絹川早苗『みなとから みなもとへ』(花梨社、2013年07月31日発行)
ことばには何か不思議な呼び掛けあいがある。私はこれを「ことばの肉体」の呼び掛けと感じている。人間が、誰かを見て、なんとなく親しみを感じるように、ことばにもことばに対する「親密感」のようなものがある。そこには何か、奥深いつながりがある。そして、その見えない「つながり」が、あるとき「見えない」ままそこにある、と感じる瞬間--それをことばにしようとして(見えるようにしようとして)、詩は動く。
吉野弘の詩は、日本語の「肉体」を探っていない。絹川はこれに異議をとなえている。日本語で考えるなら、日本語の「肉体」を探らないことには、日本語にならない。
生まれるは「産む」「生まれる」が一体になっている。一体になった瞬間、そこから「ある(在る)」が出現する。だれが「産んだ」のか、ということはその瞬間から別の問題になる。「在る」ものは、そこから「生きはじめる」。
ことばが入り混じりながら、自分の知っていることではないものを探しはじめる。「ことばの肉体」がおぼえているものを探しはじめる。
この連にかぎらず、他の連のことばも、「意味」を追い求めすぎて窮屈なところがあるが、そのぶん「意味」はわかりやすい。ことばにならない何か、それを「ことばの肉体」はおぼえている。「はるか とおい深いところ」では何も言ったことにならないかもしれないけれど、しかたがない。ことばでは言えないことなのだから。そして、だからこそことばにしたくなるのだから……。
「生まれる」ということばのなかに何かがあり、それは「はるか 遠い 深いところ」でつながっている。人間の「いのち」だけではない。
海や太陽とつながっているだけではなく、「生まれる」は「膿み」「熟み」ともつながる。それはどこかに「膿み」のようなものをもっているのか。否定的な何かをもっているのか。「熟み」は、肯定的な感じが強いが熟しすぎると、それは膿のようにもなるから、膿は何かの完成した形かもしれないし……。
そこには何かしら、矛盾や危険も含まれている。どこかに死のにおいもする。そういうものをどこかで意識しながら、それでもひとは「生まれてくる」のか。それとも、生まれてきたから、そういうことを考えるだけなのか。
わからないまま「生きる」と「在る」がどこかで手をつなぐ。その「つなぎ目」に絹川がいる。絹川なら「ある」と言うか。
「生まれる」「産む」「生る」「在る」「生きる」。「生まれる」と「生きる」は違うが、それがつながる。そんな具合に、いろいろなことばがつながる。同じ「遺伝子」を「肉体」のなかに共有する。
それを絹川は探している。
「擬音語・擬態語が満ちあふれた日」は東日本大震災のことを書いている。
よくわからないものを「擬音語・擬態語」でつかみとる。そのとき、その「音」のなかに「ことばの肉体」の萌芽のようなものがあるのかもしれない。「はるか 遠い 深いところ」でつながることば。
しかし、その「つながり」をまったく見つけられないこともある。「放射能がジワジワ広がって」と書いたあとなのだけれど、その擬音語・擬態語に疑問を感じたのか、絹川は書き直している。
「ことばの萌芽」すら、そこにはない。「ことばの肉体」が放射能の前で「切断」されている。
この発見は、とても重要であると思う。
切断された「ことばの肉体」を、どうやって「接続」し、放射能を封印するか。これは、問題を提起することは簡単だが、答えを出すのはむずかしい。そのむずかしいことを、絹川は少しずつやっている。ことばの語源を「肉体」そのもののなかに探そうとしている。
ことばには何か不思議な呼び掛けあいがある。私はこれを「ことばの肉体」の呼び掛けと感じている。人間が、誰かを見て、なんとなく親しみを感じるように、ことばにもことばに対する「親密感」のようなものがある。そこには何か、奥深いつながりがある。そして、その見えない「つながり」が、あるとき「見えない」ままそこにある、と感じる瞬間--それをことばにしようとして(見えるようにしようとして)、詩は動く。
「その時 僕は<生まれる>ということが
まさしく<受け身>である訳を ふと諒解した。」
と 吉野弘さんは 言ったけれど
