監督 ウェス・アンダーソン 出演 レイフ・ファインズ、F ・マーレイ・エイブラハム、マチュー・アマルリック、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー
この映画にはシンメトリーが多用される。それは室内の影像、屋外の影像だけではなく、登場人物の「構造」もまたシンメトリーなのである。二人一組。その二人はホテルのコンシェルジェ(師匠)とベルボーイ(弟子)、ホテルのオーナーとオーナーを取材する作家が特徴的だが、一種の反シンメトリーを装いながら、鏡のように互いを整える。作家は整えられない、完全な観察者である--と思うかもしれないが、そうではない。作家の「ことば」がオーナーの「思い出」をたどることで、整えられ、ひとつの形(作品)になっていくという意味では、作家もまたモデルによって整えられるのである。
なぜシンメトリーが多用されるかというと、影像の情報量が多いからである。多すぎるからである。こんなに多くの情報量を形式にあてはめないで映し出したら、観客は混乱してしまう。シンメトリーにすることで、「半分見ればいい」(あとの半分は同じもの)という感じになれる。この「半分」の効果は大きい。シンメトリーで半分になりながら、その半分は、さらに互いの「同じもの(鏡像になりうるもの)」だけを選んでいるからである。シンメトリーのなかで、あふれかえる情報がどんどん省略されていく。
色彩も同じような感じだ。たくさんの色彩がある。けれど、そのなかから基調の色を選ぶと、それが全体を染め上げるので、細部を見なくてすむ。情報が多いにもかかわらず、見なくてもすむように全体を整理している。
だから、登場人物がどんどん増えてきて、話がどんどん複雑になっていっても、ぜんぜん「複雑」にはならない。コンシェルジェが膨大な遺産の受取人になる、それをベルボーイが目撃し、やがてそのベルボーイがコンシェルジェの遺産を受け取るという形にストーリーが展開することがとてもよくわかる。さらに言えば、そのストーリー(遺産)を作家が受け取り、大成功する。ストーリーの反復は、いわば「時間」のシンメトリーである。意識のシンメトリーである。「整理」、単純化である。情報が増えれば増えるほど、「共通項」だけが、そのなかから浮かび上がる。その「整理」の方法がシンメトリー(二人一組)なのである。
情報量が増えれば複雑になる--というのが一般的な考え方だが、ウェス・アンダーソンは、これを逆手にとっている。舞台となっているグランド・ブタペスト・ホテルもそうだが、膨大な遺産を残した女の住む城(?)の、たとえば次々に開かれていく扉は、単純にこの城は巨大だ、豪華だという認識に整理されていき、個別性は消える。
だからこそ。
監督は役者を次から次へと、豪華に出演させる。どの役者も映画の主人公を演じられる。けれど、映じさせない。脇役さえも演じさせない。一瞬でてきて、もうおしまい。それは、まるで縮小していくシンメトリーの目印のようでもある。登場人物が個性的でなければ、何もかもが消えてしまう。個性的であることによって、かろうじてシンメトリーを破っているのだ。
そして、個性的な役者にシンメトリーを破らせながらも、なおかつ、その破れ目がどんどんシンプルなシンメトリーを生み出すように時間を動かしていく。これは、大変な力業だ。
で。
このシンメトリーには最後に大変な「仕掛け」がある。この映画のなかに「りんごを持った少年」の絵が出てくる。値段のつけられない傑作の一枚ということになっているのだが。--その絵のモデルがクレジットに出てくる。その役者は絵として登場するが、本人は出演しない。絵と映画にはでてこない役者がシンメトリーをつくっているのだ。
そして、ここにこの映画の「哲学」がある。私たちが見ているもの(影像)はほんものではない。それは「モデル」を写し取ったもの。ほんとうは、ない。
もし、ほんとう(ほんもの)があるとすれば、そのつくりだされた影像(絵)をから逆戻りしなければならない。影像(絵)を鏡にして、自分の生きている世界を、いま見たもののシンメトリーとして見る必要がある。
できる?
