監督 ディーデリク・エビンゲ 出演 トン・カス、ロネ・ファント・ホフ、ポーギー・フランセ
情報量がとても少ない映画である。そして、その「少なさ」が効果的。全部、観客に想像させてしまう。
主人公がひとりで料理を作り、ひとりで食べる。その直前に、壁の時計が映し出される。長針がちょうど12を指す。そうすると、男は手を組んで、祈り、「アーメン」と言ってから食べる。これだけで、男が、あらゆることを自分が決めた通りに生きているということがわかる。まあ、勝手な想像だけれど。これは、奇妙におかしい。きちょうめんさに、思わず笑ってしまう。劇場内に「くすくす」という笑いが広がる。
一方、別の面も男はもっている。写真立てには若い女と子ども。きっと妻と息子だ。食べる前に、ちらりとその写真を見る。その「ちらり」の「間」がとても不思議。じっと思い出すというのとは、少し違う。二人がいないのは、二人とも死んだのかな? もしかすると、妻は死んだけれど、息子はどこかで生きているのかな? そういうことを感じさせる。それからテープでボーイソプラノの歌を聞く。写真を見るだけではなく、テープまで聞くのは、男が少年のことを思いつづけているということなんだろうなあ。「日課」なんだろうなあ。これも自分で決めた通りに行動しているという点では、きちょうめんなのだけれど、これはおかしくない。何か哀しいものを含んでいる。劇場内は、妙にしーんとしてしまう。何かわからないけれど、「くすくす」とは違った感情が劇場内に広がる。
うーん、と私は、ここでうなってしまう。ひとりでDVDなんかで見ているときは気づかないかもしれないが、劇場の「他人の感覚」が動くのを感じて、ふと気がつくことがある。あ、ここで、みんな何かを感じている。
そうか、ここから「物語」は始まるのか。「笑い」と「悲しみ」という対比を浮き彫りにしながら、「事件」が起きるのか。大暴れするアクションではなく、動きを抑えながら、その抑えた動きのなかにある感情の「対比」がこの監督のテーマなんだな、と思う。その「対比」を明確にするために、余分な情報は極力減らしているということか。
主人公が、「きちょうめん」とはまったく逆の「少し頭が足りないホームレス」と出合うことで「物語」は動きはじめる。ここにも「対比」がある。「きちょうめん」と「だらしなさ」。
それが「対比」されるたびに、劇場に「くすくす」が広がる。「着替えろ」と言われたホームレスが、用意された服ではなく、かってにクロゼットから妻の服を選んで着てしまう。そのとき「くすくす」。しかし、ホームレスが踊り、その踊りを見ている内にホームレスが妻にかわり、主人公がいっしょに踊り出す。そうすると「くすくす」は消え、一種の幸せが劇場に広がる。こころが温かくなる。しかし、主人公がはっと我に返り、椅子に座り込むと、とたんに「悲しみ」がやってくる。妻を忘れられない主人公の「悲しみ」が、間近に迫ってくる。
ホームレスは主人公に「よろこび」をもってくるのか。「悲しみ」をもってくるの。よくわかないが、主人公はホームレスを突き放せなくなってしまう。どこか、こころをつかむものをもっている。
ホームレスの「魅力」に気づくのは、子ども。スーパーでホームレスが「メエエ」と羊の真似をするのが気に入り、誕生パーティーの「余興」にやとわれる。自分を抑制して生きることを知らない子どもが、ホームレスの男に「自分に近いもの」を感じるのだろうか。「大人」にはない魅力を感じるということだろう。
この「余興」に、主人公は例の「きまじめ」さで向き合う。ホームレスの男は、まじめなのかふまじめなのかわからないが、妙に子どもたちに受けてしまう。それで、二人の余興は「商売」にもなってしまうのだが。
二人に対して、周囲は冷やかである。舞台はキリスト教の信仰が厚いオランダの田舎町。住民みんなが顔見知り。日曜日には、みんなが教会へゆく。サッカーをする少年たちも、チームをつくるほど人数はいなくて、ゴールポストの前でボールを蹴って遊ぶ程度。そういう町で、突然、男二人が一軒の家で暮らしはじめたので、関係をあやしむ。子どもたちがサッカーをしながら、女装したホームレスをからかう。ホームレスを家に連れて帰ろうとする主人公に「ホモ」と罵声が飛ぶ。罵声を飛ばした少年に主人公が殴り掛かるところが過激で(きちょうめんに自分を抑制している主人公に似つかわしくないので)、ちょっと驚くが、これはその後の伏線になっている。
