江代充「初めてのかなしみ」(「現代詩手帖」2016年05月号)
江代充「初めてのかなしみ」は「三つのクレメンス 改稿のあと」の内の一篇。
江代の詩を読むと、私はいつも、「主語」と「述語」の関係にとまどってしまう。「主語」が作品のなかで動いていく。たとえば「わたし」と書かれていたものが、いつのまにか「わたし」ではなくなっていく。「主語」が変わっていくのに、変わっていかない何かがある、という印象がある。それに、つまずくというか、奇妙なひっかかり、抵抗感、存在感を感じてしまう。
詩の書き出し(三行目)に「わたし」ということばが出てくる。これは「主語」か。「わたし」ということばは「主語」を連想させるが、しかし、ここでは「主語」ではない。「主語」は「事がら」であり、「述語」は「ある」。
「事がら」が「ある」。
では、その「事がら」とは何か。「わたしにも明るみに出されている」という奇妙な(?)修飾節がついている。「わたし」は「いくつもの事がら」で構成されている。「事がら」というのは、よくわからないが、たとえば「誰かとけんかして怒っている」「花が枯れているのをみてさびしいと感じた」「財布を忘れてきてしまったので、昼飯を食べることができない。困ったなあ」というような「感情/意識の動き」のことかもしれないが、そういうものが、自然に「私のおもて(表情やふるまい)」に出ている。出てしまう、ということかもしれない。あるいは、「熱があって体がだるい」という体調のようなものかもしれない。それも、隠そうとしても、ふっと「おもて」に出てしまう、明るみに出てしまうものである。「明るみに」というのは、「感情/意識」というものが「肉体」の「内部/暗く閉ざされたところ」で動いているという意識があるためだろう。「出されている/出る」という「動詞」が、そんなことを考えさせる。
そして、そう読むと、「明るみに出されている事がら」が「(わたしにも)ある」という「意味」が「わかった」ような気がする。気がするが……。この「わかった」は、かなり変である。私は、いま書いたことを、いま書いた順序で「わかった」わけではないし、「わかった」と書いたことよりも、もっと気がかりなことがある。
「事がら」が「ある」と書かれる前に、別なことばが二行ある。
これは、何でもないようだけれど、実は、とても変。私の感覚では。
「地(面)」や「土」というものを、私はあまり意識しない。「道」とか「公園」とか「畑」のような、自分の「暮らし」と結びついたことばでとらえてしまう。「道」を見て、それがアスファルトではないと気づいて、それから「地(面)」の様子、「土」の様子に目がいく。「地(面)/土」の「荒さ」に気がつく。よく見ると「小石」がある。「つぶつぶ」である、という感じ。それと
わたしにも(よく見ると)地(面)や土の荒さのような、(ざらざら)ぶつぶつのようなものが、つまり「いまのわたし」の「事がら(事情?)」が、明るみに(おもてに)出ている、ということになるのだろう。
で、私は、いま「おなじく」だけを強調するように、独立させて書いてみたのだが。
これって、「おなじく」ということばで言い表すことだろうか。
うーん。
よくわからない。わからないのだが……。
「地(面)/土」の、よく見ると見えてくる(明るみに出されてくる)、「荒さ/小石のつぶつぶ」、それが「見えた」という動きがあって、その「動き」に沿うような形で、「わたしにも明るみに出されている事がら」が「明るみだされている」、つまり「ある」という形に変化していく。
「おなじく」というのは「土の荒さ/小石のつぶつぶ」と「おなじ何か(たとえば、荒れた感情)」という具合につづくのではなく、「同じく/明るみに出されている」とつながっているのではないのか。
そうすると、「主語」は「わたし」ではない。また「地(面)/土」でもない。「明るみに出されている」という「動詞」が「主語」なのではないだろうか。「明るみに出される」という「動き」が、ことばを「一貫している」のではないか、という気がする。「明るみに出されている/明るみに出る」という「動詞」では「主語」になりにくい(?)ので、「名詞」である「事がら」ということばをしたがえているのではないだろうか。
「主語=明るみに出されている」は、どのように言い換えられ、詩のなかを動いていく。
この二行でも、「学校文法」では「主語」は「道」であり、「述語」は「真っ直ぐにながれ(る)/(のびる/つづく)」かもしれないのだが。
私は「主語」を「明るみに出されている」という「動き」だと読む。つまり、「明るみに出されている/明るみにだす」という「主語」は、「土」「道」と見えず「不確かだった」が「畑へ向けて真っ直ぐにながれ(る)」と言い換えられていると読み直す。「不確か」だったものが「明確になる」。真っ直ぐに見えてくる。
