なんとかしたいと思っていた。
 そして、その気持ちは、いまの相手、ウィレム・デフォーに向かって爆発する。嘘ばかりしゃべって、ほんとうに大切なこと(灯台守の仕事)を教えてくれない。こき使われているだけだ。しかも、相手はなにかいかがわしい秘密を持っている。(と、ロバート・パティンソンは思う。)
 こんなふうにストーリーを追っていくと、まるで映画というよりも舞台劇のようでもある。実際、ことばが重要な働きをしている。嘘はことばだからね。しかし、ウィレム・デフォーのセリフが「暗記(他人のことば)」であることが最初からわかっているので、これが逆に「芝居」を感じさせない。芝居しかできない人間のうさんくささがスクリーンからあふれてくる。
 モノクロという色を剥いだ映像が効果的なのだ。観客は、自分の記憶している色(肉体が覚えている色)でスクリーンを見つめる。自分自身の「過去」が噴出してきて、二人の葛藤とまざりあう。二人が憎しみ合いながら、それでも酒に酔って気晴らしに夢中になる気持ち悪さは、出色である。ほかの幻想のシーンよりも、二人のダンスのシーンの方が悪夢のように幻想的である。
 悪夢的幻想といえば、重たい霧笛、暴力的な鴎、荒れる波、断崖の岩、さらに灯台内部の螺旋階段がとても美しい。螺旋階段は霧笛と鴎がさんざん登場し、風景になってしまったあと、さっと出てきてさっと消える。螺旋階段が「主役」、霧笛と鴎が「準主役」、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンは「脇役」かもしれないなあ、とも思う。登場回数とは逆だけれど。二人が死んでも、霧笛も鴎も螺旋階段も生き残る。そこに、非情の美しさがある。

 

 

 

 

 


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ハリー・マックイーン監督「スーパーノヴァ」

2021-07-02 18:39:18 | 映画

ハリー・マックイーン監督「スーパーノヴァ」(★)(2021年07月01日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 ハリー・マックイーン 出演 コリン・ファース、スタンリー・トゥッチ

 いま映画界は「認知症ブーム」である。現実の問題が大きくなってきて、それが映画に反映しているということだろう。この映画では、認知症そのものの問題は、途中で二回、スタンリー・トゥッチが愛犬とともに徘徊してしまうシーンと、パーティーで読むべきスピーチ原稿が読めなくなるシーンでのみ描かれる。「ファーザー」に比べると、とてもおとなしい。スピーチ原稿が読めなくなり、コリン・ファースが代読するシーンは、感動を盛り上げる「演出」のようで、あざとい感じがする。
 男性同士のパートナーというところが、この映画の新しさなのだが、周囲が寛容すぎて現実の問題が見えてこないのは、かなり物足りない。兄弟や友人たちが、二人をあたたかく見守りすぎる。唯一の問題は、コリン・ファースには、以前、スタンリー・トゥッチではない男の恋人がいた、というくらいだが、その彼もパーティーにやってきていて、「和気あいあい」とまではいかないが、落ち着いて交流している。
 唯一の問題は、スタンリー・トゥッチが症状が進む前に自殺したいと願っていること。そのことに対してコリン・ファースはどう向き合えばいいのか、ということ。これは当人にとっては大変な問題だと思うのだが、なんというか、映画になっていない。映画として成立する作品になっていない。
 コリン・ファースもスタンリー・トゥッチも一生懸命演技しているのかもしれないが、すべてが「ことば」で語られてしまうため、映画ではなく芝居を見ている感じ。さすがイギリス、なんでも「ことば」で説明してしまわないと気がすまないんだなあ、感心するか、あるいは、これではラジオドラマを聞いているみたいだなあとがっかりするか。私は感心しながら、がっかりした。
 わたしはやっぱり映画は、目で感じ取りたい。苦悩をことばではなく、表情、肉体の動きで、スクリーンで見たい。スクリーンから目が離せない、という興奮を味わいたい。
 先に書いたスピーチ代読など、その典型。なんだ、これは、と怒りだしたくなる。文字が読めなくなる、あるいは簡単な単語なのに別の単語とし読んでしまう、というようなことが克明に描かれない。アイリス・マードックだったか、認知症になったとき「GOD」を「DOG」と読み、夫か「検査をやめてくれ」と叫ぶ映画があったが、そういう「リアリティー」があればいいのだが、そういうものがまったくない。ジュディ・デンチが、「私、何か読み違えた?」というような顔をして夫をみつめるシーンなんか、映画の醍醐味の頂点。本人はわからない。けれど、周囲はみんなわかる。その「断絶」がすごい。「問題」が深刻化する前に、「認知症」が引き起こす本人と他者の断絶が明るみに出る前に、コリン・ファースが代読を申し出るなどというのは、あまりに味気ない。
 「スーパーノヴァ」というタイトルが示しているように、遠いところで起きた破滅を美しく眺めている感じ。これではねえ……。
 でも、前の列にいた高齢者の三人組、夫婦と妹(女友だち?)の、真ん中に座っていた女性は「いい映画だったわ。涙が止まらない」と実際にハンカチで涙を拭きながら席を立って行ったから、感動するひとは感動するのかもしれない。私は、まさかそんな感想を聴くとは想像もしていなかったので、とてもびっくりした。

 

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セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」

2021-06-29 09:58:28 | 映画

セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(★★★★)(2021年06月28日、KBCシネマ2)

監督 セルジュ・ゲンズブール 出演 ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ジェラール・ドパルデュー