そう問いかけて、監督は高らかに笑っている。映画なんて遊び。映画なんて、おもちゃ箱さ、というわけだ。
(2014年06月08日、天神東宝5)
この映画にはシンメトリーが多用される。それは室内の影像、屋外の影像だけではなく、登場人物の「構造」もまたシンメトリーなのである。二人一組。その二人はホテルのコンシェルジェ(師匠)とベルボーイ(弟子)、ホテルのオーナーとオーナーを取材する作家が特徴的だが、一種の反シンメトリーを装いながら、鏡のように互いを整える。作家は整えられない、完全な観察者である--と思うかもしれないが、そうではない。作家の「ことば」がオーナーの「思い出」をたどることで、整えられ、ひとつの形(作品)になっていくという意味では、作家もまたモデルによって整えられるのである。
なぜシンメトリーが多用されるかというと、影像の情報量が多いからである。多すぎるからである。こんなに多くの情報量を形式にあてはめないで映し出したら、観客は混乱してしまう。シンメトリーにすることで、「半分見ればいい」(あとの半分は同じもの)という感じになれる。この「半分」の効果は大きい。シンメトリーで半分になりながら、その半分は、さらに互いの「同じもの(鏡像になりうるもの)」だけを選んでいるからである。シンメトリーのなかで、あふれかえる情報がどんどん省略されていく。
色彩も同じような感じだ。たくさんの色彩がある。けれど、そのなかから基調の色を選ぶと、それが全体を染め上げるので、細部を見なくてすむ。情報が多いにもかかわらず、見なくてもすむように全体を整理している。
だから、登場人物がどんどん増えてきて、話がどんどん複雑になっていっても、ぜんぜん「複雑」にはならない。コンシェルジェが膨大な遺産の受取人になる、それをベルボーイが目撃し、やがてそのベルボーイがコンシェルジェの遺産を受け取るという形にストーリーが展開することがとてもよくわかる。さらに言えば、そのストーリー(遺産)を作家が受け取り、大成功する。ストーリーの反復は、いわば「時間」のシンメトリーである。意識のシンメトリーである。「整理」、単純化である。情報が増えれば増えるほど、「共通項」だけが、そのなかから浮かび上がる。その「整理」の方法がシンメトリー(二人一組)なのである。
情報量が増えれば複雑になる--というのが一般的な考え方だが、ウェス・アンダーソンは、これを逆手にとっている。舞台となっているグランド・ブタペスト・ホテルもそうだが、膨大な遺産を残した女の住む城(?)の、たとえば次々に開かれていく扉は、単純にこの城は巨大だ、豪華だという認識に整理されていき、個別性は消える。
だからこそ。
監督は役者を次から次へと、豪華に出演させる。どの役者も映画の主人公を演じられる。けれど、映じさせない。脇役さえも演じさせない。一瞬でてきて、もうおしまい。それは、まるで縮小していくシンメトリーの目印のようでもある。登場人物が個性的でなければ、何もかもが消えてしまう。個性的であることによって、かろうじてシンメトリーを破っているのだ。
そして、個性的な役者にシンメトリーを破らせながらも、なおかつ、その破れ目がどんどんシンプルなシンメトリーを生み出すように時間を動かしていく。これは、大変な力業だ。
で。
このシンメトリーには最後に大変な「仕掛け」がある。この映画のなかに「りんごを持った少年」の絵が出てくる。値段のつけられない傑作の一枚ということになっているのだが。--その絵のモデルがクレジットに出てくる。その役者は絵として登場するが、本人は出演しない。絵と映画にはでてこない役者がシンメトリーをつくっているのだ。
そして、ここにこの映画の「哲学」がある。私たちが見ているもの(影像)はほんものではない。それは「モデル」を写し取ったもの。ほんとうは、ない。
もし、ほんとう(ほんもの)があるとすれば、そのつくりだされた影像(絵)をから逆戻りしなければならない。影像(絵)を鏡にして、自分の生きている世界を、いま見たもののシンメトリーとして見る必要がある。
できる?
そう問いかけて、監督は高らかに笑っている。映画なんて遊び。映画なんて、おもちゃ箱さ、というわけだ。
(2014年06月08日、天神東宝5)
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