こういうことが「おなじ」ものとして書かれている。
「地(面)」「土」だったものが「道」として「明るみに出てくる/明るみにだされる」ということでもある。
「みられない」は「明るみに出されていない/明るみに出ていない」と「おなじ」意味になるだろう。「聞き取ろうとして(する)」というのは「明るみに出そうとする」ということになる。
どんなもの/ことにも「おもて」に見えるものと、見えないもの、明るみに出ているものと、明るみに出ていないものがある。「明るみに出ていない」ものは「不確か」である。「事がら」にはなっていない。「苦しむわが子」において「明るみに出されている」ものは「苦しむ」という「動詞」であるが、その「わが子」は「よろこび」を内部に抱えているかもしれない。苦しみながらも、なんらかの「よろこび」に通じるものがどこかに動いているかもしれない。それを「聞き取ろう」とする。「明るみに出そうとする」動きかある。
「明るみに出されている」は自発的である。「聞き取ろうとする」は、働きかけをふくんでいる。ここには「学校文法」で言えば「主語」の交代があるのだが、「明るみに出される/明るみに出る」という「動き」、見えなかったもの(隠れていたもの)が動いておもてに出てくるという「動き/動詞」そのものが「主語」ととらえると「主語」は一貫していることになる。
この「動詞/動き」をとおって、読者(私)は、「地/土」になったり「わたし」になったり、さらに「道」になったり、「一婦人」になったり、「(一婦人の)わが子」になったりする。それらの「形式的な主語(名詞)」は、その瞬間瞬間にあらわれてくるもの、「明るみに出されている」という「動詞」のあり方を確かめるための(語るための)方便である。
この部分の「学校文法」の「主語/述語」は「小鳥たちが/鳴いて(いる)」。
「明るみに出されている/明るみに出す」を「主語」として読むと、「仲間をまじえた」の「まじえる」は「隠す」とも「明るみにだされた」とも読むことができる。両方の意味になって「明るみに出す/隠す」を突き動かしていることがわかる。「動詞」だから、それはいつでも「反対の動き」を含んでいる。「作用/反作用」がある。「そちらへ長く伸び切る」は、「そちらへ向かう」であり、「向かう」は「明るみに出す/出る」の「出す/出る」に通じる。小鳥の「鳴く」は「発話する/ことばに出す」に通じる。
こういう「動詞」のすべてを肉体で追いかけると、そのとき「初めてのかなしみ」というタイトルそのものが「主語」となってあらわれてくる。
二行目に書かれている「おなじく」を追いかけると、そういう「動き」が見える。「初めてのかなしみ」が、突然、「主語」となって、私のなかに居座る。いちばん重要な位置を占める。
途中にでてきた「学校文法」の「主語/述語」の「主語」、「地/土」「わたし」「道」「一婦人」「小鳥」は、「動詞」のなかに吸収され、瞬間的にあらわれてくるだけの存在になる。
「学校文法」の「主語/述語」を中心にことばを追いかけるのではなく、「修飾節」や「比喩」なのかで動いている「動詞」にも目を配って、作品全体を貫いている「動詞」を探し出し、そこからことばを読み直すことが必要なのだと思う。
全体の「意味」(結論)よりも前に、私たちは、そこで「動いている」ことばそのものに反応して、「意味」(結論)を「予測する」。その「予測する」という動きに直接働きかけてくる「ことば」が、たぶん、詩のキーワードなのだ。
この「おなじく」「明るみに出されている」の「明るみに出されている」に、もう一度注目しなおしたい。「明るみ」ということば。そこには不思議な願いのようなもの、いのりのようなものがある。
「動詞」は「作用/反作用」。「出す」の反作用は「隠す」。そして「明るみ」の対極には「暗さ」がある。
「かなしみ」というのは、普通に考えると「暗い」もの、否定すべきもの、乗り越えるべきもの。けれど、江代はこれを「明るみ」ということばといっしょに動かしている。
「よろめき苦しむわが子」から「よろこび」を「聞き取ろうとする」。「かなしみ」は「苦しみ」に通じるが、「明るみ」ということばによって、「苦しみ」は「暗さ」から解放されている。解放をねがって、「明るみ」ということばが動いていると言い直すことができるかもしれない。
江代充「初めてのかなしみ」は「三つのクレメンス 改稿のあと」の内の一篇。
江代の詩を読むと、私はいつも、「主語」と「述語」の関係にとまどってしまう。「主語」が作品のなかで動いていく。たとえば「わたし」と書かれていたものが、いつのまにか「わたし」ではなくなっていく。「主語」が変わっていくのに、変わっていかない何かがある、という印象がある。それに、つまずくというか、奇妙なひっかかり、抵抗感、存在感を感じてしまう。
