安倍を分析する
自民党憲法改正草案を読む/番外192(情報の読み方)
森友学園文書改竄を、少し違う角度から見てみる。安倍はしきりに「私が最高責任者」という。憲法に自衛隊を書き加えたいのも、自衛隊を「違憲ではなくす」というよりも、内閣総理大臣が最高指揮官という文言を憲法に書き加えたいからである。内閣総理大臣が「最高」責任者、「最高」指揮官というようなことばは、どこにもないからね。
現行憲法には、72条にこう書いてあるだけ。
これが自民党改憲案(2012年)では、こうなっている。
「最高指揮官」ということばが入っている。この「最高」を安倍は先取りして「実施」しようとしている。
2012年の「改正案」では、この「最高指揮官」というこばは72条にならないと出てこないが、いま自民党がもくろんでいる改正案では、9条に出てくる。「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」という順序の現行憲法で「国民」よりも先に出てきて、しかも「最高指揮官」と定義する。
ここから「自衛隊」を指揮するだけではなく、国民全体を指揮する(監督する)という方向へ「権力構造」を広げていく。
安倍の「最高責任者」という発言は、「憲法改正」を先取りしているのである。
で、この「最高責任者」ということばと、安倍がやっていることを結びつけながらみていく。
最高責任者の「位置」というのは「三角形(あるいはピラミッド)」の頂点である。そこから全体を指揮(監督)する。このとき、安倍の視野には「三角形」の全部が入っている。国家全体を見れば、国民がいなければ「三角形」は成り立たない。行政においては、下部機関(省庁)がなければ「三角形」は成り立たない。
「最高責任者(監督者)」ということばが「意味」をもつのは「三角形」が成り立つときだけである。
ところが一方で、安倍は、17年の都議選の「応援演説」が象徴的だが、安倍を批判する人間を「こんな人たち」と呼んで排除する。「こんな人たち」を「国民」とは見なさない。「三角形」は成り立たない。「三角形」が崩れてしまえば、その頂点としての「総理大臣」も頂点とは言えなくなるのだが、こういうことを安倍は平気で言う。
だから、安倍はこのとき「最高責任者(監督者)」という「意味」を捨てていることになる。「国」がどんな形かを無視して、「頂点」という「存在」として「自己規定」していることになる。
安倍は「意味」と「存在」をつかいわけているのである。
「意味領域」と「存在領域」と言い換えてもいいが、こんなことは、普通はだれも考えない。「意味」と「存在」は同じものだと思う。
だから、安倍にだまされる。
森友学園問題でも、同じことをしている。
内閣総理大臣は行政の全体の最高責任者(監督者)である。こういうとき、安倍は「三角形」の全体を国民に「意味」として提示している。もし、その「意味」を守ろうとすると、その「三角形」の内部で問題が起きたとき(文書の改竄が起きたとき)、改竄行為の責任は内閣総理大臣にある。安倍にある。改竄が財務省でおこなわれたのなら、麻生も責任がある。
ところが安倍は、改竄は自分がしたのではない。指揮していないと、「三角形」を離れて、「頂点」という「存在」に引きこもる。「三角形」を切り捨てる。都議選で「あんな人たち」と言ったのとおなじである。「あんな省」「あんな人(佐川)」がやっていることで、自分には関係がない。「指揮、監督する」という「意味」を捨てて、開き直るのである。
改竄をした人間は「三角形の頂点」を守るために「三角形」であろうとしている。「底辺」を維持しようとしている。「底辺」でできることは何なのか、「意味」考えて行動している。これを安倍は「意味」のつながりを無視して、単なる「存在」として切り捨てる。「存在」は「補充」がきくからだ。
安倍も麻生も、財務省や佐川に責任をなすりつけて平気なのは、財務省、佐川を「あんな人たち」とみているからである。自分には関係がない。守る必要など、ない、と思っている。
ひとの考えていること(思っていること)は、いろいろな「ことば」になってあらわれる。
安倍は誰に対しても「あんな人たち」という。そういうことが平気でできる人間である。この人間性を、佐川や財務省はつかみきれなかった。籠池もおなじだろう。安倍昭恵が「名誉校長」まで引き受けるなら、信じてしまう。まさか、問題が起きると「あんな人」と切り捨てられるとは思わなかっただろう。逮捕こそされたが、裁判で判決が出ていないのに、安倍は、詐欺師と呼んで切り捨てている。
不都合な人間は、どんどん切り捨てる。自分は何もしていない、と言い張る。「三角形(意味)」と「頂点(存在)」をつかいわける「行動パターン」はおなじである。
このことからも、今回の「森友学園事件」は、安倍の引き起こしたものだと言える。安倍以外の人間が首相なら、こんなことは起きなかった。安倍の「存在」が引き起こした事件である。
で、こんなことも考えておきたい。
戦争が起きる。みんな逃げまどう。国民が殺され、死んで行く。安倍とそのとき、どういうだろうか。「私は自衛隊の最高責任者であり、国民のすべてを指揮するわけではない。避難誘導を間違った知事や市長の責任である」と言うに違いない。
安倍が「三角形」としての「最高責任者」を持ち出すのは、「独裁」を遂行するときだけである。批判を浴びたら、「頂点」として「存在」しているのであって、「三角形」の細部(面積)に責任があるのは別の人間だと言い逃れる。
こんな人間が「最高責任者」のままでは、国民は「皆殺し」にあう。すでに財務省では自殺者が出ている。「自殺」は自分でするもの、安倍は何もしていない、というだろう。「何もしていない」を別な角度からとらえ直し、「何もしなかったから自殺者が出たのだ」と問い詰めなければならない。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
自民党憲法改正草案を読む/番外192(情報の読み方)
