詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(116)

2021-04-24 15:47:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(どこといつて方角になじみがなかつた)
<blockquote>
生命が辛うじて何かにつまずきながら辿つていつた
</blockquote>
 「つまずく」と「辿る」が組み合わさっていることろがいいなあ、と思う。
 私は具体的なもの、手で(肉体で)確認できるものが好きである。そして「つまずく」というのは好きである。自分の「肉体」のなかにある「欠陥」のようなものが見えてくる。つまずいて、転ぶときもあるし、つまずいて、態勢を立ちなおすときもある。その態勢を立ちなおすとき、それは何かを「辿ってる」。辿るというのは、何かにさわりながらという印象がある。そのときの、不思議な「肉体」の交流のようなものが、安心できる。自分の「肉体」のなかにある「他人の肉体」、それは「無自覚のいのちの肉体」ということかもしれない。
<blockquote>
そしていまぼくを揺するものは
とどろくような大きな沈黙だ
</blockquote>
 この詩は、こう閉じられる。「揺する」と遠くにあって「辿る」ことを誘っている何かだと思ってみる。「無自覚のいのちの肉体」というのは、どこにあるかわからない。自分の「肉体」のなかにあるときもあるし、自分の「肉体」の外にあって、見えない力で「揺する」ときもある。
 嵯峨はそういう存在を「大きな沈黙」と呼んでいる。

 この詩の感想で、嵯峨信之全詩集の作品をすべて読んだことになる。最初は「誤読」という詩集の形でまとめたが、その後は、思いつくままに感想として書いてきた。これもまた、別の「誤読」である。
 つまりそれは「評価」ではないし、「批評」でもない。ただ、私が考えたことだ。嵯峨のことばに触れて、私のことばが動く。
 他人から見れば、何の意味もないことだと思う。
 また、私にしても、何か意味があると思ってやっているわけではない。「意味」はやってくるとしても、遅れてやってくる。いずれ遅れてやってくるもののために、書いてみるということが大事なのだと私は思っている。

 

 

 


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
<a href="https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512">『誤読』販売のページ</a>
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北沢十一「ブルースカイ ブ... | トップ | 白石隆「インド太平洋戦略/... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
嵯峨信之(116) (大井川賢治)
2024-03-16 15:49:38
嵯峨の言う「とどろくような大きな沈黙」とは何だろう?谷内さんのいう「無自覚のいのちの肉体」ということなのだろうか?
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

『嵯峨信之全詩集』を読む」カテゴリの最新記事