地(ち)と土(つち)の荒さや
小石のつぶつぶとおなじく
わたしにも明るみに出されている事がらが
いくつかある
詩の書き出し(三行目)に「わたし」ということばが出てくる。これは「主語」か。「わたし」ということばは「主語」を連想させるが、しかし、ここでは「主語」ではない。「主語」は「事がら」であり、「述語」は「ある」。
「事がら」が「ある」。
では、その「事がら」とは何か。「わたしにも明るみに出されている」という奇妙な(?)修飾節がついている。「わたし」は「いくつもの事がら」で構成されている。「事がら」というのは、よくわからないが、たとえば「誰かとけんかして怒っている」「花が枯れているのをみてさびしいと感じた」「財布を忘れてきてしまったので、昼飯を食べることができない。困ったなあ」というような「感情/意識の動き」のことかもしれないが、そういうものが、自然に「私のおもて(表情やふるまい)」に出ている。出てしまう、ということかもしれない。あるいは、「熱があって体がだるい」という体調のようなものかもしれない。それも、隠そうとしても、ふっと「おもて」に出てしまう、明るみに出てしまうものである。「明るみに」というのは、「感情/意識」というものが「肉体」の「内部/暗く閉ざされたところ」で動いているという意識があるためだろう。「出されている/出る」という「動詞」が、そんなことを考えさせる。
そして、そう読むと、「明るみに出されている事がら」が「(わたしにも)ある」という「意味」が「わかった」ような気がする。気がするが……。この「わかった」は、かなり変である。私は、いま書いたことを、いま書いた順序で「わかった」わけではないし、「わかった」と書いたことよりも、もっと気がかりなことがある。
「事がら」が「ある」と書かれる前に、別なことばが二行ある。
地(ち)と土(つち)の荒さや
小石のつぶつぶ
これは、何でもないようだけれど、実は、とても変。私の感覚では。
「地(面)」や「土」というものを、私はあまり意識しない。「道」とか「公園」とか「畑」のような、自分の「暮らし」と結びついたことばでとらえてしまう。「道」を見て、それがアスファルトではないと気づいて、それから「地(面)」の様子、「土」の様子に目がいく。「地(面)/土」の「荒さ」に気がつく。よく見ると「小石」がある。「つぶつぶ」である、という感じ。それと
おなじく
わたしにも(よく見ると)地(面)や土の荒さのような、(ざらざら)ぶつぶつのようなものが、つまり「いまのわたし」の「事がら(事情?)」が、明るみに(おもてに)出ている、ということになるのだろう。
で、私は、いま「おなじく」だけを強調するように、独立させて書いてみたのだが。
これって、「おなじく」ということばで言い表すことだろうか。
うーん。
よくわからない。わからないのだが……。
「地(面)/土」の、よく見ると見えてくる(明るみに出されてくる)、「荒さ/小石のつぶつぶ」、それが「見えた」という動きがあって、その「動き」に沿うような形で、「わたしにも明るみに出されている事がら」が「明るみだされている」、つまり「ある」という形に変化していく。
「おなじく」というのは「土の荒さ/小石のつぶつぶ」と「おなじ何か(たとえば、荒れた感情)」という具合につづくのではなく、「同じく/明るみに出されている」とつながっているのではないのか。
そうすると、「主語」は「わたし」ではない。また「地(面)/土」でもない。「明るみに出されている」という「動詞」が「主語」なのではないだろうか。「明るみに出される」という「動き」が、ことばを「一貫している」のではないか、という気がする。「明るみに出されている/明るみに出る」という「動詞」では「主語」になりにくい(?)ので、「名詞」である「事がら」ということばをしたがえているのではないだろうか。
「主語=明るみに出されている」は、どのように言い換えられ、詩のなかを動いていく。
その日それまでは不確かだった道が
後日墓地となった畑へ向けて真っ直ぐにながれていたり
この二行でも、「学校文法」では「主語」は「道」であり、「述語」は「真っ直ぐにながれ(る)/(のびる/つづく)」かもしれないのだが。
私は「主語」を「明るみに出されている」という「動き」だと読む。つまり、「明るみに出されている/明るみにだす」という「主語」は、「土」「道」と見えず「不確かだった」が「畑へ向けて真っ直ぐにながれ(る)」と言い換えられていると読み直す。「不確か」だったものが「明確になる」。真っ直ぐに見えてくる。
