詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)

2014-12-02 10:41:08 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(25)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「失題」の右側のページは黄色一色。裏が透けて見える紙。そして、その黄色の前(裏側)のページにはひよこの写真。だから、その黄色はひよこの本質を集めて凝縮した色かもしれない。ということのほかにも思いは広がる。ひよこは前のページでは右側を向いている。ひよこの見ている先(本を読んできた時間からいうと「過去」の方向)に、きのう読んだ詩がある。白い、半透明の紙。文字が少し感じられるが、意識を集中しないと読むことはできない。
 もとへ戻って、黄色いページ。今度は、ひよこは左側を向いている。表と裏では、向いている方向、見つめている方向が違う。そうか、ひよこが「過去」を見ていたというのは私の一方的な思い込みで、反対側から見れば「未来」を見ている。何を見ているかなんて、見方次第で変わってしまう。外からはわからない。何を見ているかは、ひよこにしかわからない。
 で、その黄色のなかからぼんやり浮かぶひよこの見ている先に「失題」という詩がある。

言い足りないのがいい
いやむしろ
言わないでいい

コトバを
自分の肚(はら)に収めて
成熟を待つ

静かに
深く
黙っている
コトバから生まれる力

暴力と正反対の


 「意味」の強い詩である。「意味」が強いと感じるのは、そこに「論理」を感じるからだ。「論理」は「行動様式」と言いかえることもできる。何かに対して頭に来る。怒りがふつふつとわいてくる。でも、そういうとき怒りに任せて暴言を吐くのではなく、じっとこらえている。そのとき、ことばの暴力とは違ったもの、暴力とは正反対のものが、静かに生まれてくる--ということだろうか。「寛容」が生まれてくる、ということだろうか。
 正確には言いなおすことができないけれど、こういうことは誰もが経験したことかもしれない。誰かに、そういうことを教えられたことが、一度や二度は、たいていの人にあるだろう。
 そんなことを思いながら、私は、いつものように、ことばを入れ換えてみる。たとえば「肚」を。「肚」という文字を私は自分ではつかわない。「はら」とルビがふってあるから「腹部」のどこかと感じるが、特定の「部位」を意識するわけではない。「肚」って、内臓のどのあたり? 胃袋? 腸? 肝臓? 膵臓? 腎臓あたり? わからないけれど「はら」なので、体の内部ではあるだろう。意外と、「胸」かもしれない。「はらに一物」なんていうときは、ことばにしない考えをもっているということだから。内臓で物思いにいちばん近いのは「胸」だから。「腹黒い」というときの「はら」にも近いと思う。「はらに収める」の「収める」が黒々とした何かを感じさせるから。
 で、何に置き換えるかというと--いま書いてきたこととはかけ離れてしまうのだが、私はこの詩を読んだ瞬間、この「肚(はら)」は「タマシヒ」だな、と思った。「タマシヒ」ということばを何度も読んでいるので、知らず知らずに、そのことばが動いた。

