中井久夫訳カヴァフィスを読む(161)(未刊8)
「劇場にて」は、劇場で見た「きみ」のことを書いている。
ことばのリズムが非常にいい。短いことばからはじまり、三行目で「きみ」を見つけると、四行目でことばがあふれてくる。句点で区切られたふたつの文が一行を構成する。それまでの短いリズムを守っていられない。ことばが噴出してくるのだ。
五行目の「私の心はただちに還っていった、」の「ただちに」も不思議だ。意味は「すぐに」「即座に」ということだが、「すぐに」よりも音が多く、「即座に」よりも音が明るい。還ることを楽しんでいる響きがある。
五行目と六行目は倒置法だが、これも効果的だ。「きみのうわさを聞いたあの日の午後に、私の心はただちに還っていった」では「ただちに」という感じがしない。「動詞」の動きが見えない。喜びは「動詞」になって先に肉体を動かし、そのあとで「理由」がやってくる。そのリズムを素早くつかみとる中井久夫の訳によって詩がいきいきと動く。
「あの日の午後」は何でもないことばだが、「ただちに」の「あ」の音と響きあって、これも明るく見える。いつものカヴァフィスのみんなと共有している「あの」ではなく、カヴァフィスだけのこころの「あの」の明るさが楽しい。
「頽廃の若さ」が「ものうい」ということばに言いなおされている。「美」と「若さ」とにわざわざわけて繰り返されている。こうした繰り返しは散文ではうるさいだけだが、この詩では、そのままカヴァフィスの眼の動きになっている。まず「頽廃の若さにあふれたきみ」を見つめ、つぎに「きみのものうい美」を見つめ、さらに「ものういきみの若さ」を見ている。眼は、三度「きみ」を見ているのだ。釘づけ、というのは眼がそこから動かないということだが、眼は動きたかったのだ。けれども、動いても動いても、そこに引きつけられていく。三度も。さらに眼は、記憶のなかへも動いていく。
「劇場にて」は、劇場で見た「きみ」のことを書いている。
舞台に飽きて
目をあげ 桟敷を見た。
桟敷にきみがいた。
ふしぎなきみの美。頽廃の若さに溢れたきみ。
私の心はただちに還っていった、
きみのうわさを聞いたあの日の午後に。
ことばのリズムが非常にいい。短いことばからはじまり、三行目で「きみ」を見つけると、四行目でことばがあふれてくる。句点で区切られたふたつの文が一行を構成する。それまでの短いリズムを守っていられない。ことばが噴出してくるのだ。
五行目の「私の心はただちに還っていった、」の「ただちに」も不思議だ。意味は「すぐに」「即座に」ということだが、「すぐに」よりも音が多く、「即座に」よりも音が明るい。還ることを楽しんでいる響きがある。
五行目と六行目は倒置法だが、これも効果的だ。「きみのうわさを聞いたあの日の午後に、私の心はただちに還っていった」では「ただちに」という感じがしない。「動詞」の動きが見えない。喜びは「動詞」になって先に肉体を動かし、そのあとで「理由」がやってくる。そのリズムを素早くつかみとる中井久夫の訳によって詩がいきいきと動く。
「あの日の午後」は何でもないことばだが、「ただちに」の「あ」の音と響きあって、これも明るく見える。いつものカヴァフィスのみんなと共有している「あの」ではなく、カヴァフィスだけのこころの「あの」の明るさが楽しい。
見も心もともにふるえつつ
魅せられて眼はきみに釘づけ。
きみのものうい美、ものういきみの若さに、
きみの趣味のよいよそおいにも--。
「頽廃の若さ」が「ものうい」ということばに言いなおされている。「美」と「若さ」とにわざわざわけて繰り返されている。こうした繰り返しは散文ではうるさいだけだが、この詩では、そのままカヴァフィスの眼の動きになっている。まず「頽廃の若さにあふれたきみ」を見つめ、つぎに「きみのものうい美」を見つめ、さらに「ものういきみの若さ」を見ている。眼は、三度「きみ」を見ているのだ。釘づけ、というのは眼がそこから動かないということだが、眼は動きたかったのだ。けれども、動いても動いても、そこに引きつけられていく。三度も。さらに眼は、記憶のなかへも動いていく。
私は頭の中にきみを描きつづけた。
あの午後に皆がしていたうわさどおりだった。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
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