詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・エアー監督「フューリー」(★★★★)

2014-11-30 23:03:14 | 北川透『現代詩論集成1』
監督 デビッド・エアー 出演 ブラッド・ピット、シャイア・ラブーフ、ローガン・ラーマン、マイケル・ペーニャ、ジョン・バーンサル

 この映画はとてもシンプルな映画である。ひとつのことしか言わない。「戦争は人を殺すこと(殺さないと殺される)」。どちらが悪いとか、どちらが正義であるとか、そういうことはいっさい言わない。
 で、情報を非常に限定している。何より、色がない。金髪のブラッド・ピットの髪が金色ではない。スクリーンに出てくるのは、泥の灰色、戦車の灰色、兵士の汚れた顔の灰色。灰色の濃淡があるだけ。カラー映画なので、その灰色の濃淡はモノクロ映画のように鮮明ではない。灰色に、肌の色、軍服の色、土や油や煙の色、鉄の色がまじって、単純に分類できない。識別しようとすると、とても面倒くさくなる。これはつまり、映画は、そんなことを識別させようとはしていないのだ。
 アメリカ兵とドイツ兵が出てくるが、その外形の違いすらどうでもいい。敵味方は「外形」で決まるのではない。アメリカ兵のコートを着たドイツ兵が出てくる。「外形」で敵味方を識別できないということをの象徴である。それを新入りのアメリカ兵が殺すところが前半のハイライトだが、ドイツ兵かどうかは、観客にはわからない。ブラッド・ピットが「ドイツ兵」と言っているから、それを信じてドイツ兵だと思っているだけにすぎない。そこにいるアメリカ兵にだって、ほんとうにわかっているのかどうか、判然としない。ドイツ兵であるかどうかよりも、ブラッド・ピットにとっては、殺すか殺されるかという「識別」の方が大事である。それだけを基準に動いている。殺さなければ殺される。だから、殺す。それ以外の「行動基準」はない。
 「殺す/殺される」だけが「行動基準」であり、敵味方の「識別基準」である。「動詞」が「基準」である。自分たちを殺そうとするものが敵であり、自分たちが殺す相手が敵である。(新入り兵は、この「殺す/殺される」という「行動基準」がわからない。新入り兵は「人を殺してはいけない(殺さない)」という「日常」の基準を引きずっている。)
 戦場では、軍服だの、目でわかる識別基準など、どうでもいい。だいたい実際の戦闘では煙幕がつかわれたり、砲弾の土煙があったりで、「色」などで識別している余裕はないだろう。「殺す/殺される」の「行動基準」は、身近にいるか、いないか。自分に銃を向けるか向けないかだけである。
 最後の戦闘シーンが象徴的である。ブラッド・ピットたちは一台の戦車に閉じこもって三百人のドイツ兵と戦う。そのときブラッド・ピットたち米兵は戦車のなかで、「殺されてはいけない(死んではいけない)」と思っている。戦車の外にいるのはドイツ兵で「殺す」相手である。戦車のなかでは、ブラッド・ピットたちは「肉体」を寄せ合っている。触れ合っている。それは殺してはいけない/殺されてはいけない/死んではいけない人間であり、外にいるドイツ兵は、ブラッド・ピットたちとは「戦車」をはさんで離れている。この「距離感」を手がかりにして、観客(私)は、映画のなかの「敵味方」(アメリカ兵がドイツ兵か)を識別する。役者の顔を識別して、これはブラッド・ピット側、これはドイツ軍と識別しているわけではない。「身内」(戦車の内側)は守る、「身の外」(戦車の外側)は殺す。そこでの「識別基準」は「内と外」、「内と外」をつくる「距離」である。
 「距離」が「識別基準」であるとき、そこに「色」はいらない。そんなものは識別しなくていい。だから、この映画は最初から「色」を排除しているのだ。「色」があれば、どうしても色を見てしまい、「距離」を見逃してしまう。「距離」に焦点をあてるために、「灰色」にいろいろな色をごちゃ混ぜにして、色を分かりにくくしているのだ。ブラッド・ピットたちを常に塊として動かし、その塊から離れたところにいる人間は次々に死んでいく(殺す/殺される)という単純な運動で映画のすべてを描ききる。
 途中に、新入りの兵士とドイツの娘との一瞬の恋愛(?)も描かれるが、その恋愛にしろ、ブラッド・ピットと新入り兵が娘の家から出て、つまり娘から離れた瞬間に、爆撃にあって娘は死ぬ(殺される)という具合だ。肉体を寄せあって(肉体の距離を密着させ、団結して)行動するときだけ、「生きる」望みがある。離れてしまえば、殺される。離れてしまえば、死ぬ。
 これはブラッド・ピットたちの任務(作戦)にも言える。アメリカ軍(連合軍)とのつながりを維持するために戦う。ドイツ軍の軍の連携を分断するために戦う。分断されたら負け、つながっていれば勝つ(生きる)チャンスがある。銃弾の在庫(補給)があれば勝てる。けれど、武器の補充が寸断されれば戦う方法がない。だから、負ける。殺される。戦争は、ただ敵を殺すという以外のことはしないから、その勝敗の決め手は、味方との連絡を維持できるか(味方と、肉体が接するように、緊密な距離を維持できるか)どうかにかかっている。繰り返しになるが、こういうとき、「識別基準」は「色」なんかではない。緊密な「手触り」である。
 ブラッド・ピットたちは、それぞれに個性的だが、その個性を飲み込んでしまうくらいの密使の距離を生きている。その距離感が彼らを生かしつづける力になっている。その密着感を明確にするためにも、「色の識別」などはない方がいい。
 で、このことは副ストーリーにそって映画を見つめなおすと、さらに鮮明になる。色の識別はないと最初に書いたが、実は、ひとつだけ識別がある。新入りの兵士。彼は、土と硝煙に汚れていない。「灰色」に汚れていない。白い。顔が、白い。戦争(人を殺す)を知らない。だから、最初は浮き立っているのだが、苦悩しながらドイツ兵を殺し(むりやり処刑を押しつけられ)、アメリカ兵がドイツ兵に殺されるのを見、実際に自分でも戦場で殺す。そういうことをしているうちに、顔が変わってくる。だんだん「灰色」に汚れてくる。仲間が、他の仲間を救うために手榴弾に覆いかぶさりひとりだけ死んでいくのを見て、自分だけが生きるのではなく、他人を生かすために戦っているということも知る。そのときの彼の顔は、戦車の、あるいは銃の強靱な「灰色」である。
 ゆるぎがないのは「色彩計画」だけではないかもしれない。私は戦車や銃器には何の関心もないので、その細部には無頓着だが、見る人が見れば、その細部へのこだわりにも映画造りの「意図」が見えるかもしれない。戦争とは人を殺すこと--ただ、それだけを伝えるために、いろいろなものを排除して、その排除のなかにリアリティー(極限)を浮かび上がらせている映画である。
                        (2014年11月30日、天神東宝5)

 


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