詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(128)

2018-11-13 08:02:08 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
128  夢の後に

夢の中の私は逃げる若者だったが 目覚めた私は疑いもなく老人
ほんとうは 疎まれても拒まれても追いつづけた老人こそが私

 夢はいつでも「意味」に変わる。象徴はいつでも「意味」に変わる、と言い換えてもいい。
 高橋は、こんなふうに「意味」にする。

追っかけられて逃げつづける若者はPoésieではなかったか

 「意味」はわかるが、高橋が詩人だけに、若者を詩にたとえるのは、いささかつまらない。「意味」になりすぎる。「詩」ではなく「Poésie」と書くところが、さらにつまらない。フランス語で書くことで「意味」を追加している。「意味」をうるさくしている。どこかに「意味」を裏切るもの、「意味」を破壊するものがないと、詩を読む楽しみがない。
 「比喩」は「意味」を引き連れているが、同時に「意味」を破壊し、知らなかったものを教えてくれるものであってほしい。

「物事を見抜く若き見者よ、次に語るのはあなただ……」
それは まかり間違っても 私に向けられた言葉ではない

 簡単に引き下がらずに、「若き見者(ランボー)」になってもらいたい。「老人」のあきらめに触れたくて詩を読むわけではない。少なくとも、私は。



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