監督 アンドリュー・ヘイ 出演 シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ
イギリスの映画だなあ、と思う。ことばとプライバシーの関係が、イギリスそのもの。他の国の映画では、こんな感じのことばとプライバシーは存在しないなあ、と思う。イギリスでは「事実」はことばになって、初めて「事実」として認められる。ことばになる前は、「事実」は存在しない。
映画のはじまりは夫にスイスから手紙が届く。手紙には昔の恋人の遺体が氷河から見つかった、ということ。夫が昔恋人とアルプスへ行った。そこで恋人が遭難した。遺体は深い亀裂の底にのみ込まれ、見つからなかった。それは「事実」。けれど、その「事実」は妻との会話のなかで語られてこなかった。つまり、それは夫のプライバシーであり、夫婦にとって、特に妻にとっては「事実」ではなかった。
恋人がどんな女性か、恋人とどんな関係にあったのかは、すべて夫のプライバシー。そして、それは語られないことによって、一度も「事実」にならなかった。それが、遺体が見つかって、「近親者」ということばで突然、妻の前にあらわれてくる。
「近親者」(字幕では、確か、そうなっていたと思う)というのは、変なことばだ。「恋人」とは違う。夫は「昔は、昔は若い男女が同じホテルに泊まるのは難しかった。夫婦を装った」という具合に説明している。「恋人」が「事実」なのではなく、「近親者=疑似夫婦」が「事実」なのである。男女が親しい、ということが「事実」なのではなく、「夫婦」ということばで二人の関係を呼ぶ(言語化する)というのが「事実」なのである。「ことば」こそが「事実」なのである。
少しずつ、妻は夫から「ことば=事実」を知らされる。プライバシーだったものが、明るみに出され、「事実」になる。しかし、「ことば」にされないこともある。プライバシーのまま、隠されつづける「事実」がある。
夫は妻に隠れて、屋根裏部屋で恋人の写真を見ていた。映写機でスクリーンに映して、恋人を見ていた。スクリーンで見る、というのは写真を直に見るのとかなり状況が違う。まわりが暗い。その映像に集中できる、ということだけではない。スクリーンの映像は小さな写真とは違う。ネガはそれよりさらに小さいのだが、スクリーンではそれが拡大される。もしかすると、それは等身大である。夫は写真を見ていたのではない。恋人そのものを見ていたのだ。けれど、夫はその「事実」、いつも「実物大の恋人を見ていた」ということは語らない。だから、それは「事実」ではない。
妻は、その「事実」を知るのだけれど、「ことば」として語られたものではないから、その「事実」を追及できない。そのことをテーマにして夫と語り合うことができない。ここに、何とも言えない「深い亀裂」のようなものが入る。
で、この「ことば」と「事実」、「ことばされないこと」と「プライバシー」の問題は、最後の結婚45年パーティーで、さらに妻を傷つける。
夫がスピーチする。45年間を「ことば」にする。「人生の最高の選択は、きみを(妻を)選んだことだ。いろいろあった。けれど、しあわせだった。愛している。アイ・ラブ・ユー」というようなことを感動的に語る。聞いている友人たちも感動するが、夫自身が、自己陶酔して(?)泣いてしまうくらいである。
妻は、しかし、感動できない。友人たちの手前、うれしそうな顔をしてみせるが、夫が語ったのは、単なることばであって、「事実」ではないと知っているからである。他の人たちは夫の「ことば」を「事実」として受けとめ、感動している。けれど妻は、その「ことば」が「事実」の全部ではないということを知っている。知っているけれど、それを「ことば」にして、誰かに訴えるわけではない。
「ことば」にされていない夫のプライバシーがある。そして、そのとき、妻にも「ことば」にしていないプライバシーがある。夫のプライバシーは、あまく、せつない。「いま」、何か哀しいこと、苦しいことがあれば、その「秘密」は彼を受けとめてくる。しかし、妻のプライバシーは、逆なのだ。「いま」に噴出してきて、「いま」をかき回す。かき乱す。哀しく、いらいらさせる。
ラストシーン。結婚式の思い出の「煙が目にしみる」(プラターズ)にあわせて、二人で踊る。まわりに友人たちのダンスの輪も広がる。曲が終わる。夫は、妻の手をとって高々と掲げる。その手を、妻はふりほどく。そして、呆然と突っ立っている。夫のように無邪気になれないし、夫の無邪気さに腹が立つのである。
うーん。
こういう「ことばと事実/ことばとプライバシー(秘密)」の関係を生きるひとはつらいだろうなあ。夫の「プライバシー」を知ったあと、妻が「いいたいことはいっぱいある。けれど、言わない」というシーンがある。そこでは、夫が「旅行代理店」でスイス旅行のことを何度が尋ねていることが語られるが、それを語ることができるのは旅行代理店の係員がスイス旅行のことを「ことば」で語っているからである。誰のことばであれ、それは「語られた事実」だから、妻はそれを話題として持ち出すことができる。しかし、恋人の写真は「語られていない」。だから「事実」として取り上げることはできない。
