監督 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 出演 ジョシュ・ブローリン、ジョージ・クルーニー、オールデン・エアエンライク、レイフ・ファインズ、スカーレット・ヨハンソン、チャニング・テイタム
予告編を見たときは、もっとジョージ・クルーニーの「間抜けぶり」を楽しめるコメディーだと思ったけれど、「間抜けぶり」が意外と少ない。けれど、意外と真に迫っている(?)というべきなのかなあ。「間抜けぶり」というよりも「間抜け顔」がおもしろい。クールを装っているが、現実はきっと間抜けと思うと、親しみがわく。
スカーレット・ヨハンソンも、「かわいい人魚」もいいけれど、裏の「意地悪な顔/声」がいいなあ。スターというのは表面的には「かわいい」「美しい」で売るのだろうけれど、なんといっても競争の社会だから、裏はギスギスしてるんだろうなあ、というファンの「予想」に答えてくれるところが、なんともいい。美人なんてちやほやされている女はきっと意地悪。意地悪な根性がないと競争社会は生き抜けない。
ジョージ・クルーニーだって、クールな「美男子」ということになっているが、現実はきっと「間抜け」。「間抜け」だから、スタッフにも愛されて、映画に出られる、という具合に考えるとおもしろいでしょ? これって、スカーレット・ヨハンソンの「対極」のキャラクターだね。
ジョージ・クルーニーの話をつづけると……。
共産党(?)に誘拐されて、すっかり洗脳されて、その気になって。でも救出されて、映画にもどるとき、「間抜けめ、何を考えてるんだ」という感じでバシバシ平手打ちされて、平手打ちだけで「正気(?)」にかえって、また演技する。これって「間抜け」の証拠だよねえ。で、その演技、「間抜け」だから、「覚え込んだ台詞」はなんとも言えず「真に迫る」。わっ、感動的。スタッフも思わず、ことばの力(演技)に吸い込まれていくというラスト直前のシーンがいいなあ。でも「間抜け」だから、台詞は全部言えずにカット(NG)になるなんて、いいなあ。
でも、これは付録。
オールデン・エアエンライクの乗馬(西部劇)、縄回し、スパゲティ回しという、50年代のハリウッドを覗き見るような感じのシーン、スカーレット・ヨハンソンの「人魚」の撮影シーン、チャニング・テイタムのタップダンスのシーンなど、とても「なつかしい」感じの「映画シーン」が楽しい。非日常の夢がいっぱい。「リアル」ではないけれど、そこに「夢のリアル」がある。
これが見たかったんだよなあ。これを見るために映画館にゆくんだよなあ、という感じのシーン。現実では体験できない「夢」を見る。それが映画、という「哲学」があふれている。昔の映画だね。
一方で、オールデン・エアエンライクとレイフ・ファインズの「絶妙」な絡みがある。台詞回し(というより演技そのもの)がへたくそなオールデン・エアエンライクにレイフ・ファインズが演技をつけるシーンなんか、笑ってしまうなあ。ハリウッドではないのだけれど、アラン・ドロンとビスコンティの「演技指導」というか、関係も、こんな感じだったかなあと想像させる。「無知/野卑」を映像で「貴族」に変えてしまう魔法の裏には、こういうことがあったかも、と想像させる。オールデン・エアエンライクの目つきがなんとなくアラン・ドロンに似てるでしょ?