コトバを
「タマシヒ」に収めて
成熟を待つ

 このとき、ことばは動かない。タマシヒも動かない。そして「肉体」も動かない。それで、次の連は、

静かに
深く
黙っている
「肉体」から生まれる力

 タマシヒもコトバも「肉体」そのものになる。「ある」というよりも消える。タマシヒもコトバも「ない」。ただ「肉体」だけがある。そこから、何かが生まれてくる。

「コトバの」暴力と正反対の


 このときの「コトバの暴力」と正反対の力は、「肉体の暴力」とも正反対だ。静かに、動かないでいるのは「肉体」自身もそうなのだ。「肉体」は動くもの。その動くはずのものが動くことを止めている。そのとき、「肉体」も「ない」状態だ。
 では、何がある?
 まず、コトバがなくなり、タマシヒがなくなり、肉体もなくなる。
 そのとき、「ない」はずのタマシヒが感じられる。
 死んだあと(肉体が動かなくなったあと)魂が残されるという言い方があるが、私は肉体がなくなれば何もかもがなくなると思っているので、そんなふうには考えない。私はタマシヒがあるとしても、それは肉体といっしょに「ある」。だからタマシヒは肉体であると考える。タマシヒは「肉体」そのものであると考える。「肉体」でから「肉体」が動かないときはタマシヒも動かない。ただ、肉体に動かなくても大丈夫だと教えるという形で「ある」のかもしれない。何もかもが動かないとき、その「動かない」の中心からタマシヒは広がり出てくるのかもしれない。「動かない」のに、その中心から何かが出てくる--というのを「成熟」というのかもしれない。
 「成熟」して、出てくる、と言っても、それは「コトバ」ではなく、むしろ、「無言」だろうなあ。ことばにならないまま、「態度(肉体)」が出てくる。中心にあったタマシヒが肉体の表面を覆う。肉体を隠す。それが「成熟」。中心と表面が入れ代わる、見分けがつかなくるなる。
 うーん、こんなことを書いていると、コトバとタマシヒと「肉体(はら)」がごちゃまぜになって、何がなんだかわからない。見分けのつかない「ひとつ」、そのときどきでコトバになったりタマシヒになったり「肉体(はら)」になったりする。
 この「ひとつ」を「未分化」(未分節/混沌)と言いなおせば、これまで書いてきた感想につながるのだが……。
 きょうは、少し違ったことを書く。(同じことなんだけれど、言いなおしておく。)

 「未分節」ということばを私はついついつかってしまうが、谷川はつかわない。つかっているかもしれないが、私は読み落としている。谷川は、そのかわりに「未生」ということばをつかう。『女に』という詩集を読んだとき、そのことばに出会った。
 この「失題」でも「未生」に通じる「生まれる」ということばをつかっている。

コトバから生まれる力

 「分節(する)」と「生まれる」は、どう違うか。「分節する」と「分ける」は厳密には違うのかもしれないけれど、めんどうくさいので日常的につかう「分ける」ということばを手がかりにすると、「分ける」は他動詞。「生まれる」は自動詞。
 「分ける」とき、誰かが何かを「分ける」。混沌を整理して「分ける」。そうやって、そこから何かをつかみ出す。理性がそうするのか、感情がそうするのか、あるいは、それは人間を超越した力(神)がするのかわからないが、そこには対象とそれに働きかける存在(主語)がある。
 でも、「生まれる」は違う。自力で生まれてくる。自力で生まれるというと、人間を考えると、その前に性行為があって、精子と卵子の結合があって、「自力」とは言い切れないのかもしれないけれど、そういうのは「屁理屈」。赤ん坊は、やっぱり自分で「生まれる」。
 谷川は、何か、こういう「自然に生まれる」力を信じている。
 人間が何かを「産む」のではなく、分節させる(分娩させる)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待っている。谷川の力を越えて「生まれる」ものを。
 「生まれてくる」瞬間に立ち会う、あるいは生まれる瞬間を見逃さないようにしていると言えばいいのだろうか。
 自分で何かを「分ける」(分けることで、つくり出す)のではなく、何かが「生まれてくる」のを待つというのは、別なことばで言うと、谷川自身は何もしないということでもある。言いなおすと、何かが「生まれる」というのは谷川の力の及ぶ範囲ではないから、何かが「生まれる」瞬間には、谷川の世界が一瞬「切断」される。「生まれてくる」ものによって、谷川の世界が一瞬、否定される。「生まれた何か」を受け入れるとき、世界は「接続」する。そして、新しくなる。谷川が「生まれ変わる」。
 「生まれる何か」をだきしめて、新しい谷川自身が「生まれる」。
 「分節」ということばをつかって言いなおせば、何かが生まれるとき、谷川が分節されるのである。

 谷川は何かを「分節する」のではなく、何かによって「分節される」。そういう詩人である。そして、谷川自身の「分節」をうながしたものは何かというと--私は直観でいうだけなのだが、佐野洋子である。佐野洋子と出会う前は、谷川も「分節する」主体だったかもしれない。けれど『女に』以降は、谷川は「分節される」(常に新しく生まれ変わる)詩人になったと思う。--これは、私の「感覚の意見」なんだけれどね。

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1 コメント

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谷川さんの詩「おやすみ神たち」(25) (大井川賢治)
2024-03-08 15:09:18
/ことばを 「タマシヒ」に収めて 成熟を待つ/
これはこの章の谷川の詩の1節である。思うに、これが、谷川の詩作の基本的態度の1つかなと思った。おそらく、待つ詩人なんですね。未来を信じている詩人なんですね。
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