こういうことが「おなじ」ものとして書かれている。
「地(面)」「土」だったものが「道」として「明るみに出てくる/明るみにだされる」ということでもある。
べつの道の向こうでは
よろめき苦しむわが子をめぐる 一婦人の願いから
その場の発話にみられない
よろこびの事がらを聞き取ろうとして
「みられない」は「明るみに出されていない/明るみに出ていない」と「おなじ」意味になるだろう。「聞き取ろうとして(する)」というのは「明るみに出そうとする」ということになる。
どんなもの/ことにも「おもて」に見えるものと、見えないもの、明るみに出ているものと、明るみに出ていないものがある。「明るみに出ていない」ものは「不確か」である。「事がら」にはなっていない。「苦しむわが子」において「明るみに出されている」ものは「苦しむ」という「動詞」であるが、その「わが子」は「よろこび」を内部に抱えているかもしれない。苦しみながらも、なんらかの「よろこび」に通じるものがどこかに動いているかもしれない。それを「聞き取ろう」とする。「明るみに出そうとする」動きかある。
「明るみに出されている」は自発的である。「聞き取ろうとする」は、働きかけをふくんでいる。ここには「学校文法」で言えば「主語」の交代があるのだが、「明るみに出される/明るみに出る」という「動き」、見えなかったもの(隠れていたもの)が動いておもてに出てくるという「動き/動詞」そのものが「主語」ととらえると「主語」は一貫していることになる。
この「動詞/動き」をとおって、読者(私)は、「地/土」になったり「わたし」になったり、さらに「道」になったり、「一婦人」になったり、「(一婦人の)わが子」になったりする。それらの「形式的な主語(名詞)」は、その瞬間瞬間にあらわれてくるもの、「明るみに出されている」という「動詞」のあり方を確かめるための(語るための)方便である。
もとから貧しい仲間をまじえたいく羽かの小鳥たちが
そちらへ長く伸び切っている
葉のある枝の上からともにかなしみ
鳴いていたりする
この部分の「学校文法」の「主語/述語」は「小鳥たちが/鳴いて(いる)」。
「明るみに出されている/明るみに出す」を「主語」として読むと、「仲間をまじえた」の「まじえる」は「隠す」とも「明るみにだされた」とも読むことができる。両方の意味になって「明るみに出す/隠す」を突き動かしていることがわかる。「動詞」だから、それはいつでも「反対の動き」を含んでいる。「作用/反作用」がある。「そちらへ長く伸び切る」は、「そちらへ向かう」であり、「向かう」は「明るみに出す/出る」の「出す/出る」に通じる。小鳥の「鳴く」は「発話する/ことばに出す」に通じる。
こういう「動詞」のすべてを肉体で追いかけると、そのとき「初めてのかなしみ」というタイトルそのものが「主語」となってあらわれてくる。
二行目に書かれている「おなじく」を追いかけると、そういう「動き」が見える。「初めてのかなしみ」が、突然、「主語」となって、私のなかに居座る。いちばん重要な位置を占める。
途中にでてきた「学校文法」の「主語/述語」の「主語」、「地/土」「わたし」「道」「一婦人」「小鳥」は、「動詞」のなかに吸収され、瞬間的にあらわれてくるだけの存在になる。
「学校文法」の「主語/述語」を中心にことばを追いかけるのではなく、「修飾節」や「比喩」なのかで動いている「動詞」にも目を配って、作品全体を貫いている「動詞」を探し出し、そこからことばを読み直すことが必要なのだと思う。
全体の「意味」(結論)よりも前に、私たちは、そこで「動いている」ことばそのものに反応して、「意味」(結論)を「予測する」。その「予測する」という動きに直接働きかけてくる「ことば」が、たぶん、詩のキーワードなのだ。
この「おなじく」「明るみに出されている」の「明るみに出されている」に、もう一度注目しなおしたい。「明るみ」ということば。そこには不思議な願いのようなもの、いのりのようなものがある。
「動詞」は「作用/反作用」。「出す」の反作用は「隠す」。そして「明るみ」の対極には「暗さ」がある。
「かなしみ」というのは、普通に考えると「暗い」もの、否定すべきもの、乗り越えるべきもの。けれど、江代はこれを「明るみ」ということばといっしょに動かしている。
「よろめき苦しむわが子」から「よろこび」を「聞き取ろうとする」。「かなしみ」は「苦しみ」に通じるが、「明るみ」ということばによって、「苦しみ」は「暗さ」から解放されている。解放をねがって、「明るみ」ということばが動いていると言い直すことができるかもしれない。
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