「写真」のことは、また、別の形で妻を苦しめる。家には写真がない。けれど、友達がスナップ写真を撮っていて、そのなかには昔飼っていた犬や、いま飼っている犬の子犬時代の姿もある。写真も、公表(?)されれば「事実」である。それについて語ることができる。けれど、隠されている写真は、その存在を知っていても「事実」ではない。「事実」であると知っているのに、「事実」ということができない。
「ことば」も「写真」も、そのひとの「所有物」であり、「所有物」であるということは、その「所有権/プライバシー」を侵害してはならないということでもあるのだ。この厳密すぎる「個人主義」を私は「イギリス厳格個人主義」と呼ぶことで、「アメリカイージー個人主義」や、「フランスわがまま個人主義」と区別しているのだが。
いや、ほんと。イギリス人になるというのは、大変なんだ、と思う。
で、この大変なイギリス人を、「ことば」とは別なもの、表情(これは肉体のことばなのだけれど……)で膨らませてみせる、深めてみせる、というのが「映画」なのだけれど。シャーロット・ランプリングとトム・コートネイは、おもしろいねえ。シャーロット・ランプリングはひたすら「いま」を生きて苦しむ。トム・コートネイは「いま」から逃避し、「過去」にひたって、まるで少年のようにはしゃいでいる。そのはしゃぎが、「いま」のなかにときどき噴出してくる。(最後のスピーチとダンスで炸裂している。)この対比が、非常にいきいきしている。
劇場の扉の前で列をつくって待っていると、映画を見終わった観客(夫婦、そしてその仲間たち)が「男って、あんなもんよね」(女)「思い当たることがあって、見ながらどきどきした」(男)とうような会話をしながら出てくる。そういう「会話」を思わず引き出すくらいに、二人の演技がなまなましい。観客の会話は、そのリアルな演技の「証拠/証明」でもある。(こういう反応に出合えるから、映画は映画館で見るに限るのだ。)
イギリス特有の弱い光、弱々しいみどりの色も、静かで、二人の演技ととてもあっていた。
(KBCシネマ1、2016年05月01日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
イギリスの映画だなあ、と思う。ことばとプライバシーの関係が、イギリスそのもの。他の国の映画では、こんな感じのことばとプライバシーは存在しないなあ、と思う。イギリスでは「事実」はことばになって、初めて「事実」として認められる。ことばになる前は、「事実」は存在しない。
映画のはじまりは夫にスイスから手紙が届く。手紙には昔の恋人の遺体が氷河から見つかった、ということ。夫が昔恋人とアルプスへ行った。そこで恋人が遭難した。遺体は深い亀裂の底にのみ込まれ、見つからなかった。それは「事実」。けれど、その「事実」は妻との会話のなかで語られてこなかった。つまり、それは夫のプライバシーであり、夫婦にとって、特に妻にとっては「事実」ではなかった。
恋人がどんな女性か、恋人とどんな関係にあったのかは、すべて夫のプライバシー。そして、それは語られないことによって、一度も「事実」にならなかった。それが、遺体が見つかって、「近親者」ということばで突然、妻の前にあらわれてくる。
「近親者」(字幕では、確か、そうなっていたと思う)というのは、変なことばだ。「恋人」とは違う。夫は「昔は、昔は若い男女が同じホテルに泊まるのは難しかった。夫婦を装った」という具合に説明している。「恋人」が「事実」なのではなく、「近親者=疑似夫婦」が「事実」なのである。男女が親しい、ということが「事実」なのではなく、「夫婦」ということばで二人の関係を呼ぶ(言語化する)というのが「事実」なのである。「ことば」こそが「事実」なのである。
少しずつ、妻は夫から「ことば=事実」を知らされる。プライバシーだったものが、明るみに出され、「事実」になる。しかし、「ことば」にされないこともある。プライバシーのまま、隠されつづける「事実」がある。
夫は妻に隠れて、屋根裏部屋で恋人の写真を見ていた。映写機でスクリーンに映して、恋人を見ていた。スクリーンで見る、というのは写真を直に見るのとかなり状況が違う。まわりが暗い。その映像に集中できる、ということだけではない。スクリーンの映像は小さな写真とは違う。ネガはそれよりさらに小さいのだが、スクリーンではそれが拡大される。もしかすると、それは等身大である。夫は写真を見ていたのではない。恋人そのものを見ていたのだ。けれど、夫はその「事実」、いつも「実物大の恋人を見ていた」ということは語らない。だから、それは「事実」ではない。
