詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(150)

2018-12-05 09:27:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
150  立ち尽くす

 高橋の書庫(あるいは書斎か)の様子が書かれている。

前庭と裏庭に向けて引戸のある東西両面が 硝子の素通し
南北両面 十段の書棚から溢れた書籍や雑誌が 床に山積み
おまけに酒瓶や食料品 骨董品 我楽多の類が 通行を阻んで
この書庫は 雑神低霊スクランブルの霊道と化している!

 この四行の、どこに詩があるか。
 「前庭」「裏庭」という対。「東西」に対して「南北」という対。思いつくままにことばを動かしているのではなく、「対応」を考えて動かしている。
 「雑然」とした部屋の描写なのに、「論理」がある。
 そして、それは「雑然」を「雑神低霊」ということばに整理し直す。「霊道」ということばが、それを強化する。
 「化している」は、「現実(写生)」を詩へと「化している」ということ。「写生」の技術、どのことばを選ぶかという意識。その結果、「現実」は「詩」に「化す」。
 でも、その「化す」は「論理的」すぎる。読んでいて、「化かされた」という感じがしない。
 高橋は、これでは「健やかな詩」は降りてこない。大掃除が必要だ、といったんは考えるが、これはこれでもかまわない、とも考える。
 で。

まさに邪神淫霊入り乱れ 蛮族侵入の噂に脅えつつ 身動きならない
古代末期ローマ人さながら 薄志弱行の腐儒老生 即ちわたくし

 と、ことばは動いていくのだが、この展開(開き直り)も、やっぱり「論理」だなあ、と思う。「薄志弱行」「腐儒老生」ということばを私は知らない。だから、あ、こんなことばがあるのか、と驚くけれど、それは「知識」への驚きであって、高橋が発見したものへの驚きではない。言い換えると、「肉体」の実感がつたわってこない。「論理」を書いているだけだ、と思ってしまう。
 「論理」を知的なことばで装飾していく。ことばのゴシック建築のようだ。それはそれで、「頑丈」な何かを感じさせる。「定型」と言い換えうるものだと思う。だから、私の「肉体」の奥が揺さぶられることはない。また、高橋が書いている「知的なことば」をまねして書いてみたいなあ、という気持ちにもならない。













つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岡本啓「野ウサギ」、新川和... | トップ | 岩木誠一郎「夜のほとりで」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

高橋睦郎「つい昨日のこと」」カテゴリの最新記事