主役はジョシュ・ブローリンとその「苦労」なんだろうけれど、オールデン・エアエンライクが「主役」ではないのに、どこか「主役」のような動きをするところも、妙におもしろい。
「軽さ」がいい。オールデン・エアエンライクが「真人間/正直」を貫き、それが映画に「軽さ」と「スピード」を与えている。
描きようによっては、とても「重い」テーマ、特にジョシュ・ブローリンに背負わされた「実業」を選ぶか「虚業」を選ぶかという問題はなかなか重いもの。映画好きのコーエン兄弟なので、もちろん「虚業」を選ぶんだけれど、その「虚業」のなかにあって、オールデン・エアエンライクの「無知」だけが「真実」を語る、「真実」を発見する、というのがいいねえ。ほんとうに知っていることだけを行動の基準にしている。そこに「正直」の美しさがあらわれている。
まあ、それも「演技」なのだろうけれど。
スパゲティの「輪投げ」はやってみたいなあ。ジョージ・クルーニーの「間抜け」な平手打ちを喰らう顔というのも、変な言い方だが、やってみると「快感」だろうなあ。バシッゼシッと殴られても殴られても、まだ「間抜け顔」をつづけるというのは、きっと「快感」だと思う。
なんだか、支離滅裂な感想……。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多11、2016年05月29日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
予告編を見たときは、もっとジョージ・クルーニーの「間抜けぶり」を楽しめるコメディーだと思ったけれど、「間抜けぶり」が意外と少ない。けれど、意外と真に迫っている(?)というべきなのかなあ。「間抜けぶり」というよりも「間抜け顔」がおもしろい。クールを装っているが、現実はきっと間抜けと思うと、親しみがわく。
スカーレット・ヨハンソンも、「かわいい人魚」もいいけれど、裏の「意地悪な顔/声」がいいなあ。スターというのは表面的には「かわいい」「美しい」で売るのだろうけれど、なんといっても競争の社会だから、裏はギスギスしてるんだろうなあ、というファンの「予想」に答えてくれるところが、なんともいい。美人なんてちやほやされている女はきっと意地悪。意地悪な根性がないと競争社会は生き抜けない。
ジョージ・クルーニーだって、クールな「美男子」ということになっているが、現実はきっと「間抜け」。「間抜け」だから、スタッフにも愛されて、映画に出られる、という具合に考えるとおもしろいでしょ? これって、スカーレット・ヨハンソンの「対極」のキャラクターだね。
ジョージ・クルーニーの話をつづけると……。
共産党(?)に誘拐されて、すっかり洗脳されて、その気になって。でも救出されて、映画にもどるとき、「間抜けめ、何を考えてるんだ」という感じでバシバシ平手打ちされて、平手打ちだけで「正気(?)」にかえって、また演技する。これって「間抜け」の証拠だよねえ。で、その演技、「間抜け」だから、「覚え込んだ台詞」はなんとも言えず「真に迫る」。わっ、感動的。スタッフも思わず、ことばの力(演技)に吸い込まれていくというラスト直前のシーンがいいなあ。でも「間抜け」だから、台詞は全部言えずにカット(NG)になるなんて、いいなあ。
でも、これは付録。
オールデン・エアエンライクの乗馬(西部劇)、縄回し、スパゲティ回しという、50年代のハリウッドを覗き見るような感じのシーン、スカーレット・ヨハンソンの「人魚」の撮影シーン、チャニング・テイタムのタップダンスのシーンなど、とても「なつかしい」感じの「映画シーン」が楽しい。非日常の夢がいっぱい。「リアル」ではないけれど、そこに「夢のリアル」がある。
これが見たかったんだよなあ。これを見るために映画館にゆくんだよなあ、という感じのシーン。現実では体験できない「夢」を見る。それが映画、という「哲学」があふれている。昔の映画だね。
一方で、オールデン・エアエンライクとレイフ・ファインズの「絶妙」な絡みがある。台詞回し(というより演技そのもの)がへたくそなオールデン・エアエンライクにレイフ・ファインズが演技をつけるシーンなんか、笑ってしまうなあ。ハリウッドではないのだけれど、アラン・ドロンとビスコンティの「演技指導」というか、関係も、こんな感じだったかなあと想像させる。「無知/野卑」を映像で「貴族」に変えてしまう魔法の裏には、こういうことがあったかも、と想像させる。オールデン・エアエンライクの目つきがなんとなくアラン・ドロンに似てるでしょ?
主役はジョシュ・ブローリンとその「苦労」なんだろうけれど、オールデン・エアエンライクが「主役」ではないのに、どこか「主役」のような動きをするところも、妙におもしろい。
「軽さ」がいい。オールデン・エアエンライクが「真人間/正直」を貫き、それが映画に「軽さ」と「スピード」を与えている。
描きようによっては、とても「重い」テーマ、特にジョシュ・ブローリンに背負わされた「実業」を選ぶか「虚業」を選ぶかという問題はなかなか重いもの。映画好きのコーエン兄弟なので、もちろん「虚業」を選ぶんだけれど、その「虚業」のなかにあって、オールデン・エアエンライクの「無知」だけが「真実」を語る、「真実」を発見する、というのがいいねえ。ほんとうに知っていることだけを行動の基準にしている。そこに「正直」の美しさがあらわれている。
まあ、それも「演技」なのだろうけれど。
スパゲティの「輪投げ」はやってみたいなあ。ジョージ・クルーニーの「間抜け」な平手打ちを喰らう顔というのも、変な言い方だが、やってみると「快感」だろうなあ。バシッゼシッと殴られても殴られても、まだ「間抜け顔」をつづけるというのは、きっと「快感」だと思う。
なんだか、支離滅裂な感想……。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ博多11、2016年05月29日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
![]() | ファーゴ [Blu-ray] |
クリエーター情報なし | |
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン |