詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(145)

2019-05-13 08:44:04 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
145 よく似合う白いきれいな花

二人でいつも一緒に行ったカフェに彼は入った。

 と書き出される詩。明確には書かれていないが「彼」は「二人」ではなく「一人」で入った。その隠されている「一人」がこの詩のテーマといえる。「彼」ではない「もう一人」は、理由は書かれていないが死んだのだ。殺されたのかもしれない。最終連の「ナイフ」がそう連想させる。

粗末な棺の上に花を置いた。
白いきれいな花は友人によく似合った。
二十年の生涯によく似合った。

 「よく似合った」の繰り返しが切ない。繰り返さざるを得ないのだ。繰り返したあとで、最終蓮が展開する。

この晩、彼がカフェに行ったのは商売のためだった。
稼がなくてはならないし、カフェはそのための場。
だがそこは二人が会っていたカフェだった。
心臓にナイフを突き立てられたような気がした、
その寂れたカフェが二人が会う場所だったから。

 ここにも繰り返しがある。「二人が会っていたカフェ」「寂れたカフェが二人が会う場所だった」。繰り返されているのは、「カフェ」と「二人」と「会う」もそうだが、「会っていた」「場所だった」ということばのなかにある「過去形」(過去)だ。
 ここから振り返ると「白いきれいな花は友人によく似合った」の繰り返しは、とても複雑である。友人には白い花が似合う。死んでしまっても、似合う。それは生きている友人を思うから「似合う」なのである。言い換えると「似合う」と思うとき、友人は生きている。棺に花をささげるとき、気持ちは「白いきれいな花は友人によく似合う」と「現在形」で動く。けれども、「彼」はそれを「似合った」と「過去形」にしている。
 なぜだろう。「過去形」にすることで友人を守っている。友人を「彼」の記憶の中だけにとどめておくのだ。だが、その「記憶」が最終蓮で、「彼」に復讐してくる。ここにドラマがある。

 このカフェが安っぽいとは、ここが同性愛者たちの出会いの場として底辺に位置するという意味だろう。二人で来たときは語らいの場だが、一人で来るのは商売のためなのだ。

 と池澤は註釈しているが、「底辺」とまで書く必要はないと思う。

 



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 池澤夏樹のカヴァフィス(1... | トップ | 教育無償化の罠(その2) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

池澤夏樹「カヴァフィス全詩」」カテゴリの最新記事