齋藤健一「秋」(「乾河」68、2013年10月01日発行)
ある詩人の詩を好きになる。その好きな理由を説明するのはむずかしい。ある人を好きになり、その人のことを説明するのに似ている。自分がいいと思っているところに、ほかの人がおなじように惹かれるとはかぎらない。
齋藤の詩に私が感じるのは、切断と、濃縮の度合いである。ことばが切断される。その瞬間、その切断されたことばがぎゅっと濃縮して、凝固する。孤立する。その密度が、遠いどこかにあるものを夢想して飛躍する--そういう印象が好きなのである。断片なのだけれど、断片がぶつかりあいながら、そこに劇を発生させる。
「秋」という作品。
あえて「物語」を重ね合わせれば、駅についた「私(書かれていない、無人称/非人称の人物)」が数人と連れ立って歩く。時間は夜。ネオンが見える。それぞれがばらばらのものを見ているので、見ていることにはならない。無花果が実っている。無花果をもいだときに出るねばねばした白い液のことを思ったりする。それはほかの人が見ているものとはまったく別の世界だろう。連れ(他人)と同じものが見えないのは、孤独だからである。そのあと、どこかに座っているのか。また列車に乗ったのかわからないが、膝の上にハンカチをのせて、みんな笑っている。上弦の月が南の空にでている。月に気づくとき、いつも信号が近くにあるのは奇妙だ。
そういう、つれだって歩きながら孤立する感じを書いているのだと思うのだが、その孤立にあわせるように風景が次々に切断される。切断されて、そこで完結し、次の孤立へ飛躍していく。そこに、不思議なリズムと呼びかけがあって、それがさらにそれぞれの孤立を深める感じがする。
そして、
この齋藤の詩には珍しい長さのことばの前で、私は、ああ、美しいと思わず声を出してしまうのである。ここにある哲学の美しさ。それは「めいめい」ということばに凝縮している。
「めいめい」が齋藤のキーワード(ことばの肉体の基本/思想の基本)である。
「めいめい」は「銘々」である。「おのおの」である。それは別のことばで言えば「散らばり」である。接続していないのだ。「めいめい」が接続するとは言わない。「めいめい」がそれぞれの世界を生きている。「めいめい」のなかに、「めいめいの(それぞれの)」世界があって、それは「私」と「外」との関係で成り立っているが、「私」の「内(肉体/哲学/思想)」は「他」のひとのそれとはつながっていない、共同していない。「めいめい」の思想は「めいめい」のものであり、共有されていないから、それは「見た」ことにはならない。
でも、それでも「世界」はあるじゃないか。
あ、これが大問題だ。
他人から孤立して「私」が存在する。そのときなぜ「世界」が存在するのか。「孤立」していても、「世界」なのか。
齋藤は、「つながり」を信じていないのだ。切断だけを信じているのだ。そして、その切断というのは、人間の「肉体(思想)」を越えた運動なのである。たとえば、月。上弦の月は南の空に出る。それは人間の「思想」を越えた運動である。人間が悲しんでいようと喜んでいようと、無関係である。
非情である。
齋藤は、この非情の美と接続するのである。自然と一体になるのである。「私」を「人間」から孤立させ(切断し)、人間ではなく(非人称/無人称)の「自然の中の一個のもの」にして、そこで「自然」と「和音」を奏でる。
詩のなかに突然「無花果」が出てくるが、それはたまたまそこに無花果があったということだろうけれど、さまざまなものとの出会いのなかから無花果を選ぶとき、そしてその無花果から油性味の汁をことばとして結晶させるとき、そこにほかの詩人とは違った「音楽」が響く。無花果と接続するとき、それ以外のものが切断される。切断される(切断する)力のさっぱりした切れ味--それがあって、凝縮がはじまる。きちんと切れていないと(痛みをなど無視して、ただすぱっと切れていないと)、切断されたものは、そこにあるものを核にして凝縮することができない。「過去(?)」をひきずっていては、凝縮がはじまらない。肉体になりきれない。
非情な切断に向き合い、同時に、孤立して凝縮する--その運動のなかに「個性(肉体)」があるのだが、この齋藤の「肉体」は、読者「めいめい」の眼のなかに映り出るものであって、やはり共有されないものかもしれない。それでいいのである。むしろ、それ以外にはないのかもしれない。
もう一篇の「個人」。そのなかほど。
この切断と飛躍が美しい。齋藤は、凝縮に必要な広がりを熟知している。「凝縮に必要な広がり」とは奇妙な言い方だが、ようするに手を広げすぎないということ。多くを抱え込むと凝縮できない。「めいめい」に、「めいめい」の凝縮できる「量」がある。齋藤は、その「適量」を知っている。
「適量」というと、でも、いいかげんすぎるかもしれないなあ。少なければ(小さければ)凝縮できるというものでもないのだから。大きくても、広大でも、凝縮はできる。「秋」の「上弦は南中に発光する」のように。対象それぞれに、向き合い方、切断の仕方、「非情」の度合いが違っていなければならない。これが、むずかしい。そのむずかしいところを、齋藤は、いつも完璧に動く。
ある詩人の詩を好きになる。その好きな理由を説明するのはむずかしい。ある人を好きになり、その人のことを説明するのに似ている。自分がいいと思っているところに、ほかの人がおなじように惹かれるとはかぎらない。
