詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(151)

2018-12-06 09:25:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
151  ヘレニスト宣言

 「ヘレネスとはヘラスの教養を頒ちあう人」というイソクラテスのことばを引いたあと、こう書き始められる。

何者かと問われたら ヘレニスト
ただし 黄色いヘレニスト
ついでに 老いぼれの と加えよう

 「ヘレニスト」「ヘレネス」が「教養」というものと関係しているとしたなら、「黄色い」とか「老いぼれ」とは関係ないだろう。そういうことばをひきずって「ヘラス」へ近づいていく限り、ヘレニストにはなれないというのは、「論理的」な批判になってしまうだろうか。

ヘレニスムが ヘラスに始まり
ヘラスを超えて 若さなるもの
みずみずしいものへの 永遠の憧れ

 という行を挟んで、詩は、こう閉じられる。

二十一世紀の 盛りの若さのヘラスびとよ
窮極の恋の切なさは 十八歳の肉の輝きに
ではなく 八十歳の魂の闇にこそ

 「若さ(十八歳)」と「老い(八十歳)」、「肉の輝き」と「魂の闇」が、「恋」のなかで交錯する。でも、私はそれを「論理」としか読み取ることができない。「切なさ」を感じることができない。
 また「論理」が「教養」であるとも思わない。「教養」が「論理」を含むということはあるだろうが、「論理」が「教養」を含むとは思えない。



 私は一度、アテネへ行ったことがある。古代の市場あとを歩いた。ゆるやかな坂があった。坂だと気づいたとき、プラトンの対話篇に、人が「坂道を降りてくる」という描写があったことを思い出した。あ、坂は(地形は)プラトン、ソクラテスの時代から変わらない。変わらないものがある、ということが、私のアテネ体験だった。坂か変わらないように、精神の地形も変わらない、と私は思っている。私はプラトンが伝えているソクラテスが好きだ。


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