谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(26)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「オロルリァ滞在記」は架空の旅行記(紀行文)だろうか。「オロルリァを地図で探したことはない。ニューヨークから飛行機を乗り継いで十六時間かかった。」とはじまる。書いた詩人が地図で探さないのだから、読む私も探さない。「オロルリァ」は聞いたことがないので「架空」と勝手に思う。「架空」なので、自分の知っている「こと」を重ねて読んでいく。
そうすると、そこは私のふるさとである。つまり「肉体」が最初に触れた「場所」。そこに書かれているものが草、地面、空、犬、猫のようなものくらいで、ビルとか鉄道とか劇場などが出て来ない「自然」の風景だから、そう思うのかもしれない。もし、車が走り回り、道路が舗装され、人がたくさんいたら「ふるさと」を思わなかっただろう。
その「ふるさと」で、私は何を感じたのだろう。谷川が書いていることが「ふるさと」の私だと思うのはなぜだろう。
ここに書いてあることを、そのことば通りに思ったわけではない。しかし、「突然、自分は存在しているのだと思った。」「ただ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。」という感じが、私の感じていることに似ている。ふるさとで、私はこういうことを感じて、それをいまも引きずっているのか、ということを思った。
この本の詩には「タマシヒ」ということばがたくさん出てくる。私は魂を信じていない(実感したことがない)ので、そのことばの前では違和感があるのだが、この詩にはタマシヒもココロも出て来ないので、とても親近感がある。この本のなかでは、この詩が、私の感覚にいちばんぴったりする。「自分は存在する」「自分は居る」。嬉しくも寂しくもない。感情が動かない。動く必要がない。生きているということも意識するわけではない。精神(知性?)も動かない。そのとき「肉体」だけがある。何も感じず、何も考えない。ただ「肉体」がある。その「肉体」の感じを「タマシヒ」と呼ぶなら、それは「タマシヒ」でいいと思う。「肉体」だけがあると言っても、そのとき私は「肉体」も感じてない。
そこに目をやれば、たとえば木がある。その木の形が私。そこに目をやれば田んぼがある。稲が生え、水がたまっている。それが何であるか、ことばにしようとすると、そのとき私は稲になったり水になったりする。いわゆる「自我」というものがない。「自我」がないから、何にでもなってしまう。この感じが、私の「居る」ということ。「存在している」ということ。「ない」が「ある」にかわる一瞬。
これは、世界とつながっている、という感じとも違う。気がついた瞬間に、世界のなかの何かになっている、という感じ。何も存在しない。確固としたものは何もない。存在しない。ただ、その瞬間瞬間に、何かになっている。
そこへたとえば友達がやってくる。そのとき、私は、その友達になって、私に近づいていく。--そういう「矛盾」も起きる。私が木の下で友達を待っているのに、私は友達になって、木の下の私に向かって走っていく。それは、友達が木の下で待っているとき、そこへ向かって走っていった私の「体験」がまじりこんだ錯覚なのかもしれないが、私は、どうもそういう錯覚をしてしまう癖がある。
だから、というのは、とんでもない飛躍なのかもしれないが。
だから、私は、詩を読みながら、「これは谷川の書いた詩」ということを忘れてしまって、私の体験がここに書かれている、「これは私の詩」と思ってしまう。
何にもしないで、ただ、そこにいる。私は音痴なので歌を歌わない、口笛も吹かないが、ただそこにいる。私の大好きな場所は、家の近くの神社の大きなケヤキの木。小さな石段をのぼって行くとき見えるのが、木の表。反対側が、木の裏。かさぶたのような木の肌に触れながら、掌でなでながら、その木のまわりをまわる。木の表、木の裏と書いたのは……たぶん、まわりをまわりながら嬉しかったり寂しかったりというこころの動きを思い出すからかもしれないなあ。
そこで私は大きなケヤキになったり、私にもどったり、ぼんやりしている。土になったり、木の根元に積み上げられた石の「墓」のようなものになったりもする。
そういうことが「事実」。
それが「タマシヒ」だよ、と言われれば、それは信じてもいいなあ。そこにある「存在」は、私の「肉体」も含めて、全部、見ることができる。聞くことができる。触ることができる。舐めたことはないが、木の肌を舐めることもできる。味わうことができる。匂いを嗅ぐこともできる。世界の「事実」が「タマシヒ」。
あ、脱線してしまったなあ。
こんなことを谷川は書いているわけではないのだが。
だいたい谷川が書いているのは「オロルリァ」であって、私のふるさとや、私の大好きなケヤキの木ではないのだが。