この国のことばは 受け身ではない
<生まれる>は 子どもが母親から胎生して出現すること
ウミ(産)とアレ(生)が合わさった語
神や人などが ぽっかりと出現してそこに在る意という
子どもは なにかとつてつもない力によって
しぜんに この世にあらわれてくるとでも
感じられたのだろうか
吉野弘の詩は、日本語の「肉体」を探っていない。絹川はこれに異議をとなえている。日本語で考えるなら、日本語の「肉体」を探らないことには、日本語にならない。
生まれるは「産む」「生まれる」が一体になっている。一体になった瞬間、そこから「ある(在る)」が出現する。だれが「産んだ」のか、ということはその瞬間から別の問題になる。「在る」ものは、そこから「生きはじめる」。
ことばが入り混じりながら、自分の知っていることではないものを探しはじめる。「ことばの肉体」がおぼえているものを探しはじめる。
ただひとりのチチ ただひとりのハハから というより
カミの作意をも越えた
ヒトの考えなど及びもつかない
はるか 遠い 深いところから
この世に現れてきたとでも……
この連にかぎらず、他の連のことばも、「意味」を追い求めすぎて窮屈なところがあるが、そのぶん「意味」はわかりやすい。ことばにならない何か、それを「ことばの肉体」はおぼえている。「はるか とおい深いところ」では何も言ったことにならないかもしれないけれど、しかたがない。ことばでは言えないことなのだから。そして、だからこそことばにしたくなるのだから……。
「生まれる」ということばのなかに何かがあり、それは「はるか 遠い 深いところ」でつながっている。人間の「いのち」だけではない。
海から太陽が生まれようとしている
--海 膿み 熟み
姿をみせてきた朝日の
薔薇色の花弁のあたたかさ
やわらかさに包まれながら
いま まさに わたしは
ここに 生きて 在る
海や太陽とつながっているだけではなく、「生まれる」は「膿み」「熟み」ともつながる。それはどこかに「膿み」のようなものをもっているのか。否定的な何かをもっているのか。「熟み」は、肯定的な感じが強いが熟しすぎると、それは膿のようにもなるから、膿は何かの完成した形かもしれないし……。
そこには何かしら、矛盾や危険も含まれている。どこかに死のにおいもする。そういうものをどこかで意識しながら、それでもひとは「生まれてくる」のか。それとも、生まれてきたから、そういうことを考えるだけなのか。
わからないまま「生きる」と「在る」がどこかで手をつなぐ。その「つなぎ目」に絹川がいる。絹川なら「ある」と言うか。
「生まれる」「産む」「生る」「在る」「生きる」。「生まれる」と「生きる」は違うが、それがつながる。そんな具合に、いろいろなことばがつながる。同じ「遺伝子」を「肉体」のなかに共有する。
それを絹川は探している。
「擬音語・擬態語が満ちあふれた日」は東日本大震災のことを書いている。
バシッと押し上げられた地面がドーンと縦揺れ ダダダダダー グ
ラグラ グラッ ユサユサユサッと 横揺れすると 家も橋も鉄橋
も ガラガラ バリバリ バリッ みるまに崩れ瓦礫の山となる。
よくわからないものを「擬音語・擬態語」でつかみとる。そのとき、その「音」のなかに「ことばの肉体」の萌芽のようなものがあるのかもしれない。「はるか 遠い 深いところ」でつながることば。
しかし、その「つながり」をまったく見つけられないこともある。「放射能がジワジワ広がって」と書いたあとなのだけれど、その擬音語・擬態語に疑問を感じたのか、絹川は書き直している。
放射能は 擬音語・擬態語でさえとらえられない
「ことばの萌芽」すら、そこにはない。「ことばの肉体」が放射能の前で「切断」されている。
この発見は、とても重要であると思う。
切断された「ことばの肉体」を、どうやって「接続」し、放射能を封印するか。これは、問題を提起することは簡単だが、答えを出すのはむずかしい。そのむずかしいことを、絹川は少しずつやっている。ことばの語源を「肉体」そのもののなかに探そうとしている。
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