詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カニエ・ナハ「馬、山、沼」

2016-05-07 09:27:57 | 長田弘「最後の詩集」
カニエ・ナハ「馬、山、沼」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 カニエ・ナハ「馬、山、沼」は、中原中也賞、エルスール財団新人賞受賞第一作。「馬」を読む。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。
不安は少し残っていたが、
すでに忘却に取り組んで
何が代わりに、
空隙を
私たちは苦い経験をしたいと
志願して
一族のような悩みをかかえている
それを語り合い
信仰を固める
日について
漠然とした、
一人が話し始めると、
次第にうつろっていく
現実

 一読して、何が書いてあるのか、不安になる。ことばは何となく「わかる」。「知っている」とは断言できないが、どれも聞いたことのあることばである。けれど、私がふつうに話すときのようにはつかわれていない。
 学び始めたばかりの外国語のテキストを読んでいる感じ。ことばの、ひとつひとつは「知っている」(聞いたことがある、読んだことがある)。けれど、それが、どうつながっているのか「わからない」。知っているはずなのに、知らない世界にいるという不安に襲われる。
 こういう不安に引き込むのが、確かに詩ではあるのだろうけれど。

 「ことば」が「わからない」というのは、「主語/述語」の関係が「わからない」ということでもある。
 この作品には句点「。」がひとつ。ということは、これは「ひとつ」の文なのかもしれない。
 で、その最初の(最後の?)句点「。」があらわれるまでの部分。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。

 「主語」は何か。わからない。「述語」もわからない。「述語」は一般的に「動詞/用言」がになっている。そこで「動詞」を見ていく。「(夢を)見る」「表白する」「失われる/失う」。「夢を見て、それを表白して(語って)、何かが失われた/失った」と「述語」は語っている。「夢」と「失われた」何かが重複するかもしれない。いまは「失われた」ものが「夢」に見られたのである。その「夢」は「祖先」が見つづけた「夢」であり、それは「祖先」にとっては「現実」だったかもしれない。祖先は「現実」が「夢」にあらわれてきた。言い換えると「現実」に体験してきたことを「夢」で反復することができた。しかし、いま「書かれていない主語」は、それを「失われた夢」として見ている、「失われた夢」として語る。「書かれていない主語」にとっては、それは「現実から乖離して/現実を失った夢」なのだろう。
 そういうことが「動詞(述語)」と、そのまわりで動いていることばから推測できる。
 「失われた」と直接結びついているのは「人」である。「人は/失われた」。これは「人は/失った」ではなく、そこに書かれている「人」以外の「人」が、「話者(主役/主語)」から「失われた」。「主語」は「ひとを失った」ということになるかもしれない。
 このとき、「人」は別のことばで言い換えられていないか。
 「椅子の/痕跡としての/人は」とことばはつづいている。「人」は「椅子」を思い出させる。そこに「椅子の痕跡」がある。「椅子」は座るもの。「座る/腰を下ろす」という「動詞」が「椅子」のなかに隠れているかもしれない。
 「馬」というタイトルを考えると、「椅子」と呼ばれているのは「鞍」かもしれない。「椅子」は「鞍」の「比喩」。昔は、馬は「人」を「鞍」にのせて(椅子に座らせて)、走った。その「思い出」のようなものを、「偶然」夢に見た。「夢」のなかで「祖先」になっていた。しかし、そういう「夢/思い出」を表白してみると(語ってみると)、いまは、そうしたことがすべて「失われている」ということがわかる。
 これは「馬」が語っていることばなのだろう。「主語(主役)」は「馬」なのだろう。あるいは「馬」のことをよく知っている人が、「馬」と一体になって、「馬」のかわりに語っていることばなのだろう。
 で、後半というのか、倒置法で書かれた、ほんとうならば「前半」というのか……。あるいは倒置法の形で書かれた追加、言い直しなのだろう。最初の六行が、句点「。」以降で言い直されているのだろう。
 その後半で最初に目につくのが「語り合う」「話し始める」という「動詞」。これは最初に見た「表白する」と同じ「動き」だろう。何かを「ことばにして」語り合う、話し始める。
 何をことばにしたのか。
 「失われた」は「少しは残っていた」と言い直される。さらに「忘却に取り組む」と言い直される。「忘却に取り組む」とは「忘れようとする」ということだろう。「忘れようとする」のだが、そういう意識の動きとは逆に何かが「思い出されてしまう/忘れられない」。ただし、それは強い印象があるから忘れられないのではなく、一種の「習慣」のようなものだから消そうとしても消せないのかもしれない。
 そのいつまでも残る記憶、「夢」のような「不安」とは「椅子の/その痕跡」を言い直したものだろう。
 「人」を「座らせて」(人の椅子になって)、なおかつ走る、歩く。それは「苦役」(苦い経験)かもしれない。ただ歩き、走るのとは違うので、それなりの「苦しみ」があるかもしれない。しかし、それはまた「充実」した時間かもしれない。生きている感じが、そのときにあふれるかもしれない。「人」を乗せて歩く、走るという「仕事」を「志願する」。そういうことをもう一度してみたい。矛盾しているが、そういう感情はあるかもしれない。
 矛盾しているから「悩み」と、それは言い直されている。「一族」というのは「馬」という存在であるだろう。「カニエ」一族というような、人間の「親類関係」ではなく、「馬」を指しているように思える。
 「人を乗せる」というのは、一種の「苦役」かもしれないが、「苦役」をとおして何かが見える。「信仰」ということばが、「苦い経験」とかたく結びついている。人を乗せて生きていた時代の、人と馬の「信頼関係」のようなものか。
 そういうことを「話し始める」と、「うつろっていく/現実」がある。これを倒置法と理解した上で「現実が/うつろっていく」と読み直すことができるだろう。「一人」は「馬」を擬人化した表現だろう。
 先祖の経験した「苦い経験」(人を乗せて、歩く、走る、人のために働く)ということを語るなかで思い出す、人との信頼関係が、「夢」として見えてくる。かなえられない夢かもしれない。いまは、「人」を乗せていない。背中に「鞍」(椅子)もない。その「ない」は「空隙」である。「空隙」に「夢」は侵入してくる。

