詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇177)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-20 16:55:38 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Llorens 
T.Hierro 87x57x17 C.G

 

ひとつの作品だが、見る角度によって印象がまったく違う。
左の写真では、動きがリズミカルで、どこまでもその動きが展開していきそう。
果てしなくつづくモーツァルトの音楽のよう。
右の写真では、動きが止まっている。しかし、それは、それまでの動きのあとの休止、終了という感じ。余韻が残っている。
さらにおもしろいのは、影と作品の関係。
どちらの写真を見ても、下に伸びた細い円柱が、四角いメインの水平の影につながっている。まるで、影をぶら下げているように見える。
影もまた、作品の一部なのだとわかる。

Se trata de una única obra de arte. Sin embargo, da una impresión completamente diferente según el ángulo desde el que se mire.
En la foto de la izquierda, el movimiento es rítmico y parece esarrollarse eternamente, como la música interminable de Mozart.
En la foto de la derecha, el movimiento es estacionario. Sin embargo, parece ser una pausa o final después de los movimientos anteriores.   Hay una sensación persistente.
Lo que es aún más interesante es la relación entre las sombras y la obra.
En ambas fotos, las finas columnas que se extienden hacia abajo están conectadas con las sombras horizontales del cuadrado.
Parece como si las sombras estuvieran colgando.
Puedes ver que las sombras también forman parte de la obra de arte.

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大橋政人『反マトリョーシカ宣言』

2022-08-20 16:34:40 | 詩集

大橋政人『反マトリョーシカ宣言』(思潮社、2022年09月01日発行)

 大橋政人『反マトリョーシカ宣言』の巻頭の詩、「肉の付いた字」。

肉水
肉草

肉雨
肉花

肉雪
肉火

肉土
肉歩

肉体
肉歩

 「肉体」は、わかる。ほかのことばは知らない。「肉歩」が繰り返されている。自分の肉体で歩いて書いた詩、ということか。
 次は「花力」。


と言ったら
やっぱ
草力でしょ
花は
花力


と言ったら
やっぱ
雨力でしょ
雪は
雪力


と言ったら
やっぱ
雲力でしょ
空は
空力

 そうすると、「肉」は「肉力」か。
 まあ、ただ、そう思っただけ。
 そして、「反マトリョーシカ宣言」と大橋は言うのだけれど、この二つの詩を読むと、どうしたって私は「マトリョーシカ」を思い出してしまう。人形の中に、同じ人形が入っている。同じように、同じことばの構造の中に、同じことばの構造が入っている。
 こういう感想は、意地悪だろうか。
 しかし、人間は、たぶん、正直な人間は、何を書いても「マトリョーシカ」になってしまうのだと思う。
 だから「反」なんてふりかざさずに、ただ、そのままでいればいいと思う。
 詩集の中で、私がいちばん気に入ったのは「空も悪い」。

空が大きいから
私は小さい

空が広がっているので
私はすぼまっている

夜には
星が光るが
あんなにもいっぱい
星が必要だったのか

朝には
太陽が出てくるが
太陽の考えていることが
太陽の真意が
太陽の本音が
いくつになってもわからない

空が大きいから
私は小さい

私も悪いが
空も悪い

 いいなあ。「空が大きいから/私は小さい」と「空が広がっているので/私はすぼまっている」は「マトリョーシカ」の関係。その一連目の「空が大きいから/私は小さい」がもう一度登場して「マトリョーシカ」性が強調される。これは、「マトリョーシカ」を開いていったところ? それとも閉じ込めていったところ? それは、区別したってはじまらない。同じこと。
 で。
 転調する。