森友学園文書改竄を、少し違う角度から見てみる。安倍はしきりに「私が最高責任者」という。憲法に自衛隊を書き加えたいのも、自衛隊を「違憲ではなくす」というよりも、内閣総理大臣が最高指揮官という文言を憲法に書き加えたいからである。内閣総理大臣が「最高」責任者、「最高」指揮官というようなことばは、どこにもないからね。
現行憲法には、72条にこう書いてあるだけ。
第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
これが自民党改憲案(2012年)では、こうなっている。
第七十二条 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。
「最高指揮官」ということばが入っている。この「最高」を安倍は先取りして「実施」しようとしている。
2012年の「改正案」では、この「最高指揮官」というこばは72条にならないと出てこないが、いま自民党がもくろんでいる改正案では、9条に出てくる。「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」という順序の現行憲法で「国民」よりも先に出てきて、しかも「最高指揮官」と定義する。
ここから「自衛隊」を指揮するだけではなく、国民全体を指揮する(監督する)という方向へ「権力構造」を広げていく。
安倍の「最高責任者」という発言は、「憲法改正」を先取りしているのである。
で、この「最高責任者」ということばと、安倍がやっていることを結びつけながらみていく。
最高責任者の「位置」というのは「三角形(あるいはピラミッド)」の頂点である。そこから全体を指揮(監督)する。このとき、安倍の視野には「三角形」の全部が入っている。国家全体を見れば、国民がいなければ「三角形」は成り立たない。行政においては、下部機関(省庁)がなければ「三角形」は成り立たない。
「最高責任者(監督者)」ということばが「意味」をもつのは「三角形」が成り立つときだけである。
ところが一方で、安倍は、17年の都議選の「応援演説」が象徴的だが、安倍を批判する人間を「こんな人たち」と呼んで排除する。「こんな人たち」を「国民」とは見なさない。「三角形」は成り立たない。「三角形」が崩れてしまえば、その頂点としての「総理大臣」も頂点とは言えなくなるのだが、こういうことを安倍は平気で言う。
だから、安倍はこのとき「最高責任者(監督者)」という「意味」を捨てていることになる。「国」がどんな形かを無視して、「頂点」という「存在」として「自己規定」していることになる。
安倍は「意味」と「存在」をつかいわけているのである。
「意味領域」と「存在領域」と言い換えてもいいが、こんなことは、普通はだれも考えない。「意味」と「存在」は同じものだと思う。
だから、安倍にだまされる。
森友学園問題でも、同じことをしている。
内閣総理大臣は行政の全体の最高責任者(監督者)である。こういうとき、安倍は「三角形」の全体を国民に「意味」として提示している。もし、その「意味」を守ろうとすると、その「三角形」の内部で問題が起きたとき(文書の改竄が起きたとき)、改竄行為の責任は内閣総理大臣にある。安倍にある。改竄が財務省でおこなわれたのなら、麻生も責任がある。
ところが安倍は、改竄は自分がしたのではない。指揮していないと、「三角形」を離れて、「頂点」という「存在」に引きこもる。「三角形」を切り捨てる。都議選で「あんな人たち」と言ったのとおなじである。「あんな省」「あんな人(佐川)」がやっていることで、自分には関係がない。「指揮、監督する」という「意味」を捨てて、開き直るのである。
改竄をした人間は「三角形の頂点」を守るために「三角形」であろうとしている。「底辺」を維持しようとしている。「底辺」でできることは何なのか、「意味」考えて行動している。これを安倍は「意味」のつながりを無視して、単なる「存在」として切り捨てる。「存在」は「補充」がきくからだ。
安倍も麻生も、財務省や佐川に責任をなすりつけて平気なのは、財務省、佐川を「あんな人たち」とみているからである。自分には関係がない。守る必要など、ない、と思っている。
ひとの考えていること(思っていること)は、いろいろな「ことば」になってあらわれる。
安倍は誰に対しても「あんな人たち」という。そういうことが平気でできる人間である。この人間性を、佐川や財務省はつかみきれなかった。籠池もおなじだろう。安倍昭恵が「名誉校長」まで引き受けるなら、信じてしまう。まさか、問題が起きると「あんな人」と切り捨てられるとは思わなかっただろう。逮捕こそされたが、裁判で判決が出ていないのに、安倍は、詐欺師と呼んで切り捨てている。
不都合な人間は、どんどん切り捨てる。自分は何もしていない、と言い張る。「三角形(意味)」と「頂点(存在)」をつかいわける「行動パターン」はおなじである。
このことからも、今回の「森友学園事件」は、安倍の引き起こしたものだと言える。安倍以外の人間が首相なら、こんなことは起きなかった。安倍の「存在」が引き起こした事件である。
で、こんなことも考えておきたい。
戦争が起きる。みんな逃げまどう。国民が殺され、死んで行く。安倍とそのとき、どういうだろうか。「私は自衛隊の最高責任者であり、国民のすべてを指揮するわけではない。避難誘導を間違った知事や市長の責任である」と言うに違いない。
安倍が「三角形」としての「最高責任者」を持ち出すのは、「独裁」を遂行するときだけである。批判を浴びたら、「頂点」として「存在」しているのであって、「三角形」の細部(面積)に責任があるのは別の人間だと言い逃れる。
こんな人間が「最高責任者」のままでは、国民は「皆殺し」にあう。すでに財務省では自殺者が出ている。「自殺」は自分でするもの、安倍は何もしていない、というだろう。「何もしていない」を別な角度からとらえ直し、「何もしなかったから自殺者が出たのだ」と問い詰めなければならない。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
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