 そういう「馬」の「語り」として、私はこの作品を読んだが、まったく違ったことをカニエは書いているのかもしれない。
 私は馬は見たことがあるが、乗ったことはない。馬と一体になって何かをしたという経験がない。馬との一体感を、私の「肉体」はまったく知らない。だから、ここに書かれている「動詞」を「馬」の感覚(馬に乗ったときに感じる馬の肉体感じ)ではとらえきれない。
 だから、きっととんでもない勘違いをしているかもしれないのだが、そういうふうにしか読めない。

 いま、「現代詩」では、このカニエの作品のように「主語/述語」の関係が「学校文法」とは違った形で動く作品が多くなっているように私には感じられる。「主語/述語」の遠さ(それこそ「空隙」?)に、他の存在や運動が「比喩」のようにしてまぎれこんできて、世界を攪拌する。「主語」/述語」の「分節」を解体し、ずらしながら、見落としてきたもの「未分節」に分け入っていく、そこから新しい「動き/動詞」を生み出すということなのだが……。
 私がとても気になるのが。
 そのときの「題材」の「古さ」である。
 このカニエの作品で言えば、なぜ、馬? (他の作品も、「山」「沼」と、都会の日常にはない存在が「タイトル/テーマ?」に選ばれている。)
 「いま/ここ」に生きている「肉体」が感じられない。「過去」の「肉体」しか、感じられない。「肉体」の「未分節」に分け入っていくと、そこはどうしても「過去」ということなのかなあ。
 なんだか「頭っぽい」という感じが、ひっかかる。こんなふうに「分節」しなおせば「現代詩」になると「知って」書いている感じがしてしまう。

用意された食卓
カニエ・ナハ
青土社
コメント
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