 フランス人の肉体感覚(肉体のとらえ方)というのは、私には、独特なものに見える。なんとういか……修正なし、なのだ。
 ジェーン・バーキンの小さな胸(あまりにも小さい乳房)が象徴的だが、それをそのままさらけだす。その小さな胸は、それだけを取り出すと魅力的ではない。だが、体全体がそこにあるとき、それは別な働きをする。体のラインをすっきりと、透明感のある美しいものにかえる。欠点(?)を気にしていない。
 逆の肉体もある。ジェーン・バーキンの雇い主である店長の男は、太っていて、しきりにおならをする。それはそれで、ひとつの体なのである。汚く、醜い。ひとの体というものは、そういうものなのだ。批判はするが、その肉体をどうかしろ、とはだれも言わない。肉体とはそういうものだと受け入れている。
 象徴的なのが、店で開かれるダンスパーティーのクライマックス、素人ストリップである。美人でもなければ、若くもない。そういう女が舞台でストリップをしてみせる。官能をそそる動きをするわけでもない。「芸」なしで、ただストリップをする。
 しかし、見ている観客(男も女も)は、そのストリップを見ながらいろいろなことを考える。セックスの妄想もあるだろうが、なんというばかなことをしているのだろう、というようなさめた意識も漂っている。ストリップに対してあからさまな反応はしない。それぞれの場で、眼を動かす、手を動かす、あるいは表情をかえない。
 それぞれの肉体が、ただ「共存」する。
 この、ただ「共存する」(一緒にある)というところから、一歩踏み出すと「恋愛」になる。セックスになる。セックスは、ただ単に肉体の接触ではなく、官能を共有して、はじめて恋愛にかわる。修正なしの肉体が、修正なしのまま、手さぐりで「到達点」をまさぐり、到達した瞬間に、いままで存在しなかった恋愛が生まれてくる。ほかのだれにも手出しできない恋愛が。
 ジェーン・バーキンとジョー・ダレッサンドロが安いあいまい宿を追い出され、豪華なホテルも追い出され、荒野で、トラックの荷台で、だれもいないところで、ふたりだけでセックスし、エクスタシーを共有する。だれものでもない肉体が「相手」のものになる。「相手」をみつけることで、区別がなくなる。
 たぶん、恋愛があって、セックスがあるというのではない。フランス人にとってとは。セックスがあって、一緒にエクスタシーに達して、そのとき「恋愛」になる。「肉体」が恋愛の対象として生まれ変わる。
 この映画は、そういう過程を描いている。
 ちょっと変わった肉体(自分の知らない肉体)に出会う。どうすればいいんだろう。わからないけれど、セックスしてみるしかない。苦痛が生まれるのか、快楽が生まれるのか。それは、個々の肉体の問題である。当事者の問題である。他人が口を挟むことはできない。乳房が小さい。それがどうした? 相手はゲイであり、膣に挿入できない。それがどうした? フランス人は、肉体的欠点を持っていることをおそれない。むしろ、欠点があるからこそ、そこに生きている何かを感じるのかもしれない。
 余分なことを書きすぎたかもしれない。この映画は、そういうストーリーとは別に、奇妙な魅力を持っている。ジョー・ダレッサンドロはゴミの運搬をしているのだが、そのトラックのとらえ方(映像)、走る荒野のとらえ方が、孤独感をあおる。何もかもが汚い、というのが不思議に美しい。それも強調の美ではなく、あるがままの美。そこに存在するから、それでいいのだ、という感じの美。豚のように太った犬や、ゴミのなかから拾いだしたぬいぐるみ、得体のしれない肉の固まり。それはリアリティーという美しさである。修正しない美。と言いなおせば、最初に書いたジェーン・バーキンにつながる。
 この映画には、おまけがついている。おまけと感じるのは、私だけかもしれないが。のちに有名になるジェラール・ドパルデューがドラッグにおぼれているセックスアニマルとしてうす汚れた感じを体全体であらわしている。鞍なしの白い馬に乗って、我が道を行くという感じで紛れ込んでいる。
 変な映画だが、映画でしか到達できない「変な質感(肉体感覚)」を、観客の反応なんか知ったことか、という感じでスクリーンにぶっつけている。フランス人にしか撮れない、とてつもなくフランス的な映画だと思う。

 

 


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ルキノ・ビスコンティ監督「異邦人」

2021-06-07 19:41:53 | 映画

ルキノ・ビスコンティ監督「異邦人」(★★★★)(KBCシネマ1、2021年06月07日)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナ

 ルキノ・ビスコンティは「異邦人」のごとにひかれたのだろうか。「異邦人」の何を撮りたかったのだろうか。
 映像は、大別して三つある。ひとつは顔のアップ。これを近景と呼んでおく。二つ目は人の全身が映る中景。もうひとつは自然(たとえば海)の遠景というか、なぜ人の動きが小さくしか見えない広い空間を映したのかわからない映像。
 アップ、近景では、目のちょっとした動きが意味を持つ。マルチェロ・マストロヤンニは、表情が目まぐるしく変わるという顔ではない。顔の表面に、うっすらと脂肪がついていて、表情筋がそのまま表情をつくる感じではない。でも、目が動くとき、顔全体も動いたように感じられる。アンナ・カリーナにかぎらず、ビスコンティ映画に出てくる女優は目が鋭い。口が大きい。大声で笑う。非常に野性的な感じがする。イングリット・バーグマンのように「知的な女性」という印象から遠い。野生の女、という感じ。そして、その野性味が、男の「知性」を浮かびあがらせる「補色」のような働きをする。例外は、この映画には出ていないアラン・ドロン。アラン・ドロンは、ビスコンティの映画のなかでは、野蛮な(野生の)欲望をもった男優だ。目というよりも、口を大きく開けて「肉体」を覗かせるとき、野蛮が剥き出しになる。
 ビスコンティの映画では、男は基本的に「口」では演技をしない。笑わない。目で、誰にも理解されていない自分というものを、具現化する。目が、自分の悲しみだけをみつめている。この映画でも、マストロヤンニは、そういう演技をしている。
 ほかの男優は、マストロヤンニとは違って、「口」で、つまり「ことば」で演技をしている。口を大きく開けて、ことばに意味を持たせる。マストロヤンニは、ことばも目と同じように、自分をみつめるためにしかつかわない。最後の方に牧師との対話があるが、このときでさえ対話というよりも、自分と向き合っている。けっして神(絶対に自分ではないもの)とは向き合わない。そう考えると、口を大きく開けてことばを発するとき、他の男たちは「神」に向かって自分はこういう人間であると主張しているのかもしれない。もし対話というものが男たちの間で成立するとすれば、間に「神」を置くことによって対話していることになる。法廷がまさにそれ。この映画では「法」を間に検察、弁護側がことばを戦わすというよりも、「神」を間において激論している。マストロヤンニの演じる主人公は「神」を拒絶しているから、誰とも「対話」にならないのだ。「不条理」というのは、なぜ、その人が「神」を拒絶しているかわからない、という意味かもしれない。
 まあ、こんなことには立ち入るまい。私は「神」を見たことかないから、何を書いても空論になる。
 私が中景と呼んだシーンでは、据えつけられたカメラの前を人が横切ったりする。こういうシーンはいまでこそ珍しくないが、この映画がつくられた当時は珍しかったのではないだろうか。主役の動きが、他の人物の動きによって瞬間的に見えなくなるということはなかったと思う。いわゆる誰でもない存在(神)の視線のように、主人公にかぎらず登場人物の姿をくっきりと映し出している。そして、このことは逆に言えば、ビィスコンティは「神」の立場から、この映画をつくっていない、ということになる。ある瞬間には、目の届かない世界がある。目が届かないところでも、何かが起きている、ということを語っている。
 この印象が、遠景になると、まったく違う。人間は非常に小さい。海辺では、海があり、砂浜があり、空がある。それは人間とはまったく関係なく存在している。言いなおすと、その自然のなかで人間が何をしようと、自然は関知しない。これは、人間が何をしようと「神」は関知しない。責任をとらない、ということを語っているかもしれない。
 こんなことを書くつもりではなかったのだが(マルチェロ・マストロヤンニの顔についてだけ書くつもりだったのだが)、ここまで書いてきたら、突然、思い出すのである。「異邦人」の主人公は、殺人の動機(?)について「太陽がまぶしかった」と言う。これを「神」がまぶしかった、と言いなおすとあまりにもキリスト教的になるのか。「神」とは言わず、「人間の行動に関知しない存在がまぶしかった(その存在に目が眩んだ、自分を見失った)」と言いなおせば、どうだろう。関知しないを関与しないと言いなおせば、「異邦人」の最初にもどれるかもしれない。母が死んだ。その死に対して、主人公はどう関与できるか。もちろん死を悼むという関与の仕方はある。それは死後のことである。母が死んでいくとき、息子は、その死にどう関与するのか。看病する、介護するという「関与」の形があるが、そういうことは、たぶん「異邦人」の主人公にとっては「関与」とは言えないものだろう。だいたい、施設にあずけるという形の「関与」はしている。人間には、関与できないことがらがある、と主人公は知ってしまった、ということだろう。
 こうした認識をもつ人間の行動は、「神」の関与・関知を人間存在の条件と考えるひとからは「不条理」に見える。でも、それは逆に言えば、「神」の存在を実感していない人間から見れば、「神」の関与・関知を絶対的と認める人間が「不条理」になる。ビスコンティは、たぶん、「神」の存在、「神」が人間に関与・関知しているとは認めない哲学を生きたのだと思う。「神」が関与・関知するとしたら「自然」に対してだけである、と感じていたのではないだろうか。
 そして、「神」が関知・関与する「人間の自然」というものがあるとしたら、それは「造形=顔、美形」というものだと信じたのではないか。そう考えると、ビスコンティが美形にこだわる理由も、なんとなく納得できる。「神」が関与・関知した美形が、人間社会のなかで苦悩する。それをしっかりみつめる愉悦。それがビスコンティの本能なのか、と思った。マストロヤンニは、とびきりの美形ではないが、苦悩する顔は(その目の悲しみは)、もっともっと苦しめと言いたくなるくらいに美しいからね。苦しめば苦しむほど、美しくなる男--というのは「不条理」でいいなあ。

 

 

 


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スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」

2021-05-29 14:51:33 | 映画

スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」(★★★★★)(2021年05月29日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 スパイク・リー 出演 デビッド・バーン

