詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子「赤路」

2016-05-30 09:44:26 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子「赤路」(「Down Beat」2016年05月20日発行)

 中島悦子「赤路」の書き出しは他人を傷つけるよろこびにあふれている。

中学生で歯医者になりたい
人の口のなかを傷だらけにしたい

受付には
動物の皮を剥いで作った
生臭いスリッパを並べる
大人の歯は 生える根がないので
麻酔もなく抜く
舌もじゃまだし ドリルで傷つけておく

 私は病弱だったせいか、病院(歯医者)に対する抵抗感(恐怖心)がない。病院は安心できるところ、というイメージがある。血液検査のときの血液採取なども、きちんと血管に針が入るか、間違いなく血液を採取しているか、凝視する。歯医者は、治療されている状態が見えないのがとても残念である。ということもあって、ここに書かれているような欲望は持ったことがない。しかし、「歯医者は怖い」というようなことを聞くので、そうか、そういう気持ちなのか。歯医者になって誰かに仕返し(?)したいくらい怨みを持っているのか、と思いながら読んだ。
 「傷だらけにしたい」「傷つけておく」ということばが、楽しい。「麻酔もなく」に残虐なよろこびがある。
 それを次の連で言い直している。

うまくしゃべれませんか
しゃべってみてください
といっておおわらいして
じ・ゆ・う・しんりょうです
という

 一、二連目の「傷つける」は肉体を傷つけるという意味だが、どこかに肉体ということばだけでは言い表せないものを含んでいる。それが、ここに書かれている。「じ・ゆ・う・しんりょう」の「自由」ということばのなかにある。そうか、「自由/精神」というものをも、どこかで傷つけているんだな。肉体を傷つけるだけではおもしろくない。肉体を傷つけて、自由を奪う。それが快感なのだ。
 これは逆に言うと、歯の治療を受けながら、肉体はほんとうは傷つけられていない、傷ついているのは「精神/こころ」なのだということを自覚しているということでもあるのかな。歯の治療は肉体(健康)にとっては必要なこと。でも、怖い。そう感じるとき、「自由」を奪われたような気持ちになる。だから、ほんとうにしたいのは、その「自由」を奪うというよろこびなのかもしれないなあ。
 で。
 この詩は、その微妙な言い直しのあと、次の連で大きく転換する。

帰りは痛みをこらえて
近所の祭で
金魚すくいでもしてください
うつむいて 何か言えば
赤い金魚はゆらゆら水に溶けていく
えさもないのに
急に狂ったように集まって
真っ赤にとけていく

 最初の三行は「歯医者」になった中学生の中島のことば。
 でも、そのあとは?
 中学生の中島の「歯医者」が想像していること?
 たしかに「構造」としては、そういうふうに読めるのだが、私は違う感じで読んだ。
 ここには歯医者で治療を受けた後の、中学生の中島の「肉体」そのものが書かれている。歯医者の帰りに金魚すくいをのぞく。水のなかを泳いでいる金魚を見る。その赤い色は、まるで治療の後の口からこぼれ落ちた血が水のなかに漂っているよう。
 「傷だらけにしたい」「傷つけたい」「大笑いする」という「歯医者/他人」が突然、治療を受けた後の「肉体の実感」と融合している。詩の中のことばをつかっていえば、「溶けて」しまって、区別なく「集まっている」。
 ここが、とてもおもしろい。
 「自他」がいりまじる。「自他」といっていいのかどうかわからないが、「歯医者になりたい」と「歯医者で治療を受けた」が緊密につながっている。「歯医者になりたい」「傷つけたい」という欲望は、「歯医者で治療を受けたことがある」からこそ生まれてきた欲望であるということが、ここでわかる。
 「歯医者になりたい」「傷つけたい」という欲望からすれば、実際に歯医者で治療を受けたひとのことは他人のこと。欲望も実現されていないものだけれど、その欲望が引き起こした結果(?)というのは、欲望のさらに「未来」。しかも「他人の未来」。
 空想。想像。
 しかし、その空想、想像が「だろう」というような「想定」であることを示すことばがつかわれないまま、現在形として書かれている。ここがおもしろいし、強い力となって迫ってくる。リアルな「現実」として見えてくる。
 別のことばで言い直してみる。もっと詩のことばに即して言い直してみる。
 「うつむいて 何か言えば」というのは「仮定」。だから、それを受けることばは、「溶けていく」ではなくて「溶けていくだろう」でなくてはならない。学校文法上は。
 しかし、中島は「溶けていく」と断言する。
 断言できるのは、そういうことを中島が経験している、肉体で体験しているからである。
 そこには「過去」があるのだ。
 空想、想像、仮定だが、その空想、想像、仮定がなまなましく「現在」として動いてしまうのは、そこに中島の「肉体の過去」があるからだ。中島は、書きながら「肉体が覚えていること/過去」を「いま」に呼び出している。
 「過去」が「いま」に呼び出され、動いているから、

中学生で歯医者になりたい

 という冒頭の、一種奇妙なことばが、なまなましくなる。この一行は、最後にもう一度繰り返されているが、「中学生」という「過去」と「なりたい」という「欲望/いま」が強引に(?)結びついて、中島をつくっている。詩のことばとして噴出してきていることがわかる。
 金魚の描写が、「傷だらけにしたい」「傷つけておく」という欲望を「暴力」ではなく、何か静かなものにしている。金魚の描写を読んだ瞬間に、それまで読んできた「暴力のよろこび」がふっと消える。
 消えるのだけれど、消えるままなのもさびしい。だから、もう一度、

中学生で歯医者になりたい

 を繰り返す。いいなあ。


藁の服
中島 悦子
思潮社
コメント
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