詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(23)

2015-02-24 10:10:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
42 帰郷2

 「関の尾の滝」の注釈。

青い林檎のように燃える一つの星が
すぐそこの低い空に大きく重く垂れさがる
ぼくはかがんで湧き水を飲んだ
つめたく濡れた草地に立つていると

 透明な空気を感じさせる描写ではじまる。あまりに透明なので空との距離がわからない。星との距離もわからない。「青い林檎」は若さ、青春の象徴である。
 その透明さは三行目の「湧き水」につながる。
 湧き水は透明でつめたい。その「つめたい」が4行目で「つめたく濡れた草地」につながる。夜露で濡れている。「湧き水」が、ここでは草をびっしりと覆うこまかい水滴になっているのだが、それは地上の青い星のようにも感じられる。
 各行のことばは、前のことばを引き継ぎながら、全体をひろげていく。呼びかけあい、往復しながら、少しずつ世界をひろげていく。
 五行目から、その世界のひろがり方が微妙に変化する。

滝の音が暗がりの向うでしている
葡萄ばたけのほのぬくい匂いが漂う

 「滝」は「湧き水」を引き継いでいる。「湧き水」が「立つ」と滝になる。「滝」は草地に足元を濡らして立つ「ぼく」でもある。
 そういう意味では世界はつながっているし、より緊密に、立体的になっている。その変化と感覚のありようの変化が重なる。
 四行目までは目で見ることのできる世界。視覚が動いて「透明」を感じ取り、「透明」を集めている。しかし、五行目では「音」、つまり聴覚が動いている。目は「暗がり」にさえぎられて見えない。この視覚の休止から聴覚への感覚の移動が、さらに嗅覚を呼び覚まし、葡萄畑の「匂い」をとらえる。
 世界が「足元」から「故郷全体」へひろがり、それが「視覚、聴覚、嗅覚」のひろげがりと重なる。読み返してみると、「濡れる」ということばには「触覚」があり、「葡萄」には「味覚」があることもわかる。「五感」のすべてを動員して、嵯峨は「故郷」を描写していることになる。
 この描写のあとの、最後の二行。

いまぼくのなかを通りすぎるものが
かつてぼくを故郷から遠くつれさつたのだ

 前半の六行は「いま」の故郷である。しかし、それはかつての「故郷」の姿そのままである。嵯峨は「いまの故郷」のなかにいて、「過去の故郷」を反芻している。そのとき、「過去」が嵯峨のなかを「通りすぎる」。それは「時間」というよりも、「五感」そのものが通りすぎる。いや、よみがえる。
 若い時代の(これを書いたときも若かっただろうけれど)新鮮で、敏感な感覚が肉体をなかに復活してくる。
 その「鮮烈な感覚」、世界を新しく美しく透明なものとしてとらえてしまう「五感」が嵯峨を故郷から引き離した。故郷から、遠くへ「つれさつた」。「故郷」の外には、故郷にはないもっと新鮮で美しいものがあると予感する「五感」が嵯峨を突き動かしたのだ。
 その衝動の原点を、嵯峨は帰郷して、実感している。五感の再生、五感の覚醒として。

43 大淀川

ぼくの中に
ぼくの中にどこまでも長く突き出ている堤防
朝焼けの大淀川

 書き出しで「ぼくの中に」が繰り返される。大淀川の堤防は、現実の風景であると同時に、「心象風景」になってしまっている。「ぼくの中に」がくり返されるのは、強調である。
 四行目で

そのすべてを静かに消そう

 と書かれるが、「心象風景」は消せない。消そうとしても、必ず思い出してしまう。肉体は故郷を離れるとなかなか帰郷できないが、こころはいつでも「心象風景」へ帰郷できる。
 この拮抗、あるいは矛盾のなかで、ことばは詩になる。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房

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