「異神来る オリュンポス神族が言う」。オリュンポスの神からキリストのことを語っている。
どんな男神 どんな女神にも 似ない神
どんな逞しさ どんな美しさも 無い
汚れて 痩せこけて 顔いろすぐれず
およそ生気なく 景気のわるい 神
これがその姿。否定的なことばが並んでいるが、「これはひどいなあ」という感じのものはない。「悪口」になっていない。言い換えると、思わず笑ってしまうような「悪口」がない。
こどもの喧嘩の常套句、「おまえの母ちゃんでべそ」のような「無意味さ」がない。だから「ほんとう」のことばという感じがしない。「おまえの母ちゃんでべそ」は常套句だが、まだ、その方が感情が動いている。ひとの「悪口」を言うというのは、こういう「無意味」を言えるかどうかなのだ。
「そこまで言うか」というおと炉木が、喧嘩(批判)の楽しさである。「そこまで言うか」ということばが、批判されている人も、批判している人をも救うのだ。
高橋のことばは優等生の「批判」である。
しかし、
や これは何だ この両の蹠の踏み応えのなさは?
脛にも 腿にも 両の腕にも まるで力が入らない
それに 鼻から 口から 吸い込む息の この希薄さは?
目を凝らせば 周りの男神 女神が ぼやけていく
ということは 見ているこの身も 薄れていくのだな
ここは印象に残る。「ということは」というのは「論理」のことばだが、ここには「論理」だけがたどりつける「嘘」がある。
高橋はオリュンポスの神ではない。だから、この詩のことば全体が「嘘」なのだが、「嘘」をいいことに「嘘」を重ねる。そこに、詩の「力」が生まれてくる。「力」に引き込まれ、思わず笑ってしまう。
指し示している内容は違うのだが、「力」の感じは「おまえの母ちゃんでべそ」に似ている。無意味になっている。高橋は「意味」だと言うかもしれないけれど、不思議なばかばかしさが生き生きしていて、ここには「ほんとう」があると感じる。
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