詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美「閃輝暗点」

2016-05-05 14:25:51 | 長田弘「最後の詩集」
川口晴美「閃輝暗点」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 「現代詩手帖」2016年05月号に、いろいろな賞の「受賞第一作」が発表されている。川口晴美「閃輝暗点」もその一篇。高見順受賞。

いちにちのことを終えて
それはもちろんいちにちでは終わらないから日付は変わっていて
それでも終わらなかったことはため息といっしょに部屋の隅に押しやって
テレビをつける
深夜アニメを見るために
じぶんを少しだけ許すみたいに
フラットでにぎやかな人工の色を浴びて光に包まれると
それはあたたかくもなく冷たくもなく
ようやくわたしはここにいなくなることができる

 「わたしはいなくなる」。たぶん、そういう感覚を書きたいのだろう。「いなくなる」といっても「現実」に「いなくなる」わけではない。むしろ、意識としてに「わたしをいなくなさせる(わたしを消す)」ということがしたいのだろう。
 「わたしを消す」という欲望。それは「他者に共有されたわたし」を消したいという欲望であり、「他者に共有されないわたし」として生まれ変わりたいという欲望かもしれない。「欲望」ということばは「できる」という形であらわされている。「できる」は「したい」の先にある。
 「いなくなる」に関心がいってしまうのは、たぶん、

いちにちのことを終えて

 その書き出しに「終えて」ということばがあるからである。「終える/終わる」は「切断」である。他者との関係(共有された何か)を「終える/終わらせる」。
 しかし、その「終える/終わる」は、簡単にはできない。
 「終わらない」。
 「終わらない」はさらに「終わらなかったこと」と言い直されている。「いちにちのこと」の「こと」が「おわらなかったこと」の「こと」のなかに繰り返されていて、それが「終わらない」をひきずる。
 「他者に共有されたわたし」は「消えない」。「他者との関係」は「切断されない」。「切断できないまま」それを、意識のうえで「部屋の隅に押しやる」。
 そのうえで、

テレビをつける
深夜アニメを見るために

 ここが川口の特徴なのだろう。「テレビ/深夜アニメ」は「他者に共有されたわたし」から「他者」を切り離すための「方法」なのである。「テレビ/深夜アニメ」は私にとっては「他者」である。「他人」がつくり出したものである。私はテレビもアニメも見ないから、こういう言い方は正確ではないのだが、ところが川口は「他者」とは感じていない。むしろ、「わたし自身」と感じているようでもある。
 「人工の色」の「人工」ということばにこだわれば、そこに「他者(人)」の存在があるのだけれど、その「他者」は「人間の自然な肉体」を持っていない。「自然」ではなく「人工」であることで、「人間」を超越する。「人間」を「切断」する。「人間」を「自由にする」。
 「人工」ということばをつかっているが、その「人工」には「人」は関係していない。「人工のこと」と言い直して、その「こと」と「わたし」が一体になる。そのとき「他者に共有されたわたし」は「いなくなる」という感じなのだろう。
 川口の作品には、しばしば「他者」が作りだした「フィクション」が引用されるが、そのとき川口が引用しているのは「他者」を「除外」した「フィクション(こと)」だけであり、その「こと」のなかへ川口は入っていき、川口自身をも「フィクション」にしてしまう。「フィクション」として生まれ変わる。
 いや、それでは「ドン・キホーテ」になってしまうか。
 引用すると長くなるので引用しないが、川口は「フィクション/人工」のなかで、今度は「人」を真剣に「切断」する。切り離す。

負けていくわたしや誰かは
他の誰かのために消費される物語じゃないからたぶん夜はまたあける)

 こういう二行が後半に出てくる。「誰かのために消費される物語」というものを川口は拒否しようとしている。
 書き出しの「いちにちのこと」というのは「誰かのために(わたしが)消費される物語」と言い直されていることがわかる。「誰かの物語」のために「わたしが消費された」。その「消費されるわたし」を「いちにちの終り」に「終わらせたい」。「誰かのために消費されないわたし」に生まれ変わりたい。

 うーん。

 「意味」としては、「頭」ではわかったような感じになるのだが、私は、こういう感覚にはついていけない。
 「人工」を通して「人(他者)」との関係を見つめなおすというところが川口の「現代性」なのかもしれないけれど、私は、なじめない。「テレビ/深夜アニメ」も「暮らし」なのかもしれないけれど、本物の人間と向き合って、他者と自分との関係をどう組み立てなおすかということを書いてもらいたいというか、そういうものを読みたい気持ちがある。「人工のこと」は「やっぱり結末はかわらなくて/わたしは許されずにここにいる」という「敗北/抒情」に逃げ込む(昇華する?)のでは、「新装オープン抒情詩」を読まされた気持ちになる。
 書き出しの三行を延々とつづけてほしい、延々とつづけながら少しずつ変わっていく川口の「肉体」を読みたいなあ、と思う。


Tiger is here.
川口 晴美
思潮社
コメント
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