詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(14)

2014-12-10 11:37:29 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(14)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十三 意味の偏向 比喩論の位相

 「荒地」の総論として、この「意味の偏向」という指摘はとてもおもしろかった。「荒地」の比喩論の重視は経験を新しくする、経験をひろげるという態度から起きていると書いたあと、北川はつづける。

詩の言語に即して言えば、比喩によって、ことばの意味の転位・拡充・強調をめざすということになろうか。                      ( 294ページ)

 ここに幾つかの問題が視えてくるだろう。意味の比較の過程を、<のような>によって明らかにしている直喩の形式においても、意味論だけで考えることは不十分だということが一つである。あるいは次に検討する暗喩も、意味論で解こうとした「荒地」派の偏向は、比喩を重視しつつも、それを不自由にしたのではないか、ということが考えられる。
                                ( 296ページ)

 私が引用している部分だけでは「意味(論理)」がわかりにくいかもしれないが、私の「日記」は北川の論の紹介ではなくて、北川のことばを読んで私が何を考えたかを書いているので、わかりにくさを承知で書きつづけると……。
 私は「比喩(直喩/暗喩)」を「意味」で解くという指摘から、その逆のことを考えた。逆というのは、「読む」ではなく「書く」方から北川の書いていることを言いなおすと、「荒地」は「意味」を「比喩」で書こうとしたのではないか。(もっとも、これは私の考えというよりも、北川の視点だと思う。私の引用した部分は、たまたま詩の「比喩を読み解く」という部分のことばの運動について書いているだけで、「詩を書く」という視点から言えば、必然的に「意味を比喩で書く」になると思う。)
 「意味(論理)」というものは、ひとに共有されることで成立し、世界を支配していくものだから、無数に見えても意外と単純な何かに還元されてしまう。「戦争はいけない」とか「人を殺してはいけない」とか、「労働に支払われる対価が少ないのは許せない」とか。その「意味(論理)」はいくら「真実」であっても、なかなかひろがらない。また、逆の言い方もできる。「意味」はどうとでもこじつけることができる。「戦争はいけいないというが、誰かが侵略してきて、あなたの大切な人を殺そうとしたら、それを見ているだけでいいのか。あなたの大切なひとを守るために、侵略者と戦わないのはなぜなのか」。「意味(論理)」は「真実」ではなく、ひとを動かす(支配する)「方便」なのである。
 「ない」ものを考える。「ない」が「ある」と考えることができると、考えた古代ギリシャの時代から「論理(意味)」というのは、常に「反対の意味」をひきつれて動いている。どうとも言えるのが「意味」であり、どうとも言えるからこそ「弁論」というものも生まれたのだろう。
 で、詩は、そういう「意味」から逸脱しようとする行為のように私には思える。
 「意味」を個人的なものに染め上げてしまう。個人的な体験や、個人的な「感覚」で染め上げてしまう。「意味」と「個人的体験/感覚(非論理)」が結びついたとき、それは「思想(肉体)」になる。「荒地」の詩人たちは、私の「感覚(直観)の意見」では、「意味」を「比喩」で語ることで、その「意味」を「肉体」にかえたのだと思う。
 「肉体」を「文体」と言いかえるといいのかもしれない。「荒地」の詩人たちは、それまでの詩の「文体」とは違った、独特の「文体」をつくりあげた。「意味」を「意味」のまま語るのではなく、「比喩」として語る。「比喩」はそれまで存在しなかった「ことばの運動の形式」だ。その詩人独自の「ことばの動き」。「意味」ではなく、その「独特の動き」を見せる。「独特の動き」が「私である(私という固体、肉体は存在する)」と主張する。
 それは「永遠」のように見える。「真実」のように見える。--と、書いてしまうと、飛躍しすぎるが、私には、そう感じられる。
 言いなおすと。
 北村太郎の「管のごとき存在」という「比喩」は、その比喩によって「意味」を逸脱して、「意味」以上に意味になる。そこに北村自身がでてきて、「意味」を北村のなかに隠してしまう。そういうことが人間にはできる。そういう「運動」の仕方、ことばの動かし方の可能性が「永遠の真実」として迫ってくる。そういうことばの運動を自分でも動かしてみたい、動かせるのだということを気持ちを引き起こさせる。「意味」ではなく、「私になる(なりたい)」という「欲望」がそのとき「共有」される(伝染する)。「本能」が共有される。「本能」こそが「永遠の真実」である。「肉体の真実」である、と私は思うのだが、これも「直観の意見」。「意味」がつたわるようには、私には、まだ書くことができないことだけれど……。

 私が書いたことを、強引に、北川の書いている文章に結びつけてしまうと。
 北川は田村隆一の「繃帯をして雨は曲がつていつた」という行を取り上げて、こう書いている。

わたしには、雨が繃帯をしているイメージの直接性のうちに、田村の戦後現実があったのだと思う。                           ( 297ページ)

 この文章の「直接性」が「肉体(思想)」。それは「切り離せない」。「意味」のように簡単には他者と共有できない。愛するか、憎むか。いっしょにいるときに、どんなふうにふるまうかが問題になってくる。「意味」のように、それだけを取り出して、その「意味」のもとに団結する(支配する)という具合には動かない、一種の「うらぎり」のような、わがまま。
 人間は「意味」ではなく、自分とは切り離せない何かを生きている。「意味」を媒介にせずに、「世界」と「直接」触れている。
 その触れ方を「比喩」として表現し、「比喩」こそが「思想(肉体)」なのだと「荒地」の詩人は主張したのかもしれない。

「荒地」の意味への偏向は、ほんとうは単なる言語の指示機能としての意味ではなく、いわば存在の意味ともいうべき、より根源的な意味へ通じるものであっただろう。
                                ( 303ページ)

 北川の書いている「根源的な意味」を、私は、そんなふうに読んだ。(長い間をあけてしまったので、前に書いた感想と関連性が弱くなってしまった、かも。)

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