谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(18)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「吃音(きつおん)以前」は一瞬のドラマを見るよう。
どうして「あ そう」と言って、その後沈黙してしまったのか。「あ そう」と言わせたことば、状況はどういうことなのか、わからない。だから、わかる。その後の「沈黙」のどうしようもなさが。
このとき、私は谷川が「見える」。しばらく黙っていて、「ごめんね」というまでの谷川が「見える」。でも、それは谷川のことが「わかる」というのではない。谷川のことが「わかる」のではなく、私の「経験」がわかる。「経験」が私の「肉体」のなかでめざめる。動く。
こういうことは詩にかぎらず、あらゆる芸術に触れるときに起きることだと思う。
人は自分の「肉体」がおぼえていることしか理解できないのだと思う。自分がおぼえていること、おぼえているけれど自分ではことばにしたことがない--そういうことを他人のことばで読んだとき、「あ、わかる」と思う。これが私の言いたかったこと、と思ったりする。
この詩の不思議さは、終わりから二行目の「仕方なく」。うーん、正直だなあ、と思う。そこまで正直に言わなくてもいいのでは、と思い、またそこに正直があるからこそ、「わかる」という気持ちが強くなっているのも感じる。
「仕方なく」と、そのあとにつづく「心の上澄みから拾って」がなかったら、「わかる」という感じは少し違ってくるかもしれない。
言いたいわけではない。けれど言わなければ、この状態がつづいてしまう。それは、いやだなあ。この逡巡が「仕方なく」にこもっている。
ここが、この詩のいちばん美しいところだ。
この突然の「沈黙(無言)」を「吃音以前」と呼んでいることもおもしろい。吃音とは言いたいという欲望が強すぎて、それを制御できないために起きることだろうか。ことば(音)は肉体から出て行く。けれど、その音を押し出そうとする力が強すぎると、その力を抑えようとして肉体(発声器官)が乱れる。発声器官を動かす順序が違ってしまい、スムーズな音にならない、ということだろうか。
そうすると、吃音を経験したことのない人間は、「言いたい」という欲望がほんとうはそれほど強くないということか。吃音をおこすひとより、ことばを音にしたいという欲望が弱いということか。
「沈黙(無言)」は言いたいという気持ちがぱたっと途絶えてしまうことかもしれない。言いたいことはあった。けれど、言うという欲望を諦めたときに「沈黙(無言)」が始まるのかもしれない。
「仕方なく」ということはば、その「諦め」をも拾いあげているように思える。
この「吃音以前」の前のページ(右ページ)は空白。真白。そして、詩の裏側は暗い星空。星が動いていて、星ではなく暗い空から降る雪や雨のようにも見えないこともない。でも、やっぱり星だろう。
仕方なく「ごめんね」と言うとき、タマシヒは、この暗い星空を見ているのだろうか。その隣(左ページ)には塀の上の白い猫。目が(顔が)葉っぱに隠れていて、見えない。「ごめんね」と言ったまま、「仕方なく」というこころを隠しているときのひとの姿(谷川の姿)のようにも見える。猫は見上げていないけれど、その背後にはブラックホールと星がある。
--と、「意味」にしてはいけないのかもしれないが……。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「吃音(きつおん)以前」は一瞬のドラマを見るよう。
「あ そう」と言って私は黙った
その沈黙が自分でも分からない
ツイッターにもブログにも
言葉は吹きこぼれているのに
午後の凪(なぎ)のような私の無言
あなたは待っていた
吃音以前の私をみつめて
だが言葉はもうブラックホールに落ちていた
仕方なく心の上澄みから拾って
「ごめんね」と私は言った
どうして「あ そう」と言って、その後沈黙してしまったのか。「あ そう」と言わせたことば、状況はどういうことなのか、わからない。だから、わかる。その後の「沈黙」のどうしようもなさが。
このとき、私は谷川が「見える」。しばらく黙っていて、「ごめんね」というまでの谷川が「見える」。でも、それは谷川のことが「わかる」というのではない。谷川のことが「わかる」のではなく、私の「経験」がわかる。「経験」が私の「肉体」のなかでめざめる。動く。
こういうことは詩にかぎらず、あらゆる芸術に触れるときに起きることだと思う。
人は自分の「肉体」がおぼえていることしか理解できないのだと思う。自分がおぼえていること、おぼえているけれど自分ではことばにしたことがない--そういうことを他人のことばで読んだとき、「あ、わかる」と思う。これが私の言いたかったこと、と思ったりする。
この詩の不思議さは、終わりから二行目の「仕方なく」。うーん、正直だなあ、と思う。そこまで正直に言わなくてもいいのでは、と思い、またそこに正直があるからこそ、「わかる」という気持ちが強くなっているのも感じる。
「仕方なく」と、そのあとにつづく「心の上澄みから拾って」がなかったら、「わかる」という感じは少し違ってくるかもしれない。
言いたいわけではない。けれど言わなければ、この状態がつづいてしまう。それは、いやだなあ。この逡巡が「仕方なく」にこもっている。
ここが、この詩のいちばん美しいところだ。
この突然の「沈黙(無言)」を「吃音以前」と呼んでいることもおもしろい。吃音とは言いたいという欲望が強すぎて、それを制御できないために起きることだろうか。ことば(音)は肉体から出て行く。けれど、その音を押し出そうとする力が強すぎると、その力を抑えようとして肉体(発声器官)が乱れる。発声器官を動かす順序が違ってしまい、スムーズな音にならない、ということだろうか。
そうすると、吃音を経験したことのない人間は、「言いたい」という欲望がほんとうはそれほど強くないということか。吃音をおこすひとより、ことばを音にしたいという欲望が弱いということか。
「沈黙(無言)」は言いたいという気持ちがぱたっと途絶えてしまうことかもしれない。言いたいことはあった。けれど、言うという欲望を諦めたときに「沈黙(無言)」が始まるのかもしれない。
「仕方なく」ということはば、その「諦め」をも拾いあげているように思える。
この「吃音以前」の前のページ(右ページ)は空白。真白。そして、詩の裏側は暗い星空。星が動いていて、星ではなく暗い空から降る雪や雨のようにも見えないこともない。でも、やっぱり星だろう。
仕方なく「ごめんね」と言うとき、タマシヒは、この暗い星空を見ているのだろうか。その隣(左ページ)には塀の上の白い猫。目が(顔が)葉っぱに隠れていて、見えない。「ごめんね」と言ったまま、「仕方なく」というこころを隠しているときのひとの姿(谷川の姿)のようにも見える。猫は見上げていないけれど、その背後にはブラックホールと星がある。
--と、「意味」にしてはいけないのかもしれないが……。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。