 私は音楽をほとんど聞かないので、デビッド・バーンもトーキング・ヘッズも知らない。この映画を見に行ったのは、監督がスパイク・リーだったからである。スパイク・リーは「ドゥ・ザ・ライトスィング」から見ているが、社会的意識に共感を覚える以上に、その映像の清潔感に非常にひかれる。清潔で、なおかつ強靱である。予告編でも、あ、これはシンプルで強靱だなあと感じたが、本編を通してみて、さらにその印象が強くなった。
 映画はデビッド・バーンが率いるグループの舞台での公演「アメリカン・ユートピア」を撮影したもの。舞台の最初から終わり(アンコール?)までをそのまま撮っている。最後に「おまけ」がついているが、基本的に、ただ公演をそのまま撮っている。もちろん映画だからカメラはいろいろなアングルから撮影されているが、切り替えが非常にスムーズであり、まるで何回にもカット割りして撮影したかのようにさえ見える。カメラがデビッド・バーンらの動きをまったく邪魔していない。いったいどうやって撮った?と思う。でも、これはあとから思うことで、見ている間は、ともかくスクリーンに引きつけられる。
 この舞台は、ある意味でとても奇妙である。音楽のこと、ライブ公演のこと、あるいはミュージカルのことを知らない私が言うのだから、きっと間違いを含んでいると思うが、何よりも舞台の出演者の服装が変である。全員が灰色のスーツ(シャツを含む)を着ている。モノトーンなのである。そして、裸足。余分なものがない。服装で観客の視線を引きつけようとしていない。デビッド・バーン自身が、もうおじさんだし、容姿で観客を魅了しようとは思っていないような感じ。
 ダンスもあるが、いまふうの「キレキレ」という感じてはなく、これならちょっと真似すればできるかな、という感じ。昔の金井克子の歌いながら踊る感じ、というとデビッド・バーンに怒られるかもしれないが、まあ、そんな感じ。あとは、演奏者との関係で言うと、ちょっとしたマーチングバンドかなあ。舞台装置は、すだれカーテンのようなものが三方を囲んでいるだけで、ほかは何もない。つかこうへいの芝居のようである。何もないから、出演者が自由に動け、その動きにだけ視線がひっぱられる。ともかくシンプルである。そのシンプルが神経質を強調するようでもある。
 で。
 映画のもう一つの要素、音楽の方はどうか。単純ではない。とくに歌詞がめんどうくさい。単純な解釈を受け入れない。歌い方も歌を楽しむというよりも、何か神経質な苛立ちの方を強く感じる。「音」も出演者が演奏する楽器の音に限られている。隠れた音(出演者以外の楽団が演奏する音)がない。そういうことも、デビッド・バーンの神経質な(?)な声を強調する。デビッド・バーンは神経質、と書いたが、その補足になるかもしれない。途中でデビッド・バーンが解説しているが、高校(?)のコーラスのために「家においで」(よくわからない、たぶん間違っている)という曲をつくった。家に友だちを招待しておきながら、早く帰ればいいなあ、と思ったりする。でも、高校生は、まったく違う解釈で歌う。ほんとうに歓迎している。まったく別の曲みたいだった、という。そう言ったあとでデビッド・バーンバージョンを歌うのだが、それはたしかに「もう早く帰ってくれよ」という神経質な思いがあふれる歌なのだ。「家においで」には、そういう「矛盾」がある。
 そして、矛盾といえば、この映画のタイトルは「アメリカン・ユートピア」である。そのユートピアのアメリカで何が起きている。ブラック・ライブズ・マター運動は記憶に新しい。そして、歌のなかには、そのプロテスト・ソングが含まれている。アメリカはユートピアじゃないじゃないか。(ポスターではUTOPIAが逆さ文字に印刷されていた。)そして、そういう抗議があるからこそ、スパイク・リーは、この映画を撮ったのだろう。問題提起だね。真剣に、何かをしないといけないと感じている。でも、誰にでもあてはまる有効な何かというのは、存在しない。と、神経質なデビッド・バーンなら言うかもしれないなあ。
 で。
 この問題提起が、また実に興味深い。映画は舞台と違う。映画ならではのことができる。映画の最後、公演が終わったあと、デビッド・バーンが自転車で帰っていく。そして仲間たちも自転車で移動している。その移動シーンに、もう一度「家においでよ」が流れる。しかし、それはデビッド・バーンの歌ではない。はっきりしないが、たぶん高校生の合唱である。「いやだなあ、もう早く帰れよ」ではなく、ほんとうに「家においでよ」と誘っている。いっしょに楽しい時間をすごそうと言っている。
 同じことば、同じ曲が、歌い方ひとつで意味が違ってくる。それを映画はちゃんと証明して聞かせてくれる。これは、スパイク・リーの「主張」なのだ。本の少しの「演出」でスパイク・リーは強烈な「主張」をこめることに成功している。
 これはまた、こんなふうに言い直すことができる。アメリカにはいろいろな問題がある。ブラック・ライブズ・マターをはじめ、いろんな運動がある。それは、アメリカを変えていくことができるという可能性のことでもある。デビッド・バーンは舞台から、有権者登録をしよう、選挙に行こう、と呼びかけている。それは、アメリカがどんな国であろうと、アメリカ国民にはアメリカを変えていくことができると言っているように感じられる。その「意図」をスパイク・リーが解釈して、語りなおしているように見える。
 で。
 ここからさらに思うのである。このラストシーンの音楽が映画の特徴を生かした「演出」であるとするなら、舞台ならではのものとは何だろうか。この映画は舞台を巧みにとらえているが、やはり舞台ではなく、映画である。どこが違うか。
 これから書くことは、期待と想像である。
 映画では、舞台の上の「肉体の熱気」がわからない。とくにスパイク・リーの映画ではカメラワークが見事すぎて、全てのシーンが「映像」になってしまっている。なりすぎている。逆に言うと、デビッド・バーン自身の「肉体」の、そして他の出演者の「肉体」のどうすることもできない熱気のようなものがそがれてしまっている。それは汗とか呼吸の乱れとかではなく、なんといえばいいのか、実態に肉体を見たときの生々しさが欠けているように感じる。このひとはいったい何を感じているのか、という直感的な印象が弱くなっているように感じる。
 だからこそ。
 あ、これは映画ではだめだ。実際に舞台を見たい。ライブを見たいという気持ちになる。「家においでよ」と誘ったけれど「もう帰れよ」と思っている。「もう帰れよ」言いたいけれど、それをがまんしておさえているだけではなく、「違う人間になって、もう一度家に来てほしい」と思っている。いまのきみは嫌いだけれど、きみが一緒でないと生きている意味がない。その矛盾した感情。デビッド・バーンの声を神経質に感じるのは、こういう矛盾があるからだろう。そういうときの感情というのは、肉体を直接みるときに、複雑に伝わってくるものである。カメラを通すと消えてしまう「肉体」の匂い。それを体験したいなあ、という気持ちになってくる。いま、ここに私とは違う肉体をもった人間が生きていて、いろいろなことを思っている。矛盾をそのまま味わってみたい。矛盾に「解釈」をくわえずに、「肉体」そのものとして向き合ってみたい、という気持ちを引き起こされるのである。
 いや、ほんとうに生の声を聴きたい。演奏を聴きたい。動きを見たい。映画がだめだからではなく、映画がいいからこそ、そう思う。今年見るべき映画の1本だね。

