谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「失題」のあと、空を飛ぶ鳥の写真がつづいている。あるいは鳥が飛んでいる空の写真というべきなのだろうか。同じものなのだけれど、違うふうに言うことができる不思議さ。空と雲の色が、見たことがあるようで、ない色だ。でも、空だとわかる。雲だとわかる。鳥だとわかる。鳥の名前はわからないが……。
どうして一枚ではないのだろう。何枚も同じ写真なのだろう。いや、どれも違う写真だけれど、なぜ同じ空、雲、鳥なのだろう。もしかすると、それまで見てきた様々な写真も、「同じ何か」を写したものだろうか。
その空、雲、鳥の写真の裏に「眠気」という詩がある。裏が透けて見える紙質なのだが、空、雲が青と白と灰色の組み合わせてできているせいか、裏側から見ると「むら」は見えるけれど、色も形もよくわからない。
「眠気」って、こういう感じ?
いや、その隣(左ページ)の舗装された道路に広がる太陽の光、家(屋根)の影、舗装の段差の影の方が眠くなる感じかなあ。誰もいない。きっとみんな、家のなかで昼寝しているのだろう。
私は意識を集中できない人間なのか、詩を読む前に、目に入った写真でぼんやりしてしまう。「眠気」という詩だから、こんな感じの方がいいかな?
前半は、「眠気」そのもの。「山は寝そべっている」は「山眠る」ということばがあるから(意味は、違うんだけれど、冬の「季語」だけれど)、あるいは山の姿が寝そべった仏様の姿に似ているとかいう表現があるからか、すーっと山の形が見える。
でも、「空は目をつぶっている」に驚く。えっ、空に目がある。驚きながら、その目はきっと「一つ目」だと思ってしまう。人間のように「ふたつの目」だとは思わない。「一つ目」という異常なものをすぐに思い浮かべるのは、どこかで「空の目」を見た記憶があるかならなのかなあ。
「木々も立ったまま居眠りをしているようだ」。そうだなあ。山のように寝そべる形にはなれないなあ。
ぼんやり、そんなことを考える。
人が「大判小判の夢を見ている」というのは、俗っぽくて(?)、いいなあ。幸福だなあ。
「空も目をつぶっている」というような、新鮮なことば、衝撃的なことばと、「大判小判の夢」という「常套句」のようなものが同居して動いていくところが谷川の詩のおもしろいところだと思う。
「空も目をつぶっている」というようなかっこいい(印象的)な行を書いたあとだと、私は絶対に「大判小判の夢」なんてところへことばを動かしていかない。かっこいいものが、とたんに「凡庸」になる。「大判小判」じゃなくて、もっとかっこいいことば、独創的な夢を見ていると書きたい。
でも、そういう「欲張り」はきっと「眠気」とは反対のものだ。「大判小判」だから、眠くなる。
などと思いながら、うつらうつらしかける。この詩がおもしろいのか、つまらないか、感動しているか、感動とは無関係に惰性で読んでいるか(あ、谷川さん、ごめんなさい。でも、本はいつも真剣に読むとはかぎらない。惰性で読む、ということもあると思う)、わからなくなる。いいんだ、「眠気」という詩なんだから……。
その「うつらうつら」が、最後で、目が覚める。うつらうつら、こっくりこっくりが、首が倒れすぎて衝動でぱっと体が反応して目が覚める感じ。うつらうつらの揺れが、机に頭をぶつけて、痛っ、という感じで目が覚める。
確かに貝殻を捨てることはできる。砂浜に。あるいは海のなかに。それができるのは、貝殻が私より小さいから。手で集めた貝殻は、手で放り投げて捨てることができる。でも、海は集めることができないから、捨てることもできない。
驚く。--なぜ、驚いたのだろう。
「論理的」なのだけれど、論理的ではない。
いや、そんなことじゃないなあ、と思う。
「海を捨てる」ということは最初からできない。「海を捨てる」は「論理」の外にある。論理にしてはいけない何かである。だから、ふつう、ひとはそれをことばにしない。
よく見ると(読むと)谷川は「捨てることはできない」とは書いていな。捨てる「わけにはいかない」と書いている。
「わけ」は「理由」かな? 「道理」かな? 「筋道」かな?
「海を捨てることはできないから」と「できる」「できない」と書かれていたなら、それほど衝撃的ではなかったかもしれない。
「わけ」という口語が、「わけ(理由/道理/筋道)」という「文語(ことばの意味?)をひっかきまわし、そこに「変な感じ」を呼び起こす。この「変な感じ」は、「変」ではあるけれど、納得できる「変」なのだ。
変だね、私の書いていることは。
ここには「わけのわからない」何かがある、と書いてしまうと「だじゃれ」になってしまうが、谷川のことばの運動には、こういう「わけのわからない」ものがある。「論理」を装いながら「論理」を超越し、「肉体」を揺さぶってくるものがある。
「海を捨てる」という「動詞」のつかい方に気を取られてしまう。そして、そこにも谷川の「思想」があるのだろうけれど、私はその衝撃的な「意味」よりも「わけ」ということばのなかに、とても強く誘い込まれてしまう。
谷川のことばには、何かいつも「道理」を考えているような、「ていねいさ」がある。「道理」を無視しない「肉体」がある。--突然、そんなことを思った。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
「失題」のあと、空を飛ぶ鳥の写真がつづいている。あるいは鳥が飛んでいる空の写真というべきなのだろうか。同じものなのだけれど、違うふうに言うことができる不思議さ。空と雲の色が、見たことがあるようで、ない色だ。でも、空だとわかる。雲だとわかる。鳥だとわかる。鳥の名前はわからないが……。
どうして一枚ではないのだろう。何枚も同じ写真なのだろう。いや、どれも違う写真だけれど、なぜ同じ空、雲、鳥なのだろう。もしかすると、それまで見てきた様々な写真も、「同じ何か」を写したものだろうか。
その空、雲、鳥の写真の裏に「眠気」という詩がある。裏が透けて見える紙質なのだが、空、雲が青と白と灰色の組み合わせてできているせいか、裏側から見ると「むら」は見えるけれど、色も形もよくわからない。
「眠気」って、こういう感じ?
いや、その隣(左ページ)の舗装された道路に広がる太陽の光、家(屋根)の影、舗装の段差の影の方が眠くなる感じかなあ。誰もいない。きっとみんな、家のなかで昼寝しているのだろう。
私は意識を集中できない人間なのか、詩を読む前に、目に入った写真でぼんやりしてしまう。「眠気」という詩だから、こんな感じの方がいいかな?
どうしてこんなに眠いのだろう
山は寝そべっている
空も目をつぶっている
木々も立ったまま居眠りをしているようだ
人は昼間から我先に眠りこんで
大判小判の夢を見ている
私は世捨て人になりたいのだが
これも夢に過ぎないのか
眠気を抑えてひとまず
拾い集めた貝殻を捨てた
海を捨てるわけにはいかないから
前半は、「眠気」そのもの。「山は寝そべっている」は「山眠る」ということばがあるから(意味は、違うんだけれど、冬の「季語」だけれど)、あるいは山の姿が寝そべった仏様の姿に似ているとかいう表現があるからか、すーっと山の形が見える。
でも、「空は目をつぶっている」に驚く。えっ、空に目がある。驚きながら、その目はきっと「一つ目」だと思ってしまう。人間のように「ふたつの目」だとは思わない。「一つ目」という異常なものをすぐに思い浮かべるのは、どこかで「空の目」を見た記憶があるかならなのかなあ。
「木々も立ったまま居眠りをしているようだ」。そうだなあ。山のように寝そべる形にはなれないなあ。
ぼんやり、そんなことを考える。
人が「大判小判の夢を見ている」というのは、俗っぽくて(?)、いいなあ。幸福だなあ。
「空も目をつぶっている」というような、新鮮なことば、衝撃的なことばと、「大判小判の夢」という「常套句」のようなものが同居して動いていくところが谷川の詩のおもしろいところだと思う。
「空も目をつぶっている」というようなかっこいい(印象的)な行を書いたあとだと、私は絶対に「大判小判の夢」なんてところへことばを動かしていかない。かっこいいものが、とたんに「凡庸」になる。「大判小判」じゃなくて、もっとかっこいいことば、独創的な夢を見ていると書きたい。
でも、そういう「欲張り」はきっと「眠気」とは反対のものだ。「大判小判」だから、眠くなる。
などと思いながら、うつらうつらしかける。この詩がおもしろいのか、つまらないか、感動しているか、感動とは無関係に惰性で読んでいるか(あ、谷川さん、ごめんなさい。でも、本はいつも真剣に読むとはかぎらない。惰性で読む、ということもあると思う)、わからなくなる。いいんだ、「眠気」という詩なんだから……。
その「うつらうつら」が、最後で、目が覚める。うつらうつら、こっくりこっくりが、首が倒れすぎて衝動でぱっと体が反応して目が覚める感じ。うつらうつらの揺れが、机に頭をぶつけて、痛っ、という感じで目が覚める。
拾い集めた貝殻を捨てた
海を捨てるわけにはいかないから
確かに貝殻を捨てることはできる。砂浜に。あるいは海のなかに。それができるのは、貝殻が私より小さいから。手で集めた貝殻は、手で放り投げて捨てることができる。でも、海は集めることができないから、捨てることもできない。
驚く。--なぜ、驚いたのだろう。
「論理的」なのだけれど、論理的ではない。
いや、そんなことじゃないなあ、と思う。
「海を捨てる」ということは最初からできない。「海を捨てる」は「論理」の外にある。論理にしてはいけない何かである。だから、ふつう、ひとはそれをことばにしない。
よく見ると(読むと)谷川は「捨てることはできない」とは書いていな。捨てる「わけにはいかない」と書いている。
「わけ」は「理由」かな? 「道理」かな? 「筋道」かな?
「海を捨てることはできないから」と「できる」「できない」と書かれていたなら、それほど衝撃的ではなかったかもしれない。
「わけ」という口語が、「わけ(理由/道理/筋道)」という「文語(ことばの意味?)をひっかきまわし、そこに「変な感じ」を呼び起こす。この「変な感じ」は、「変」ではあるけれど、納得できる「変」なのだ。
変だね、私の書いていることは。
ここには「わけのわからない」何かがある、と書いてしまうと「だじゃれ」になってしまうが、谷川のことばの運動には、こういう「わけのわからない」ものがある。「論理」を装いながら「論理」を超越し、「肉体」を揺さぶってくるものがある。
「海を捨てる」という「動詞」のつかい方に気を取られてしまう。そして、そこにも谷川の「思想」があるのだろうけれど、私はその衝撃的な「意味」よりも「わけ」ということばのなかに、とても強く誘い込まれてしまう。
谷川のことばには、何かいつも「道理」を考えているような、「ていねいさ」がある。「道理」を無視しない「肉体」がある。--突然、そんなことを思った。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
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