詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石松佳『針葉樹林』

2020-12-23 11:18:41 | 詩集


石松佳『針葉樹林』(思潮社、2020年11月30日発行)

 石松佳『針葉樹林』は、「第57回現代詩手帖賞」受賞者の詩集。投稿欄で読んでいるときは違和感はなかったのだが、一冊の詩集になってみると気になることがある。
 「絵の中の美濃吉」。

井戸が目眩をした朝があった。美濃吉は昔から人間より
も事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪
摘んで、その闇に投げ落とした。闇からは美濃吉を呼ぶ
声が絶えなかった。美濃吉はほほえんで、遠くの山々に
向かって一礼をした。彼は生まれつき音が聞こえなかっ
たのである。

 「絵の中の美濃吉」とあるから、絵を見て、「物語」を感じ、それをことばにしているのかもしれない。
 そう考えた上でも、私には、疑問に思うことがある。
 石松は「井戸」を見たことがあるのか。「井戸」をのぞいたことがあるのか。「桔梗」でなくてもいいが、花でなくてもいいが、何かを「井戸の闇」に投げ込んだことがあるのか。
 どうも、私には、そう感じられない。
 「いま/ここ」が感じられないからである。
 もちろん詩が「いま/ここ」を書かなければならないというわけではないが、「いま/ここ」とはあまりに遠い世界に、私はつまずいてしまう。
 ここでは「ことば」が「存在」ではなく、遠いことばと対話しているとしか感じられない。それは何もかもが「描写されたもの」であって、「生身の肉体(存在)」ではないという感じがしてましまう。
 この作品の場合「絵の中の美濃吉」なのだから、「生身」である必要はないのかもしれないが、それでも「絵」と石松を結びつける「絶対的な肉体」というものがどこかにあってほしいなあ、と思う。

完璧な月が出たある晩、美濃吉は月明かりの中でまたあ
の馬を見た。馬の背中は喪失的にうつくしい作文だっ
た。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には
雪が結晶する。その景は明らかに厳しい冬の到来を伝え
ていたので、夜風に靡いた草は妹のように泣いた。

 ここには「妹」ということばが出てくるのだが、この「妹」さえ、私には「文学の中の妹」(ことばになってしまった妹)に感じられる。石松に「妹」はいないのではないか。実際に「妹」がいて、それでいてなおかつ、「ことばになってしまった妹」をもちこんでいるのだとすれば、それはそれで一つの「力業」なんだろうけれど。
 もうひとつの「肉体」としての「馬」。これは、登場した途端に「喪失的にうつくしい作文」という「ことば」でしか存在し得ない「形式」に閉じこめられ、「暗く燃え」(燃えているのに明るくはない!)を経て、燃えているのに「皮膚の上には雪が結晶する」という「ことば」でしか成立しない「世界」を出現させる。
 それらが「ことばでしかない」存在だから、「妹」が「ことば」になってしまうのかもしれない。
 一貫しているという意味では「技術」が完成しているということになる。それはそれでとてもおもしろいことで、現代詩は再び荒川洋治の時代に入ったのかもしれない。
 でも、何か、違和感を覚える。
 「美濃吉」が「人間よりも事物とこころを通わせていた」ということばを借りて言えば、石松は「人間よりも確立されたことば(表現)とこころを通わせていた」ということになるのかも。「事物」のかわりに「確立されたことば」。
 なんだか「古今/新古今」、あるいは「新感覚派」という「昔」のことばが現れてきそうな気がするなあ。
 「田園」には、こんなことばがある。

わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことが
なかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。
微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁
を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。

 ここでも私は思うのだ。石松は「田園」をほんとうに見たのか。「水紋」をみたのか。「井戸」や「桔梗」や「馬」と同じように、「完成されたことば」を読んできただけなのではないのか。
 「軽やか」と「胸に広がる」は通い合う。「胸に広がる」と「ひとしく苦しい」も通い合う。しかし、「軽やか」と「ひとしく苦しい」は対立する。「軽やか」「胸に広がる」と「微笑」「すやすや」「斉唱」「透けた」も通い合う。しかし、この詩の中でいちばん魅力的な「ひとしく苦しい」は対立する。「どれも」と強調されているだけに、よけいに「対立」を感じる。
 もちろん、これは、そういうことを承知で「どれもひとしく苦しい」ということばのために用意された「舞台(書き割り)」と受け止めればいいのかもしれないけれど。
 でも、そうすると、なんだか、文学的な、あまりに文学的な、という感じ。

                「おはようございま
す。」そして大声でお礼を言われて、顔を上げたら、f
が対岸の選挙カーに向かって手を振っていた。

 というような、あまりにも「現在的」な感じのことばが浮いて見える。
 でも、これは私の感じ方がおかしくて、いま引用した選挙カーのことばなどこそが、石松の「いま/ここ」の「書き割り」なのかもしれない。








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