 

 


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フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」

2021-05-15 16:58:38 | 映画

フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」(★★★★)(2021年05月15日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フロリアン・ゼレール 出演 アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン

 認知症の老人を描いているのだが、これはほとんど恐怖映画である。
 映画は三つの場面に分かれる。①アンソニー・ホプキンスが見ている世界(オリビア・コールマンから見ると、正しく認識されていない世界)②オリビア・コールマンが見ている世界(観客から見ると、客観的な「正しさ」を伝える世界)③だれが見ているのかわからない世界(ふたりのほかに、介護人、オリビア・コールマンの夫らが登場する。そこには、当然彼らが見ている世界も含まれる)。
 この三つの世界(もっと多いかもしれない)が、「画面」としては「均一」に描かれる。同じ方法で描かれる。①が焦点の定まらないぼやけた世界とか、モノトーンの色彩の世界というわけではない。カメラがアンソニー・ホプキンスの目として動いているわけではない。それは②の世界がオリビア・コールマンの目の位置にカメラがあるわけではないのと同じだ。カメラは、いわば③の位置にある。そして、これに「目」だけではなく、ことばが加わる。「目に見えないもの」(たとえば、認識)が「ことば」として、世界を存在させる。「目」と「ことば(声/耳)」が一致しない。もちろん、この映画が認知症の老人を描いているのだから、アンソニー・ホプキンスの「ことば」が間違っていると簡単に判断できるのではあるけれど、それは映画にのめりこんでいないとき。外から映画を見ているとき。いわゆる「客観的」な立場で映画を見ているとき。私は、そういう「客観的」な見方というのが苦手な人間なので、簡単にアンソニー・ホプキンスは認知症である、とはなかなか思えないのである。もしかすると、オリビア・コールマンが騙しているのでは? 彼女が、他の登場人物と共同してアンソニー・ホプキンスが認知症であると思い込ませようとしているのでは?
 実際、アンソニー・ホプキンスは、そう感じているかもしれない。アンソニー・ホプキンス腕時計がなくなる。それは介護人が盗んだのか。それともオリビア・コールマンが隠して、介護人が盗んだと思い込ませようとしているか。もちろんアンソニー・ホプキンスはオリビア・コールマンを疑ってはいない。だから、よけいにこわいのである。アンソニー・ホプキンスにわかるのは、どうも自分が認識している世界と他人の認識している世界には違うものがあるということだけである。どちらが正しいか(自分がほんとうに間違っているのか)、確信が持てない。当然のことだけれど、だれでも自分の認識が「正しい」と思う。だからこそ、その「正しさ」が「多数派」によって否定されていくと、頼りにするものがなくなる。自分は「正しい」のにだれにも「正しさ」を受け入れてもらえない。それは、アンソニー・ホプキンスを子ども扱いにする介護人の姿勢に対する強い反発となってあらわれる。「私は知性のある人間、大人であって、子どもではない」。その証拠に、アンソニー・ホプキンスは自分はかつてはタップダンサーだったと嘘をつくことができる。ただし、この嘘はほんとうに嘘か、それともアンソニー・ホプキンスの認識が間違っているのかは、観客にはよくわからない。実際にアンソニー・ホプキンスが、それなりに踊って見せるからである。
 アンソニー・ホプキンスの認知症が進んでいく。そのときの世界を映画は表現している、と簡単に要約することはできるはできるが、その要約の前に、私は、ぞっとするのである。キューブリックは「シャイニング」で次第に狂気にとらわれていくジャック・ニコルソンを描いた。そこにはオカルトめいた要素がつけくわわっていて、そのために狂気に陥っていく人間の苦悩が、見かけの「恐怖」にすりかえられている部分がある。それに対して「ファーザー」には、そういう「見かけの恐怖」がない分、余計にこわいのである。
 いったい、何が起きている?
 これを判断する「基準」はひとつである。アンソニー・ホプキンスは認知症なのであって、オリビア・コールマンが父親をだましているわけではない、という証拠は、アンソニー・ホプキンスの「服装」の変化によって明らかにされる。最初はジャケットを着ている。そのまま外へ出かけられる姿である。つぎにセーター姿が登場する。もちろんセーターでも外に出ていくことができるが、基本的にそれは家でくつろぐ姿(リラックス)をあらわし、人前に出るときはセーターを脱ぎ、ジャケットを着る。だが、アンソニー・ホプキンスはリラックスするはずのセーターも着られなくなる。どこから手を通していいかわからなくなる。さらにパジャマ姿になっていく。これでは外へは出て行けない。家にいるときだって、他人がくるなら、やはり着替えるのがふつうだ。パジャマ姿は基本的に他人に見せるものではない。このパジャマ姿は、最初は上下そろいの姿だが、施設に入所したあとは下はパジャマのズボンだが、上は下着である。もうパジャマすら「姿」にならない。破綻している。ジャット、ズボンという姿からはじまり、セーター、パジャマ、さらには不完全なパジャマ姿への、冷徹な「変化の記録」。ここには「ことば」は関与していない。だから「嘘」がない。途中に、アンソニー・ホプキンスがセーターを着られずにオリビア・コールマンに手伝ってもらうシーンがある。さらにはパジャマからふつうの服装に着替えるのを手伝う(手伝いましょう)ということばも繰り返される。そこに、絶対に否定できない「事実」がある。
 最後の最後に、アンソニー・ホプキンスは「認知症」の恐怖を語る。自分は、かつては枝が広がり葉っぱが繁った木であった。しかし、いまは枝がないのはもちろん葉っぱもない。何もない木だ。このことばに覆い被さるように、イギリスの緑豊かな木が風に葉を揺らし、光をはね返す美しいシーンが広がる。そして、映画が終わる。それを見ながら、私は人生の最後にどんな風景を見るのだろうと思い、また、恐怖に叩き落とされる。
 この映画は、アンソニー・ホプキンスがアカデミー賞(主演男優賞)を取ったから、見に行ってみよう、という軽い気持ちでは見に行かない方がいい。ぞっとするから。アンソニー・ホプキンスの演技は、生き生きとした表情から失意まで、非常に幅が広くて、それだけでも恐怖の原因になるし、いわゆるイギリス英語の明瞭な発音が、最後の不安でいっぱいの声に変わる、その声の演技も「迫真」であり、それだけにまた、非常にこわいのである。

