詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)

2014-09-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)2014年09月25日(木曜日)

 「海戦」には中井久夫の注釈がある。「前四八〇年、ペルシャ遠征艦隊はサラミス島沖でギリシャ艦隊に撃滅された。エクバタナ以下はペルシャの都市。」

あのサラミスで撃滅された我ら。
挙げる声はただ、わわわわわわわあああああぁっ。
我がエクバタナ、スサ、ペルセポリスが
世に類なき所なのに、
あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、
艦隊を率いて海で闘うて?
さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、
行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。

 二行目の「わわわわわわわあああああぁっ。」という意味にならない叫び、その「声」が非常に印象に残る。「意味」を言うことができない。けれど感情があふれてくる。肉体の奥から何かを吐き出したい。
 そういうの「音」(声)を出した後に、「肉体」のなかで、余分なものを捨て去った「声」が静かに動きだす。「あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、」という反省も動く。そして、「さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、/行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。」という行の不思議な不思議な美しさ。余分なものが何もない。
 そして「意味」を語ってしまうと、また、そのあとを感情がおいかけて、あふれてくる。それがまた「意味」にならない「音」になって、それから再び「意味」をととのえる。繰り返しだ。

ああ、ああ、この海戦を
起こさねば、しようとしなければ--。
ああ、ああ、なぜ 身を起こして
すべてを捨てて
海でみじめな戦いをしに行ったのか?

 「ああ、ああ、」の繰り返し。「意味」をととのえればととのえるほど、逆に、「意味」にならない「音(声)」が感情をあおる。

ああ、そうだ、それしかない。言える言葉はただ一つ、
ああ、ああ、ああ、だ。
そう、そのとおり。他にいう言葉があるか、
わわわわわわわわあああああぁぁぁぁぁ。

 「主観」は「意味」がなくてもつたわる。「声」(口語の音)が感情なのだ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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