で、途中を省いて、その「伏線」を受けたラストシーン。
主人公には歌がうまい自慢の息子がいた。その息子はゲイだった。主人公は息子がゲイであることが許せずに、家を追い出す。そのため妻とも対立する。息子は酒場で歌い手をやって生きている。その息子に主人公は会いにゆく。(何度か様子を見に行ったこと、常に息子がどこにいるかを気にかけていたことは、途中で描かれる。)ホームレスの妻がいっしょについていく。主人公ひとりでは、途中でぬけ出してしまう。だから、いっしょに来てほしいと頼んだようだ。ステージで歌を歌いながら、息子は父親を発見する。このときの歌の内容(歌詞)が、息子が父親に語りたかったことに重なる。歌で、息子は父親に自分のこころを語りかけている。父親は、その主張を最後まで聞いてくれた。自分を受け入れてくれた、とわかる。ここがクライマックス。
人はひとりひとり違う。その違った人間がいっしょに「幸福」になるには、他者を受け入れることからはじめなければならない。ことばにしてしまうと、説教臭くなるが、こういうことをこの映画はとても自然な形で描いている。
「頭の足りないホームレス」を主人公は受け入れた。帰る家がわからない。金を持っていない。そういうことに同情したのかもしれないが、ともかく家に受け入れ、いっしょに食べ、眠る場所も与えた。そこから、「笑い」といっしょに「幸せ」がじわじわと広がって、主人公を変えてしまう。
描きようによっては、とてもドラマチックになる「物語」なのだけれど、これを「ドラマチック」にならないように、ならないように抑えた脚本と出演者の演技がとてもいい。オランダの田舎町の、特に、田舎を走るバスと風景がいいなあ。客はいつも主人公だけ。それでもバスは走っている。その社会の「底力」のようなものが感じられる。車をもたないひとのために、その人がひとりであってもバスを走らせる、そういう人を受け入れるという「底力」がある社会、と感じた。
(KBCシネマ2、2016年05月11日)
*
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情報量がとても少ない映画である。そして、その「少なさ」が効果的。全部、観客に想像させてしまう。
主人公がひとりで料理を作り、ひとりで食べる。その直前に、壁の時計が映し出される。長針がちょうど12を指す。そうすると、男は手を組んで、祈り、「アーメン」と言ってから食べる。これだけで、男が、あらゆることを自分が決めた通りに生きているということがわかる。まあ、勝手な想像だけれど。これは、奇妙におかしい。きちょうめんさに、思わず笑ってしまう。劇場内に「くすくす」という笑いが広がる。
一方、別の面も男はもっている。写真立てには若い女と子ども。きっと妻と息子だ。食べる前に、ちらりとその写真を見る。その「ちらり」の「間」がとても不思議。じっと思い出すというのとは、少し違う。二人がいないのは、二人とも死んだのかな? もしかすると、妻は死んだけれど、息子はどこかで生きているのかな? そういうことを感じさせる。それからテープでボーイソプラノの歌を聞く。写真を見るだけではなく、テープまで聞くのは、男が少年のことを思いつづけているということなんだろうなあ。「日課」なんだろうなあ。これも自分で決めた通りに行動しているという点では、きちょうめんなのだけれど、これはおかしくない。何か哀しいものを含んでいる。劇場内は、妙にしーんとしてしまう。何かわからないけれど、「くすくす」とは違った感情が劇場内に広がる。
うーん、と私は、ここでうなってしまう。ひとりでDVDなんかで見ているときは気づかないかもしれないが、劇場の「他人の感覚」が動くのを感じて、ふと気がつくことがある。あ、ここで、みんな何かを感じている。
そうか、ここから「物語」は始まるのか。「笑い」と「悲しみ」という対比を浮き彫りにしながら、「事件」が起きるのか。大暴れするアクションではなく、動きを抑えながら、その抑えた動きのなかにある感情の「対比」がこの監督のテーマなんだな、と思う。その「対比」を明確にするために、余分な情報は極力減らしているということか。
