詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(148)

2018-12-03 10:06:27 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
148  新年の夢

蟠る雲から一条の光が落ちる 長い海岸線
寄せては返す波打ちぎわに併行して 騎行する私
(現つの私は騎れないから 騎行するのは夢の私)

 私が夢を見ているのか、夢が私を見ているのか。
 この「錯覚」は「併行して」ということばのなかにすでに準備されている。波打ち際を走るというとき、人は基本的に波打ち際に沿って走る。つまり「併行(並行)して」しまう。だから「併行して」はなくても意味は通じる。でも、高橋は、書く。
 なぜか。
 「併行して」が錯覚を呼び起こすことを知っているからだ。それは「強調」である。度の強い眼鏡をかけたときのように、「もの(像)」が見えるというよりも、網膜に直接焼き付けられるような感じがする。その「像」から逃れることができない。
 目眩を引き起こす。

海岸線の途中ですれ違う 向こうから来る騎行の人
(その人のなんと私と似ていること 但し六十年前の)

 目眩は、単なる「併行/並行」から生まれるのではない。「鏡像」が目眩を引き起こすのではない。「同じ」であるものに「違い」が紛れ込み、「併行/並行」を攪拌するからだ。「すれ違い」と「過去」。「似ている」ものが瞬間的に出会う。
 どちらがほんもの?

それにしても何の予兆 八十歳の新年の目覚めの前に

 高橋は、そう書いているが、これはもしかすると二十歳の高橋が新年に見た夢なのかもしれない。二十歳の高橋が馬に乗って海岸線を走る。すると向こうから八十歳の高橋が走ってくる。
 「147  久留和海」もそうだが、書かれていることばを「老詩人」のものではなく、青春のことばと読み直してみるとおもしろいのだはないだろうか。
 話されたことばと、聞き取ったことばは違う。書かれたことばと、読み取られたことばは違う。
 私は、聞き取ったことば、読み取ったことばについて書く。それは話されたことば、書かれたことばとは違う。「違い」を書かなければ、すべては「意味」に収斂してしまう。「文学」ではなくなる。








つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社







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