谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「仮に」は「露骨」な詩である。「露骨」と書いてしまうのは、そこに動いている「論理」が強すぎるからである。論だだけが動いているようにも見える。意味をつくり、意味で読者を感動させようとしているようにも見える。「意味」が「露骨」なのかもしれないなあ。
「タマシヒ」の存在は信じないが、ものの名前以前(名づけること/分節以前)の世界を統一する力があって、その力が自分を生かしている。その力は「名辞以前のもの」なので「名前」はない。仮に谷川は「タマシヒ」と呼ぶ。それが谷川を「現世」から解き放つ。
そういうことが書かれているのだが。
私は、その「意味」を少しひねくれた角度から見てゆきたい。
この「論理」のなかで私がおもしろいと感じるのは、「騙る」ということば。
「かたる」は「語る」であり、「騙る」でもある。「語る」と書いたとき、そこにはほんとうも嘘もある。「騙る」は嘘しかない。「騙る」は「だます」でもある。「だます」は「騙す」と書く。
でも、だれを。
「他人」を「騙す」と同時に「自分」を「騙す」。タマシイはない、と「私(谷川と仮に仮定しておく)」は知っている。だからその知っている「私」をまず「騙す」。タマシヒはあると、言い聞かせる。それから「理由」を探す。タマシヒがあるという根拠を探す。
しかし、ないものは探したって、ない。だから、違うことをする。「論理」でつくりだしてしまう。「ない」のだから、「ある」にするにはつくりだすしかない。その「ある」を生み出すのが「論理」である。ほんとうは、そのとき何かをつくりだされたのではなく、何かをことばのなかにつくりあげたようにみせかける「論理」があるだけなのだが……。
谷川はこの「論理」なのかで、ふたつの「虚(存在しないもの)」を衝突させている。ひとつは「名辞以前」。「名前」とは「未分節」の世界(混沌)から「もの」を「分節」したもの。名前がなければ、そこには分節はない。「未分節」。この「未分節」は、「ある」とはいわずに「ない」として処理するのが論理の経済学である。
もう一つの「ない(虚)」は「見ない力」。見えないのだから「ない」。「ない」と意味を「分節」してしまうとなにかがあるように見えるが、そこには「論理」があるだけで、何も「ない」。
しかし、ことばは不思議なもので、そこに「ない」ものを「ない」ということばをつかって「思考」のなかに存在させてしまうこともできる。「思考」は「論理」になって共有され「ある」が確固としたものになる。
「ない」が「ある」。「ない」を定着させる「論理がある」。
そして、この「虚」と「虚」の衝突は、一転して「実」に転換する。ことばの経済学ではなく、ことばの化学反応、あるいはことばの「理論物理学」のようなものか。
「ない」と「ない」が「論理(ことば)」のなかで、「ある」もののようにしてぶつかりあって、そのときに生じる力が「自分(私)」を生み出す。「肉体」を生み出すのではなく、別なことば(思考)を生み出す。「ない」が「ある」と考える力が、「自分」というものになる。「自分(思考)」になって生まれる。これは先に書いたように、単にそういう「論理」が生み出されているだけなのだが……。
こういうことは「正確」に書こうとすると、ごちゃごちゃしてしまうので、書き飛ばしてしまうしかない。書き飛ばしながら、次の機会に、そのことばがととのえられるのを待つしかない。
谷川はタマシヒを信じない。けれど、「ない」ものをも語る(騙る)ことができる。ことばは「ない」ものをも「ある」という形で表現できる。そういうことをしてしまうことばが「ある」。そして、それが「自分を生かしている」と信じる。
「ない」ものを「ある」というだけでは矛盾してしまうので、その「ないもの」を仮に「タマシヒ」と呼ぶ。「ある」と騙してことばを動かすと、そこに「論理」が生まれてくる。人は「論理」を信じてしまう。
馬鹿だから--とは谷川は書いていないが。馬鹿だから、という感想は私の勝手な脱線なのだが、人間はついつい「論理」にもたれかかってしまう。論理なんてでっちあげだから、そんなものは「ない」、私はそれを信じない、と言えばいいのに、人間はなかなかそういうことができない。--馬鹿だから。
脱線した。
谷川は、私とは違った具合に考える。違った人間なのだから、違った具合に考えるのが当然なのだが。
どう考えるか。
「ない」を「ある」と主張するとき、その「ある」に美しい名前をつける。「名辞」する。「分節」する。そうすることで、自分を美しい世界へ解き放つ。「名辞以前」を統治する力が自分(私/谷川)を生かしている/谷川は生かされているのだが、そこに自分自身の「名辞する」という動詞としての自分を動かす。見えない力に統治されるままでいるのではなくて、自分で自分を動かす。そのために「ことば」がある。