齋藤の詩に私が感じるのは、切断と、濃縮の度合いである。ことばが切断される。その瞬間、その切断されたことばがぎゅっと濃縮して、凝固する。孤立する。その密度が、遠いどこかにあるものを夢想して飛躍する--そういう印象が好きなのである。断片なのだけれど、断片がぶつかりあいながら、そこに劇を発生させる。
「秋」という作品。
はらはらと散らばりあるくのだ。木造の高い駅舎。橙色
のネオンサイン。めいめいの眼の内に映り出るのだが何
もかもみえないのである。熟する無花果の汁。片意地な
油性味と似る如くに。押しつつむ群衆。ひとりぽっちだ
からだ。厚いハンカチと両膝の。しかして一様に笑って
いる。上弦は南中し発光する。奇妙に信号機の近くであ
る。
あえて「物語」を重ね合わせれば、駅についた「私(書かれていない、無人称/非人称の人物)」が数人と連れ立って歩く。時間は夜。ネオンが見える。それぞれがばらばらのものを見ているので、見ていることにはならない。無花果が実っている。無花果をもいだときに出るねばねばした白い液のことを思ったりする。それはほかの人が見ているものとはまったく別の世界だろう。連れ(他人)と同じものが見えないのは、孤独だからである。そのあと、どこかに座っているのか。また列車に乗ったのかわからないが、膝の上にハンカチをのせて、みんな笑っている。上弦の月が南の空にでている。月に気づくとき、いつも信号が近くにあるのは奇妙だ。
そういう、つれだって歩きながら孤立する感じを書いているのだと思うのだが、その孤立にあわせるように風景が次々に切断される。切断されて、そこで完結し、次の孤立へ飛躍していく。そこに、不思議なリズムと呼びかけがあって、それがさらにそれぞれの孤立を深める感じがする。
そして、
めいめいの眼の内に映り出るのだが何
もかもみえないのである。
この齋藤の詩には珍しい長さのことばの前で、私は、ああ、美しいと思わず声を出してしまうのである。ここにある哲学の美しさ。それは「めいめい」ということばに凝縮している。
「めいめい」が齋藤のキーワード(ことばの肉体の基本/思想の基本)である。
「めいめい」は「銘々」である。「おのおの」である。それは別のことばで言えば「散らばり」である。接続していないのだ。「めいめい」が接続するとは言わない。「めいめい」がそれぞれの世界を生きている。「めいめい」のなかに、「めいめいの(それぞれの)」世界があって、それは「私」と「外」との関係で成り立っているが、「私」の「内(肉体/哲学/思想)」は「他」のひとのそれとはつながっていない、共同していない。「めいめい」の思想は「めいめい」のものであり、共有されていないから、それは「見た」ことにはならない。
でも、それでも「世界」はあるじゃないか。
あ、これが大問題だ。
他人から孤立して「私」が存在する。そのときなぜ「世界」が存在するのか。「孤立」していても、「世界」なのか。
齋藤は、「つながり」を信じていないのだ。切断だけを信じているのだ。そして、その切断というのは、人間の「肉体(思想)」を越えた運動なのである。たとえば、月。上弦の月は南の空に出る。それは人間の「思想」を越えた運動である。人間が悲しんでいようと喜んでいようと、無関係である。
非情である。
齋藤は、この非情の美と接続するのである。自然と一体になるのである。「私」を「人間」から孤立させ(切断し)、人間ではなく(非人称/無人称)の「自然の中の一個のもの」にして、そこで「自然」と「和音」を奏でる。
詩のなかに突然「無花果」が出てくるが、それはたまたまそこに無花果があったということだろうけれど、さまざまなものとの出会いのなかから無花果を選ぶとき、そしてその無花果から油性味の汁をことばとして結晶させるとき、そこにほかの詩人とは違った「音楽」が響く。無花果と接続するとき、それ以外のものが切断される。切断される(切断する)力のさっぱりした切れ味--それがあって、凝縮がはじまる。きちんと切れていないと(痛みをなど無視して、ただすぱっと切れていないと)、切断されたものは、そこにあるものを核にして凝縮することができない。「過去(?)」をひきずっていては、凝縮がはじまらない。肉体になりきれない。
非情な切断に向き合い、同時に、孤立して凝縮する--その運動のなかに「個性(肉体)」があるのだが、この齋藤の「肉体」は、読者「めいめい」の眼のなかに映り出るものであって、やはり共有されないものかもしれない。それでいいのである。むしろ、それ以外にはないのかもしれない。
もう一篇の「個人」。そのなかほど。
気圧が瓦
を黒くする。けれども乾きはじめる。海のちかくより順
順だ。
この切断と飛躍が美しい。齋藤は、凝縮に必要な広がりを熟知している。「凝縮に必要な広がり」とは奇妙な言い方だが、ようするに手を広げすぎないということ。多くを抱え込むと凝縮できない。「めいめい」に、「めいめい」の凝縮できる「量」がある。齋藤は、その「適量」を知っている。
「適量」というと、でも、いいかげんすぎるかもしれないなあ。少なければ(小さければ)凝縮できるというものでもないのだから。大きくても、広大でも、凝縮はできる。「秋」の「上弦は南中に発光する」のように。対象それぞれに、向き合い方、切断の仕方、「非情」の度合いが違っていなければならない。これが、むずかしい。そのむずかしいところを、齋藤は、いつも完璧に動く。
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谷内 修三 | |
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