主人公が、「きちょうめん」とはまったく逆の「少し頭が足りないホームレス」と出合うことで「物語」は動きはじめる。ここにも「対比」がある。「きちょうめん」と「だらしなさ」。
それが「対比」されるたびに、劇場に「くすくす」が広がる。「着替えろ」と言われたホームレスが、用意された服ではなく、かってにクロゼットから妻の服を選んで着てしまう。そのとき「くすくす」。しかし、ホームレスが踊り、その踊りを見ている内にホームレスが妻にかわり、主人公がいっしょに踊り出す。そうすると「くすくす」は消え、一種の幸せが劇場に広がる。こころが温かくなる。しかし、主人公がはっと我に返り、椅子に座り込むと、とたんに「悲しみ」がやってくる。妻を忘れられない主人公の「悲しみ」が、間近に迫ってくる。
ホームレスは主人公に「よろこび」をもってくるのか。「悲しみ」をもってくるの。よくわかないが、主人公はホームレスを突き放せなくなってしまう。どこか、こころをつかむものをもっている。
ホームレスの「魅力」に気づくのは、子ども。スーパーでホームレスが「メエエ」と羊の真似をするのが気に入り、誕生パーティーの「余興」にやとわれる。自分を抑制して生きることを知らない子どもが、ホームレスの男に「自分に近いもの」を感じるのだろうか。「大人」にはない魅力を感じるということだろう。
この「余興」に、主人公は例の「きまじめ」さで向き合う。ホームレスの男は、まじめなのかふまじめなのかわからないが、妙に子どもたちに受けてしまう。それで、二人の余興は「商売」にもなってしまうのだが。
二人に対して、周囲は冷やかである。舞台はキリスト教の信仰が厚いオランダの田舎町。住民みんなが顔見知り。日曜日には、みんなが教会へゆく。サッカーをする少年たちも、チームをつくるほど人数はいなくて、ゴールポストの前でボールを蹴って遊ぶ程度。そういう町で、突然、男二人が一軒の家で暮らしはじめたので、関係をあやしむ。子どもたちがサッカーをしながら、女装したホームレスをからかう。ホームレスを家に連れて帰ろうとする主人公に「ホモ」と罵声が飛ぶ。罵声を飛ばした少年に主人公が殴り掛かるところが過激で(きちょうめんに自分を抑制している主人公に似つかわしくないので)、ちょっと驚くが、これはその後の伏線になっている。
で、途中を省いて、その「伏線」を受けたラストシーン。
主人公には歌がうまい自慢の息子がいた。その息子はゲイだった。主人公は息子がゲイであることが許せずに、家を追い出す。そのため妻とも対立する。息子は酒場で歌い手をやって生きている。その息子に主人公は会いにゆく。(何度か様子を見に行ったこと、常に息子がどこにいるかを気にかけていたことは、途中で描かれる。)ホームレスの妻がいっしょについていく。主人公ひとりでは、途中でぬけ出してしまう。だから、いっしょに来てほしいと頼んだようだ。ステージで歌を歌いながら、息子は父親を発見する。このときの歌の内容(歌詞)が、息子が父親に語りたかったことに重なる。歌で、息子は父親に自分のこころを語りかけている。父親は、その主張を最後まで聞いてくれた。自分を受け入れてくれた、とわかる。ここがクライマックス。
人はひとりひとり違う。その違った人間がいっしょに「幸福」になるには、他者を受け入れることからはじめなければならない。ことばにしてしまうと、説教臭くなるが、こういうことをこの映画はとても自然な形で描いている。
「頭の足りないホームレス」を主人公は受け入れた。帰る家がわからない。金を持っていない。そういうことに同情したのかもしれないが、ともかく家に受け入れ、いっしょに食べ、眠る場所も与えた。そこから、「笑い」といっしょに「幸せ」がじわじわと広がって、主人公を変えてしまう。
描きようによっては、とてもドラマチックになる「物語」なのだけれど、これを「ドラマチック」にならないように、ならないように抑えた脚本と出演者の演技がとてもいい。オランダの田舎町の、特に、田舎を走るバスと風景がいいなあ。客はいつも主人公だけ。それでもバスは走っている。その社会の「底力」のようなものが感じられる。車をもたないひとのために、その人がひとりであってもバスを走らせる、そういう人を受け入れるという「底力」がある社会、と感じた。
(KBCシネマ2、2016年05月11日)
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