詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)

2014-06-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)          

 「アイミリアノス・モナイ、アレクサンドリア人、紀元六二八年-六五五年」は、人と対面したときに武器ではなく「みなりと作法と話し方を/恰好の鎧にしよう」とした男のことを描いている。
 だが、そんなことが可能なのか。

奴等は私をいたぶりにかかるはずだ。
だが、そばに来る奴の誰一人として
私の傷のありかはわかるまい。私の弱い箇所は
詐術が私をすっぽりと覆っているから大丈夫だ」

アイミリアノス・モナイはそう言って胸を張った。
だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?
とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。
二十七歳でシチリアで死んだのだから--。

 「紀元六二八年-六五五年」はどんな年なのか。何が起きたのかわからないと、この詩を理解したことにならないかもしれないのだが、そういう時代背景を抜きにしても、人は「みなり、作法、話法」だけで世の中を潜り抜けられないことを知っている。いつだって「詐術」だけでは生きていけないことを知っている。
 カヴァフィスは、なぜ、こういう詩を書いたのか。
 「話法」そのものが「主観」であるとカヴァフィスは感じていたのかもしれない。対人心理だけで生きていける--そう信じるのも「主観」である。カヴァフィスは「主観」ならばどんな「主観」であっても肯定しようとしているのかもしれない。
 その一方で、「だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?」という一般的な疑問も「主観」として登場させている。「みなり、作法、話法(詐術)」では生きていけないと考える「主観」もきちんと描いている。
 その対比によって、世間一般が「時代」をどのように見ていたかがわかる。そんなもので「長く」世の中をわたっていくことはできない。常に「時代(の支配者)」がかわりつづける。
 乱世なのだ。
 「話術(詐術)」が通じるのは、平和な世界である。
 「とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。」という行には、時代を見誤ったものへの冷たい視線がある。「長く」ということばに皮肉の冷酷な響きがある。
 人は誰でも、他人のふりを見てわが身をなおす。自分の動き方をきめる。「モナイになってはいけない」と乱世の人は思っただろう。
 そんなことより「紀元六二八年-六五五年」とわざわざ生きた年代を書いていること、時代に個性(時代の主観)を見て、モナイを強調している手法に目を向けるべきだったか。カヴァフィスはいつも個性と普遍を重ねている。

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