でも、こんなふうに脱線して、間違ったことを考えている時、私はなんだかうれしい。幸福な気分だなあ。
詩にもどろう。
この部分で、私は、私ではなく「谷川」を強く感じた。さっきまで、これは私の体験を書いていると思っていたのに、ここでは、あっ、谷川がいる、と思った。
「微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。」までは「私」。でも、私はそのあと「オレは世界に愛撫されている」とは思わない。あくまで私が「微風」になって「私を愛撫する」。「されている」という「受け身」が思いつかない。
そうか、この「祝福されている」という「受け身」の感じが、詩人の証拠なのか、とも思った。
私は、ふいに、池井昌樹のことを思い出した。池井の詩の特徴である「放心」は、同時に、池井を見つめる「誰か」を描いている。誰かに見つめられて(受け身)で池井がいる。その誰かが与えてくれるもののなかに、どっぷりと浸って、「自我」を失くしてしまう。そのとき世界全体が「いま」「ここ」から離れて「永遠」になる。
「タマシヒ(魂)」が「からだ」の奥にあるものだとすれば、「世界」が「からだ」であり、谷川や池井は、その「からだ」の奥にある「タマシヒ(魂)」ということなのかもしれない。「世界/宇宙」を「肉体」と感じ、その「肉体」のなかで「タマシヒ」として動く詩人。いつも「世界/宇宙」という遠心と「タマシヒ(魂)」という求心を往復する。そのときの運動が、二人の詩なのかもしれない。
「魂(タマシヒ)」ということばがなぜ必要なのか、私はいままで分からなかったが、そうか、と思った。まだ「そうか」だけであって、それをどうことばにしていっていいかわからないが、ことばにしなくてもいいのかもしれない。ことばにするというのは、どこかで「意味」を作り出すこと、嘘にしてしまうことだから、「そうか、そうなのか」とだけ思っておく。
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「オロルリァ滞在記」は架空の旅行記(紀行文)だろうか。「オロルリァを地図で探したことはない。ニューヨークから飛行機を乗り継いで十六時間かかった。」とはじまる。書いた詩人が地図で探さないのだから、読む私も探さない。「オロルリァ」は聞いたことがないので「架空」と勝手に思う。「架空」なので、自分の知っている「こと」を重ねて読んでいく。
そうすると、そこは私のふるさとである。つまり「肉体」が最初に触れた「場所」。そこに書かれているものが草、地面、空、犬、猫のようなものくらいで、ビルとか鉄道とか劇場などが出て来ない「自然」の風景だから、そう思うのかもしれない。もし、車が走り回り、道路が舗装され、人がたくさんいたら「ふるさと」を思わなかっただろう。
その「ふるさと」で、私は何を感じたのだろう。谷川が書いていることが「ふるさと」の私だと思うのはなぜだろう。
何もせずにいるのもなかなか難しい。寝転がったまま、
手足を上へ上げて空中でぶらぶらさせてみた。一種の柔
軟体操だが体に良いとも思えない。最近覚えた口笛も吹
いてみたが、音楽とはほど遠い音しか出ない。突然、自
分は存在しているのだと思った。知らない間に「オレは
居る」と呟いていた。それが嬉しい訳ではない、寂しく
もない、別に生きていることを意識した訳でもない。た
だ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。
ここに書いてあることを、そのことば通りに思ったわけではない。しかし、「突然、自分は存在しているのだと思った。」「ただ自分が居るのが疑えない事実だとでも言えばいいのか。」という感じが、私の感じていることに似ている。ふるさとで、私はこういうことを感じて、それをいまも引きずっているのか、ということを思った。
この本の詩には「タマシヒ」ということばがたくさん出てくる。私は魂を信じていない(実感したことがない)ので、そのことばの前では違和感があるのだが、この詩にはタマシヒもココロも出て来ないので、とても親近感がある。この本のなかでは、この詩が、私の感覚にいちばんぴったりする。「自分は存在する」「自分は居る」。嬉しくも寂しくもない。感情が動かない。動く必要がない。生きているということも意識するわけではない。精神(知性?)も動かない。そのとき「肉体」だけがある。何も感じず、何も考えない。ただ「肉体」がある。その「肉体」の感じを「タマシヒ」と呼ぶなら、それは「タマシヒ」でいいと思う。「肉体」だけがあると言っても、そのとき私は「肉体」も感じてない。
そこに目をやれば、たとえば木がある。その木の形が私。そこに目をやれば田んぼがある。稲が生え、水がたまっている。それが何であるか、ことばにしようとすると、そのとき私は稲になったり水になったりする。いわゆる「自我」というものがない。「自我」がないから、何にでもなってしまう。この感じが、私の「居る」ということ。「存在している」ということ。「ない」が「ある」にかわる一瞬。