 

 

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ティム・ヒル監督「グランパ・ウォーズ」(★★)

2021-05-04 09:04:18 | 映画

ティム・ヒル監督「グランパ・ウォーズ」(★★)(2021年05月02日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ティム・ヒル 出演 ロバート・デ・ニーロ、オークス・フェグリー、ユマ・サーマン

 長い間映画を見ていなかったので、映画をどうやって見ていいのかわからない感じがした。それで、気楽に笑える映画をと思い、見に行ったが……。
 大人向けというよりも、家族向け、子ども向けコメディーだから、セリフがやたらとはっきりしている。ニュアンスではなく、はっきりと、わかりやすく。これは演技にもあらわれている。アクションがオーバー。内に抱え込んでいるものがない。すべてを出してしまうを通り越して、すべてを型の枠に入れてしまう。
 こういうとき、役者は何を感じるのかなあ。
 まあ、デ・ニーロは「童心」に帰って楽しんでいるなあ。ドッジボールのシーンははしゃいでいる。クライマックス(?)の孫との一対一の対決、ジャンプしてボールを投げるときの姿勢など、どうやってとったのかわからないが、さまになっている。「やれたぞ」と喜んでいる感じがいいなあ。
 それにしてもね。
 「タクシー・ドライバー」の、痩せて、ぎらぎらした感じの青年が、こんなに腹が出た老人になるのかと思うと、人間の体は不思議だ。「レイジング・ブル」のときは落ちぶれていくボクサーを演じるために何キロも太ったようだが、そのときの「酷使」が影響しているのかも。よくわからないが、太って「愛嬌」が出てきたので、こういう老人役には向いている。クリストファー・ウォーケンが、痩せたまま(それでも、「ディア・ハンター」と比べると太ったか)と比べると、その違いがわかる。
 ユマ・サーマンは、かつてはデ・ニーロのような「体の線」があったが、今回は、それがない。まあ、コメディーだから、か。
 私が唯一笑ったのは、予告編でもあったが、デ・ニーロのベッドにヘビがあらわれるシーン。これって、「ゴッド・ファーザー」の「馬の首」だね。でも、あの映画、デ・ニーロは出ていないんだよなあ。デ・ニーロが出たのは「パートⅡ」。でも、おかしい。何か、記憶をくすぐられる。
 で、ね。
 ここまで書いてきてわかることは、これはやっぱり「記憶をくすぐる」映画なのだ。デ・ニーロの友人がクリストファー・ウォーケンである理由も、さらには「戦争」が何やら「ゲリラ戦」(ベトナム戦争のとき、はやったことば)を思い出させるのも。そのときはなかったドローンも出てくるけれど、これだって、それを駆使するのはアメリカ(デ・ニーロ)だからね。ユマ・サーマンも、かつては「戦う女」だったから起用されたのかも。とくに戦うシーンはないが、ふたりの「戦争」を、うすうす感じるのも「戦士」だったからこそ。
 たぶん、そういう「見方」も求められているんだろうなあというか、そういう「見方」も期待して映画はつくられているんだろうなあ。でも、私は、こんな「うがった」見方が嫌い。映画は、過去にどんな映画を見たかを思い出すためのものじゃない。過去を思い出すためのものではない。
 次はもっと違う映画を見たいなあ。
 コロナが拡大する中、映画館も「時短」営業になるようだが。

 

 

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フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」

2021-04-28 08:01:56 | 映画

フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」(★★★★)(2021年04月27日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フランシス・リー 出演 ケイト・ウィンスレット、シアーシャ・ローナン

 ケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンの組み合わせが気になって見に行った。ふたりとも好きな女優というわけではないのだが、どこをどう叩いても壊れそうにないケイト・ウィンスレットの肉体の厚み、どこをどう叩いても壊れそうにないシアーシャ・ローナンの精神のしなやかな強靱さ(復元力?)がぶつかるのはおもしろい「見もの」という感じがしたのである。
 で、この二人の演技合戦。通い合うところが全然ないような感じがして、それが逆に、なんともおもしろい。二人は仕事(?)も正確もまったく違うし、感性そのものもまったく違う。本来なら出会う必然性がない。そして、二人は、互いが違う人間であるということを理解している。理解した上で、出会ってしまうのである。
 そして、出会ってしまったあと、共通点があるということを「わかる」。「理解する」という感じではなく「わかる」。「頭」で理解するのではなく、皮膚感覚、肌の感じで「わかる」のである。男に、正当に(?)評価されていない、認められていない。人間として受け入れられていない。そのために苦労している(苦悩している)、ということを「わかる」。そして、接近していく。異質なのに、接近していく。異質だから、どうせ理解されないと思い、接近しやすいのかもしれないが。
 それは磁石のような感じ。対極が、「磁石」という共通の性質で引きつけあう。
 これをケイト・ウィンスレットのどっしりした不透明な肉体と、シアーシャ・ローナンの繊細で透明な肉体で演じる。ぶつかりあう。なかなか、すごい。セックスシーンが映画というよりも、何か、「演じていない」すごみで迫ってくる。「美しく」撮ろう、撮られようとしていない感じがする。セックスはひとに見せるものではないから、それでいいのだが、何か他人を(観客を)無視したようなところがあって、びっくりしてしまう。
 こういうことを象徴するのが、ケイト・ウィンスレットがシアーシャ・ローナンの家を訪ねて行ったときのこと。メイドが二人のキスシーンを見るが、シアーシャ・ローナンは見られていることを意識しない。「たかが使用人だ」というようなことを言う。他人など「眼中」に入っていないし、自分にとって何の関心もない人間を排除しても、何も感じないのだ。
 これは逆に言えば、二人がつねに男から排除されていることを意識しているということでもある。ふたりは男から「排除する暴力」を学んでいるのである。ふたりは常に誰かを排除しようとしている。そして、排除する/排除されるという関係が、二人がいつも向き合っている世界なのだ。でも、二人でいるときは排除する/排除されるがない、とふたりは一瞬の夢を見る。
 その、そのすさまじいセックスシーンを見ながら、あ、これだな、と思ったのだ。何が、これだなと思ったかというと。この映画の主人公の二人は、他人なんか気にしていないのだ。自分のしたいことがあり、それに向かってまっしぐらなのである。「まっしぐら」を通して「排除する力」に対抗する。そういう力を生きるしかないと理解して、そのまっしぐらにひかれ、まっしぐらすぎて結局うまくいかない。うまくいかないけれど、それでも、求めてしまう。
 ラストの大英博物館の「化石の展示ケース」を挟んでむきあうふたりの姿は、何の「結論」も明確にしていないが、それゆえに、すごい。結論などどこにもない。生きていること自体が結論であって、その展開がどういう結論に達するかは問題ではない。そんなものは「偶然」なのだ。「展開していく」ということだけが大切(必然)なのだ。そして、その「必然」をふたりが自分で選ぶように、観客は自分で選ばなければならない。
 こういう映画は、病み上がりの肉体には重すぎる。デ・ニーロの「グランパ・ウォーズ」くらいで時間潰しをすべきだったか、と少し反省した。

 


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ロベール・ブレッソン監督「少女ムシェット」

2021-04-20 08:20:45 | 映画

ロベール・ブレッソン監督「少女ムシェット」(★★★★★)(2021年04月19日、KBCシネマ2)

監督 ロベール・ブレッソン 出演 ナディーヌ・ラミー

 昔の映画(1967年制作)は、いいなあ。「短篇小説」のように、深い余韻が残る。
 この映画はフレームというのか、画面の切りとり方が味わい深い。凝ると、カメラが演技をしているという印象になるが(最近の映画に多い)、カメラはどっしりと構えている。そのカメラのフレームの枠から肉体が自然にはみ出し、それがそのまま画面を切りとっている感じになる。短い文章を積み重ねることでつくられた、無駄のない短篇小説の文体に触れている感じだ。
 この「切りとられた映像」に重なるように、「切りとられたセリフ」がある。画面からも、ことばからもはみだしている現実が実際には存在するのだけれど、そのはみだした部分は観客に想像させる。そして、不思議なことに、そのはみだしている部分、想像した肉体、想像したことばは、そこに存在しないはずなのに、役者の肉体のなかで凝縮しているように感じられる。短篇小説の文体が、ただ短ければいいというのではなく、凝縮していないとおもしろくない、というのに似ている。「凝縮」のなかに「長編」に匹敵する「時間」があるのだ。感情があるのだ。
 そこに動いている人間の感情、そのすべてを克明に知っているという気持ちになる。「切りとられること」で、本質だけになる、ということなのかもしれない。
 しかし、その「本質」というのは危険だ。剥き出しになってしまうというのは、支えるもの(隠すもの)を失うことだから。
 そのことを人間関係と森との対比で、この映画は、深々としたものとして展開する。
 一方に人事(家庭、社交、学校)があり、他方に自然(森)があり、その森(自然)は人が荒らしてはいけない領域だが、それは美しいからではなく、きっと危険だからなのだろう。人間を目覚めさせる何かがある。「本質」が人間に邪魔されずに、動いている。罠にかかる鳥や、銃で撃たれる兎さえ、「本質」なのだ。
 人事(人間関係)に嫌気がさした少女は、森の中で生まれ変わる。それは、ほんとうの自分になるという意味である。保護される少女から脱皮して、少女であることを超越する。おとなと対等になる。こういうことは、人間には必要なのだけれど、やはり危険なことでもある。
 少女は、結局自殺してしまうが(つまり、危険を乗り越えられないのだが)、この自殺のシーンが非常に美しい。ああ、よかった、と思ってしまうのだ。少女が死んでしまうのに。
 危険なのは、少女ではなく、この映画を見ている私ということになる。絶望的な少女が死んでいくことを、美しいと感じるというのは、人間として変でしょ? こういう矛盾にたじろいでみるのも、映画を見る楽しみだなあ、と私は思う。
 それにしても、このモノクロの映像は美しいなあ。涙の輝きが、輝きとしかいいようがない美しさで迫ってくる。明暗のなかに色彩がある。さらに、主演の少女もいいなあ。目に力があるだけではなく、全身に力がある。少女だからあたりまえなのかもしれないが、肌に張りがある。それは何か野生を感じさせる。森の小さな獣である。