私も悪いが
空も悪い

 これが

空も悪いが
私も悪い

 だったら、全然、おもしろくない。「空/私」という、もうひとつの「マトリョーシカ」がつづくだけ。開いていくのなら開くだけ、閉じ込めていくのなら閉じ込めるだけ。でも、逆転する。「マトリョーシカ」は、それだけでは「マトリョーシカ」ではない。それを、開くか、閉じるかする人間(私)がいるから「マトリョーシカ」なのだ。
 つまり、「主役/主語」はあくまで「私」。
 最初の詩にもどれば「肉体」は「歩く」。でも「歩く」「肉体」にとって、「主語/主役」は「肉体」というよりも、やはり「私」なのだ。
 「花力」も、やはり「私」が生きている。「私」ということばは書かれていないが、繰り返される「と言ったら」という一行に私は注目する。「私」が言うのである。「私」が「言ったら」その「言った」ことばに中から「マトリョーシカ」があらわれる。「花」と言えば、「花力」という「マトリョーシカ」が。それは「花」より小さい? つまり「花の内部」にある? それとも「花」を突き破り、「花」を包み込む「大きさ」をもっている? つまり「花」より「花力」は大きい?
 さて。
 「空」と「私」は?

空が大きいから
私は小さい

 ほんとうかな? 
 「私」ではなく「私力」だった、どう?
 そう考えると、

私も悪いが
空も悪い

 がおもしろくならない? 「悪い」って、とても楽しいことに思える。「悪い」ことを、してみたくならない?
 「マトリョーシカ」ならば、中を、全部出してしまう。あるいは、中に、全部閉じ込めてしまう。
 で、「悪い」のは、どっち?と考えてみる。
 この「考えてみる」がいちばん「悪い」ことだね。だから、楽しい。ほら、子どもって、「してはいけません」と言われると、絶対に、それをしたくなるでしょ?
 「反マトリョーシカ宣言」と言われると、私なんかは、賛成、というかわりに、反対と叫んで、大橋のことばを「逆撫で」してみたくなるのである。
 そういう詩集。

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日銀の目標?(読売新聞の記事の書き方/読み方)

2022-08-20 08:58:04 | 考える日記

 2022年08月20日の読売新聞(西部版・14版)一面に、「物価上昇」の記事。↓↓↓
 総務省が19日発表した7月の全国消費者物価指数(2020年=100)は、値動きの大きい生鮮食品を除く総合が102・2だった。前年同月と比べ2・4%上昇した。上昇は11か月連続で、日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた。資源価格の上昇や円安で、エネルギーや食品を始め幅広い品目に影響が広がっている。
↑↑↑
 この記事に、「虚偽」はあるか。一見、ないように見える。
 だが、「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」という書き方は、これでいいのか。たしかに日銀は物価上昇率を2%と設定していた。いつ設定したか、誰も思いだせないくらい前にである。そして、それは延々と実現されなかった。いまになって、突然、実現されている。その理由が、日銀の政策が成功したのなら、こういう書き方でいいだろうが、実際は、違う。
 読売新聞は、あいまいにごまかしている。「資源価格の上昇や円安で、エネルギーや食品を始め幅広い品目に影響が広がっている。」しかし、これが物価上昇の原因だ。ロシアのウクライナ侵攻で石油や天然ガスが高騰した。小麦などの原料も高騰した。そのあおりで、電気代、ガス代、食品が値上がりした。日銀がリードして、石油、天然ガス、食品を値上げに導いているのなら、読売新聞の書き方で問題がないだろうが、それは「事実」とは反する。
 「経過」あるいは「原因」を追及せず、「結果」だけを書いている。おそらく総務省のレクチャーに「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」という表現があったのだろう。それをそのままつかっている。その表現が意味するものを吟味していない。これは単なる垂れ流し以上に、タチが悪い。いまの書き方では、総務省(政府)が「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」と宣伝しているということがつたわりにくい。
 逆に見ていくといい。
 物価が2%上昇すると、家計はどうなるのか。赤字が2%増えるということである。日銀が目標としていたのは「物価の上昇」だけではないだろう。物価が上昇しても、それに対応できる「賃金の上昇」がなければ、意味がない。家計は苦しくなるだけだ。景気がよくなって、その反映として物価が上がっているのではなく、不景気なのに物価だけが上がっている、という「現実」にを無視している。