「ことば」は谷川にとって、自分を生み出していく「方法」なのである。
どんなふうに生み出すか。
繰り返しになってしまうが「タマシヒ」という美しいことばをつかって、谷川自身を美しく生み出す。「魂」や「たましい」「タマシイ」ではなく、「タマシヒ」という独特の表現をつかっているのは、そのことばのなかに谷川が生み出したことばであることを刻印するためかもしれない。
この「生み出し」を谷川は「解き放つ」と書く。
それは、そこまでの論理を追った限りでは、名辞以前から始まる世界を統治する力からの解き放ちであるはずなのだが、谷川は、そのことを一瞬どこかへ押しやって、
と書く。金銭で動いている現世から、金銭に支配されない美しい世界へ、ということだろう。
この最終行は、それまでの「論理」からいうと「嘘」なのだが、この嘘のつき方が谷川は巧みだ。哲学的なややこしいことを書いていたのではなく、現世の、平凡なことを書いているだけなんですよ、とシラを切ってしまう。
ここに何といえばいいのだろう、「露骨」な何かがあって、それが、それが魅力でもある。露骨なものだけがもちうる親近感(密着/接続感)がある。
そうだよね、金銭で動いている現世はいやだよ、そういう世界じゃなく美しいタマシヒの世界で遊んでみたいよなあ。読者(私)は納得してしまう。
ところで、この作品の右ページは真っ暗(真っ黒)。真っ暗と書いてしまうのは、その前のページ(裏のページ)が夜の猫の写真だからである。猫は葉っぱの影に目を隠している。その隠した目で、葉っぱの向こうの闇をみつめたら、こういう具合に真っ暗なのだろうか。
そして、その真っ暗は、谷川のタマシヒが脱出してきた世界なのかな? タマシヒを真っ暗から取り出して、白い紙の上にすくい上げたのかな?
この詩を書いたとき、谷川は、詩が印刷されている白いつるつるの美しいページを夢みていたのかな。それとも何も見えなくて、右ページのような、真っ暗ななかにいて、その暗闇のなかでことばを動かしていたのかな?
そんなことも考えた。
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「仮に」は「露骨」な詩である。「露骨」と書いてしまうのは、そこに動いている「論理」が強すぎるからである。論だだけが動いているようにも見える。意味をつくり、意味で読者を感動させようとしているようにも見える。「意味」が「露骨」なのかもしれないなあ。
私は知っている
タマシヒを語る資格はないということを
そんなもの誰にもないということを
でも騙(かた)らずにはいられない
名辞(めいじ)以前を統(す)べる見えない力が
自分を生かしていると信じるから
仮にそれをタマシヒと呼んで
私は自分を解き放とうとしている
金銭がもたらす現世の諸々から
「タマシヒ」の存在は信じないが、ものの名前以前(名づけること/分節以前)の世界を統一する力があって、その力が自分を生かしている。その力は「名辞以前のもの」なので「名前」はない。仮に谷川は「タマシヒ」と呼ぶ。それが谷川を「現世」から解き放つ。
そういうことが書かれているのだが。
私は、その「意味」を少しひねくれた角度から見てゆきたい。
この「論理」のなかで私がおもしろいと感じるのは、「騙る」ということば。
「かたる」は「語る」であり、「騙る」でもある。「語る」と書いたとき、そこにはほんとうも嘘もある。「騙る」は嘘しかない。「騙る」は「だます」でもある。「だます」は「騙す」と書く。
でも、だれを。
「他人」を「騙す」と同時に「自分」を「騙す」。タマシイはない、と「私(谷川と仮に仮定しておく)」は知っている。だからその知っている「私」をまず「騙す」。タマシヒはあると、言い聞かせる。それから「理由」を探す。タマシヒがあるという根拠を探す。
しかし、ないものは探したって、ない。だから、違うことをする。「論理」でつくりだしてしまう。「ない」のだから、「ある」にするにはつくりだすしかない。その「ある」を生み出すのが「論理」である。ほんとうは、そのとき何かをつくりだされたのではなく、何かをことばのなかにつくりあげたようにみせかける「論理」があるだけなのだが……。
谷川はこの「論理」なのかで、ふたつの「虚(存在しないもの)」を衝突させている。ひとつは「名辞以前」。「名前」とは「未分節」の世界(混沌)から「もの」を「分節」したもの。名前がなければ、そこには分節はない。「未分節」。この「未分節」は、「ある」とはいわずに「ない」として処理するのが論理の経済学である。
もう一つの「ない(虚)」は「見ない力」。見えないのだから「ない」。「ない」と意味を「分節」してしまうとなにかがあるように見えるが、そこには「論理」があるだけで、何も「ない」。