 

 

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クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)

2021-04-12 08:35:53 | 映画

クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」(★★★)(2021年04月21日、中洲大洋、スクリーン3)

監督 クロエ・ジャオ 出演 フランシス・マクドーマンド

 フランシス・マクドーマンドが主演だし、アメリカで評判になっている映画でもあるので見に行った。アメリカの現実を知るという意味では貴重だったが、日本とどれだけ重なり合うものをもっているか。ちょっと疑問だ。つまり、私の現実とどうかかわってくるか、というところで親身に受け止められない部分がある。私は車を運転しないので、車を「ホーム」として動くというところで、まず、私との違いを実感する。この違いを、乗り越えることができない。
 気に入ったシーンが二つある。ポスターにもなっている海のシーンと、ラスト近くの砂漠(荒野)のシーン。この二つには共通点がある。海のシーンは、姉の「ホーム=ハウス」の安定した姿に接したあと、やっぱりここにはいられないと思い、ひとりで姉の家をあとにする。誰にも告げない。そして、海へ来る。荒れている。荒野のシーンは、かつて住んでいた「社宅/ホーム=ハウス」の裏庭につづいている。どこまで行っても、何もない。(遠くに山はあるけれど。)海と同じだ。共通しているのは、何もない、荒れている、ということではない。「ホーム=ハウス」に触れたあと、「ハウス」を捨てて、何もないところへ行くという行動が共通している。「ハウス」はない。しかし、彼女には車という「ホーム」がある。そして、それは言い直せば「記憶」である。
 象徴的なシーンが、皿が割れるシーン。祖父の代からつたわる大事にしていた皿。それが、友人の不注意で割れてしまう。それをフランシス・マクドーマンドは、接着剤で復元する。「できた」と安心する。「ホーム=記憶」は、彼女の肉体そのものになっている。改良を重ねて、自分の暮らしにあうようにしてきた車は、もはや彼女の肉体だから、新しい車に買い換えたらと言われても、それを手放すことはできない。割れた皿も、割れたからといって捨てるわけにはいかない。それは彼女の「肉体」だからだ。
 この「肉体」を認識させてくれるのが、荒れた海であり、何もない荒野なのだ。それは非情である。非情であるからこそ、彼女の肉体のなかに生きている「情=記憶」を厳しく屹立させてくれる。彼女は、そういうものが好きなのだ。何よりも、記憶を生きているのだ。
 この感覚は「ノマド」と呼ばれる人に共通するものかもしれない。彼女の友人は、燕が巣をつくっている川岸を思い出す。大量の燕の巣。群れ飛ぶ燕が川面にうつる。その美しさを忘れることができない。そこには、やはりひとは、彼女ひとりしかないのだ。
 なるほどなあ、と思う。
 しかし、一方で、それに匹敵するような非情な自然は、日本には少ないかもしれない。日本は狭すぎる。すぐ「人家」が目に入る。個人に絶対的孤独にたたきつけ、さあ、自分の記憶=肉体だけを頼りに生きていけるかと迫るような広大で荒れた自然は少ない。それに、日本は車でどこまでも移動できる広さそのものがない。周りが海で、1000キロ走れば陸はなくなる。いや、1000キロも走らなくても、海は近い。アメリカにとって(少なくとも、この映画に登場するひとたちにとって)海とは、太平洋か大西洋であり、それは砂漠(荒野)と同じようなものなのだ。
 などなど、と思う。それにしても……。
 けがのため、この映画は私にとっては今年初めての映画になった。2時間椅子にすわっていられるか不安だったが、なんとか乗り切れた。しかし、映画の見方を忘れているかもしれないなあ、とも感じた。フランシス・マクドーマンドは大好きな女優だが(「ビルボード」よりも「ファーゴ」の方が好き)、顔は痩せているのに、下半身は大きいなあ、とか、荒野で排泄するとき、わざわざ車から離れたところまで行って排泄するのかなどと、変なところが印象に残った。もしかすると、その変なところにこそ、この映画では見逃してはいけないものがあるのかもしれない、という気もする。それが「映画の見方を忘れてしまった」と書いた理由。この映画を評価するなら、その排泄シーンとか、レストランの厨房のこびりついた肉をヘラで削ぎ落とすシーンとか、アマゾンでの働き方とか(そういう細部の描き方)に注目しないといけないだろうなあ、と思う。「ノマド」は単に移動する人間ではなく、同時に労働する人間だからである。私は、その部分を半分見落としている。映画の見方を忘れてしまっている、と、やっぱり思う。

 

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