妻は、その「事実」を知るのだけれど、「ことば」として語られたものではないから、その「事実」を追及できない。そのことをテーマにして夫と語り合うことができない。ここに、何とも言えない「深い亀裂」のようなものが入る。
で、この「ことば」と「事実」、「ことばされないこと」と「プライバシー」の問題は、最後の結婚45年パーティーで、さらに妻を傷つける。
夫がスピーチする。45年間を「ことば」にする。「人生の最高の選択は、きみを(妻を)選んだことだ。いろいろあった。けれど、しあわせだった。愛している。アイ・ラブ・ユー」というようなことを感動的に語る。聞いている友人たちも感動するが、夫自身が、自己陶酔して(?)泣いてしまうくらいである。
妻は、しかし、感動できない。友人たちの手前、うれしそうな顔をしてみせるが、夫が語ったのは、単なることばであって、「事実」ではないと知っているからである。他の人たちは夫の「ことば」を「事実」として受けとめ、感動している。けれど妻は、その「ことば」が「事実」の全部ではないということを知っている。知っているけれど、それを「ことば」にして、誰かに訴えるわけではない。
「ことば」にされていない夫のプライバシーがある。そして、そのとき、妻にも「ことば」にしていないプライバシーがある。夫のプライバシーは、あまく、せつない。「いま」、何か哀しいこと、苦しいことがあれば、その「秘密」は彼を受けとめてくる。しかし、妻のプライバシーは、逆なのだ。「いま」に噴出してきて、「いま」をかき回す。かき乱す。哀しく、いらいらさせる。
ラストシーン。結婚式の思い出の「煙が目にしみる」(プラターズ)にあわせて、二人で踊る。まわりに友人たちのダンスの輪も広がる。曲が終わる。夫は、妻の手をとって高々と掲げる。その手を、妻はふりほどく。そして、呆然と突っ立っている。夫のように無邪気になれないし、夫の無邪気さに腹が立つのである。
うーん。
こういう「ことばと事実/ことばとプライバシー(秘密)」の関係を生きるひとはつらいだろうなあ。夫の「プライバシー」を知ったあと、妻が「いいたいことはいっぱいある。けれど、言わない」というシーンがある。そこでは、夫が「旅行代理店」でスイス旅行のことを何度が尋ねていることが語られるが、それを語ることができるのは旅行代理店の係員がスイス旅行のことを「ことば」で語っているからである。誰のことばであれ、それは「語られた事実」だから、妻はそれを話題として持ち出すことができる。しかし、恋人の写真は「語られていない」。だから「事実」として取り上げることはできない。
「写真」のことは、また、別の形で妻を苦しめる。家には写真がない。けれど、友達がスナップ写真を撮っていて、そのなかには昔飼っていた犬や、いま飼っている犬の子犬時代の姿もある。写真も、公表(?)されれば「事実」である。それについて語ることができる。けれど、隠されている写真は、その存在を知っていても「事実」ではない。「事実」であると知っているのに、「事実」ということができない。
「ことば」も「写真」も、そのひとの「所有物」であり、「所有物」であるということは、その「所有権/プライバシー」を侵害してはならないということでもあるのだ。この厳密すぎる「個人主義」を私は「イギリス厳格個人主義」と呼ぶことで、「アメリカイージー個人主義」や、「フランスわがまま個人主義」と区別しているのだが。
いや、ほんと。イギリス人になるというのは、大変なんだ、と思う。
で、この大変なイギリス人を、「ことば」とは別なもの、表情(これは肉体のことばなのだけれど……)で膨らませてみせる、深めてみせる、というのが「映画」なのだけれど。シャーロット・ランプリングとトム・コートネイは、おもしろいねえ。シャーロット・ランプリングはひたすら「いま」を生きて苦しむ。トム・コートネイは「いま」から逃避し、「過去」にひたって、まるで少年のようにはしゃいでいる。そのはしゃぎが、「いま」のなかにときどき噴出してくる。(最後のスピーチとダンスで炸裂している。)この対比が、非常にいきいきしている。
劇場の扉の前で列をつくって待っていると、映画を見終わった観客(夫婦、そしてその仲間たち)が「男って、あんなもんよね」(女)「思い当たることがあって、見ながらどきどきした」(男)とうような会話をしながら出てくる。そういう「会話」を思わず引き出すくらいに、二人の演技がなまなましい。観客の会話は、そのリアルな演技の「証拠/証明」でもある。(こういう反応に出合えるから、映画は映画館で見るに限るのだ。)
イギリス特有の弱い光、弱々しいみどりの色も、静かで、二人の演技ととてもあっていた。
(KBCシネマ1、2016年05月01日)
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