しかし、ことばは不思議なもので、そこに「ない」ものを「ない」ということばをつかって「思考」のなかに存在させてしまうこともできる。「思考」は「論理」になって共有され「ある」が確固としたものになる。
「ない」が「ある」。「ない」を定着させる「論理がある」。
そして、この「虚」と「虚」の衝突は、一転して「実」に転換する。ことばの経済学ではなく、ことばの化学反応、あるいはことばの「理論物理学」のようなものか。
「ない」と「ない」が「論理(ことば)」のなかで、「ある」もののようにしてぶつかりあって、そのときに生じる力が「自分(私)」を生み出す。「肉体」を生み出すのではなく、別なことば(思考)を生み出す。「ない」が「ある」と考える力が、「自分」というものになる。「自分(思考)」になって生まれる。これは先に書いたように、単にそういう「論理」が生み出されているだけなのだが……。
こういうことは「正確」に書こうとすると、ごちゃごちゃしてしまうので、書き飛ばしてしまうしかない。書き飛ばしながら、次の機会に、そのことばがととのえられるのを待つしかない。
谷川はタマシヒを信じない。けれど、「ない」ものをも語る(騙る)ことができる。ことばは「ない」ものをも「ある」という形で表現できる。そういうことをしてしまうことばが「ある」。そして、それが「自分を生かしている」と信じる。
「ない」ものを「ある」というだけでは矛盾してしまうので、その「ないもの」を仮に「タマシヒ」と呼ぶ。「ある」と騙してことばを動かすと、そこに「論理」が生まれてくる。人は「論理」を信じてしまう。
馬鹿だから--とは谷川は書いていないが。馬鹿だから、という感想は私の勝手な脱線なのだが、人間はついつい「論理」にもたれかかってしまう。論理なんてでっちあげだから、そんなものは「ない」、私はそれを信じない、と言えばいいのに、人間はなかなかそういうことができない。--馬鹿だから。
脱線した。
谷川は、私とは違った具合に考える。違った人間なのだから、違った具合に考えるのが当然なのだが。
どう考えるか。
「ない」を「ある」と主張するとき、その「ある」に美しい名前をつける。「名辞」する。「分節」する。そうすることで、自分を美しい世界へ解き放つ。「名辞以前」を統治する力が自分(私/谷川)を生かしている/谷川は生かされているのだが、そこに自分自身の「名辞する」という動詞としての自分を動かす。見えない力に統治されるままでいるのではなくて、自分で自分を動かす。そのために「ことば」がある。
「ことば」は谷川にとって、自分を生み出していく「方法」なのである。
どんなふうに生み出すか。
繰り返しになってしまうが「タマシヒ」という美しいことばをつかって、谷川自身を美しく生み出す。「魂」や「たましい」「タマシイ」ではなく、「タマシヒ」という独特の表現をつかっているのは、そのことばのなかに谷川が生み出したことばであることを刻印するためかもしれない。
この「生み出し」を谷川は「解き放つ」と書く。
それは、そこまでの論理を追った限りでは、名辞以前から始まる世界を統治する力からの解き放ちであるはずなのだが、谷川は、そのことを一瞬どこかへ押しやって、
金銭がもたらす現世の諸々から
と書く。金銭で動いている現世から、金銭に支配されない美しい世界へ、ということだろう。
この最終行は、それまでの「論理」からいうと「嘘」なのだが、この嘘のつき方が谷川は巧みだ。哲学的なややこしいことを書いていたのではなく、現世の、平凡なことを書いているだけなんですよ、とシラを切ってしまう。
ここに何といえばいいのだろう、「露骨」な何かがあって、それが、それが魅力でもある。露骨なものだけがもちうる親近感(密着/接続感)がある。
そうだよね、金銭で動いている現世はいやだよ、そういう世界じゃなく美しいタマシヒの世界で遊んでみたいよなあ。読者(私)は納得してしまう。
ところで、この作品の右ページは真っ暗(真っ黒)。真っ暗と書いてしまうのは、その前のページ(裏のページ)が夜の猫の写真だからである。猫は葉っぱの影に目を隠している。その隠した目で、葉っぱの向こうの闇をみつめたら、こういう具合に真っ暗なのだろうか。
そして、その真っ暗は、谷川のタマシヒが脱出してきた世界なのかな? タマシヒを真っ暗から取り出して、白い紙の上にすくい上げたのかな?
この詩を書いたとき、谷川は、詩が印刷されている白いつるつるの美しいページを夢みていたのかな。それとも何も見えなくて、右ページのような、真っ暗ななかにいて、その暗闇のなかでことばを動かしていたのかな?
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