詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(194)(未刊・補遺19)

2014-10-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(194)(未刊・補遺19)

 「囚われの身となって」の背景はわからないのだが、

このところ民衆語の歌を読んできた私。

 とはじまる、その「民衆語」ということばがおもしろい。「民衆語」とはなにか。民衆の話すことばをそのまま書き記したものか。似た表現が三連目にもある。

だが、私の感動の最たるものは
トレビゾンドの風変わりな方言の歌。
このさいはてのギリシャの民は
思いつづけてきたのだ、まだいつか救いが来るぞと。

 「方言」。「方言」は「民衆語」だろう。その土地の「民衆」が話すことば。書かれた文字ではなく、口に出されたことば。
 それが、次の連と向き合う。

だが、ああ、不運の鳥が「君府より来たりて」
「その小さき翼に字の書かれたる紙を載せ
だが 葡萄の樹にも果樹園にも棲まず、
飛び去りて糸杉の根かたに巣を作れり」。

 引用されているこのことば、これは「方言(民衆語)」だろうか。「文語」である。どこにも「口語」の響きがない。
 これは、どういうことだろう。
 私は想像するのだが、「方言(民衆語)」というのは古いことばの形を残している。つまり「歴史のことば」、「文語」に通じる。
 こういうことは日本語にもある。たとえば富山の古い方言(いまではいう人が少ないが)では、「歯茎」のことを「はじし」と言った。「くき」を「じし」と訛っているのではなく、これは「歯+肉(しし)」が変化して「はじし」になっている。「古語」の「しし(肉)」が残っているのである。
 いつまでも残っていることばの力。そこに、「思いつづけてきた」が重なる。「思い」と「つづける」が人間を支えている。その「思い」に耳をすませるとき、「意味」は音を超えて自然につながる。

「読み、すすり泣き、胸のとどろきの高まり。
ああ、われらの不運、ギリシャ囚わる」。

 「方言」を「文語体」に訳した中井久夫の工夫、耳のよさが印象に残る。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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