これは、世界とつながっている、という感じとも違う。気がついた瞬間に、世界のなかの何かになっている、という感じ。何も存在しない。確固としたものは何もない。存在しない。ただ、その瞬間瞬間に、何かになっている。
そこへたとえば友達がやってくる。そのとき、私は、その友達になって、私に近づいていく。--そういう「矛盾」も起きる。私が木の下で友達を待っているのに、私は友達になって、木の下の私に向かって走っていく。それは、友達が木の下で待っているとき、そこへ向かって走っていった私の「体験」がまじりこんだ錯覚なのかもしれないが、私は、どうもそういう錯覚をしてしまう癖がある。
だから、というのは、とんでもない飛躍なのかもしれないが。
だから、私は、詩を読みながら、「これは谷川の書いた詩」ということを忘れてしまって、私の体験がここに書かれている、「これは私の詩」と思ってしまう。
何にもしないで、ただ、そこにいる。私は音痴なので歌を歌わない、口笛も吹かないが、ただそこにいる。私の大好きな場所は、家の近くの神社の大きなケヤキの木。小さな石段をのぼって行くとき見えるのが、木の表。反対側が、木の裏。かさぶたのような木の肌に触れながら、掌でなでながら、その木のまわりをまわる。木の表、木の裏と書いたのは……たぶん、まわりをまわりながら嬉しかったり寂しかったりというこころの動きを思い出すからかもしれないなあ。
そこで私は大きなケヤキになったり、私にもどったり、ぼんやりしている。土になったり、木の根元に積み上げられた石の「墓」のようなものになったりもする。
そういうことが「事実」。
それが「タマシヒ」だよ、と言われれば、それは信じてもいいなあ。そこにある「存在」は、私の「肉体」も含めて、全部、見ることができる。聞くことができる。触ることができる。舐めたことはないが、木の肌を舐めることもできる。味わうことができる。匂いを嗅ぐこともできる。世界の「事実」が「タマシヒ」。
あ、脱線してしまったなあ。
こんなことを谷川は書いているわけではないのだが。
だいたい谷川が書いているのは「オロルリァ」であって、私のふるさとや、私の大好きなケヤキの木ではないのだが。
でも、こんなふうに脱線して、間違ったことを考えている時、私はなんだかうれしい。幸福な気分だなあ。
詩にもどろう。
寝転がっているのがなんだか後ろめたいような気がし
てきた。身に付いた貧乏性か、居るだけで誰に迷惑をか
けているのでもないのに、我知らず立ち上がってしまっ
た。重力を感じた。微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。
居るだけで何もしていないのに、オレは世界に愛撫され
ていると思った。我ながらいい気なもんだとも思ったが
愉快だった。
この部分で、私は、私ではなく「谷川」を強く感じた。さっきまで、これは私の体験を書いていると思っていたのに、ここでは、あっ、谷川がいる、と思った。
「微風が裸の腕の産毛を撫でてゆく。」までは「私」。でも、私はそのあと「オレは世界に愛撫されている」とは思わない。あくまで私が「微風」になって「私を愛撫する」。「されている」という「受け身」が思いつかない。
そうか、この「祝福されている」という「受け身」の感じが、詩人の証拠なのか、とも思った。
私は、ふいに、池井昌樹のことを思い出した。池井の詩の特徴である「放心」は、同時に、池井を見つめる「誰か」を描いている。誰かに見つめられて(受け身)で池井がいる。その誰かが与えてくれるもののなかに、どっぷりと浸って、「自我」を失くしてしまう。そのとき世界全体が「いま」「ここ」から離れて「永遠」になる。
「タマシヒ(魂)」が「からだ」の奥にあるものだとすれば、「世界」が「からだ」であり、谷川や池井は、その「からだ」の奥にある「タマシヒ(魂)」ということなのかもしれない。「世界/宇宙」を「肉体」と感じ、その「肉体」のなかで「タマシヒ」として動く詩人。いつも「世界/宇宙」という遠心と「タマシヒ(魂)」という求心を往復する。そのときの運動が、二人の詩なのかもしれない。
「魂(タマシヒ)」ということばがなぜ必要なのか、私はいままで分からなかったが、そうか、と思った。まだ「そうか」だけであって、それをどうことばにしていっていいかわからないが、ことばにしなくてもいいのかもしれない。ことばにするというのは、どこかで「意味」を作り出すこと、嘘にしてしまうことだから、「そうか、そうなのか」とだけ思っておく。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
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