 読売新聞は、一方で、こんな記事を書いている。(08月17日)
↓↓↓
【ロンドン=池田晋一】英統計局が17日発表した7月の消費者物価指数の上昇率は前年同月比10・1%だった。1982年以来40年ぶりの高い水準で6月の9・4%から0・7ポイント拡大した。
 ロシアのウクライナ侵略に伴う光熱費の高騰や、食料品など幅広い値上がりが物価全体を押し上げた。イングランド銀行(中央銀行)は10~12月に消費者物価のインフレ(物価上昇)率は13%を超えるとみており、物価高は当面続く可能性が高い。
↑↑↑
 ここには、イングランド銀行の「物価上昇目標」は書かれていない。かわりに原因をはっきりと「ロシアのウクライナ侵略に伴う」と明記し、「物価高は当面続く可能性が高い」と予測している。
 イギリスで起きていることは、日本でも起きる。(すでに、世界で起きている。)
 最初の記事のつづきには
↓↓↓
 秋以降、食品を始め多くの値上げが見込まれている。民間調査機関の予測では、上昇率は年内に3%に達するとの見方が強まっている。
↑↑↑
と書いてある。
 「日銀の予測(目標)」は?
 前段で「日銀の目標」を書いたのなら、後段でも「日銀の目標」を書かないと意味がない。日銀の目標が「2%」だったのに、年内には「3%」になる。海外の物価の動きを見ると10%を超えるかもしれない。
 そうなったら、社会は、どうなる?

 そうなったらなったで、また、総務省がレクチャーしてくれる通りに書く? 国民をごまかす「表現」を教えてくれるから、気にしなくていい、いわれるままに書けばいい、ということか。

 物価の2%上昇の問題は、「日銀の目標」が達成されたかどうか、ではない。しかも、その「達成」が日銀主導の政策によるものでもないのだから、物価の抑制も日銀にはできなということを意味する。今後、どんどん物価があがることが予測される。どう対処するのか、それを先取りする形で追及しないといけないのに、知らん顔をしている。
 私は年金生活者。年金は、6月から減少した。物価は2%上昇し、さらに上昇すると予測されている。これは、私の生活はさらに苦しくなる、ということを意味している。「最低賃金」はアップするらしいが、それが年金にそのまま反映されるわけではない。逆に減っている。老人はかってに死んで行け、ということだろうか。それは「日銀の目標」だろうか。「読売新聞の目標」だろうか。

 

 

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木村孝夫『十年鍋』

2022-08-18 22:33:49 | 詩集

木村孝夫『十年鍋』(モノクローム・プロジェクト、2022年03月11日発行)

 木村孝夫『十年鍋』は東日本大震災の10年後を描いている。

もう十年ですか?
と 問う声に
まだ十年ですと答える

 ということばが、「海の方へ」の最後に書かれている。この詩集の全てを語っている。だが、紹介するのは、別の詩。「骨の重さ」。

死体が海底で
骨になる
身につけているものを脱ぎ捨てて
そこにある無常が
骨を磨き続けている
もう魂は
天に帰って行ったのに

諦めない
帰るまでは、骨の一片でも
衣類の切れ端でも
あの日のあの時間は
一生悔いる時だ
この両手にしっかりと抱いて
あげたかった

生と死の線引きに
大混乱した日
悲鳴の先が死の領域だとすれば
呼ぶ声は
その近くまで届いた筈なのだが
生へと引き戻す
力にはなれなかった

海岸線を歩きながら考える
残っている悔いは
引きずられていくあの瞬間だ
津波の丸い背が伸びて
水平線へと戻っていった時
助けを呼ぶ
手の姿が何本も見えた

その場所を足で掘ると
多くの声が隠されている
これが大きな錯覚だとしても
その時の時間は
そこに固定されたまま
頑なに動こうとはしない

写真に語りかけ
一言を添えての思いの水を交換する
嗚咽する
月命日
この両の手は
まだ骨の重さを知らないのだ

 終わりから二連目の6行を私は何度も読んだ。
 「その時の時間は」とは何か。
 木村は「その時」を「時間」と言い直している。「その時」は「一瞬」というか、短い。しかし、それは「その時」なのに「一瞬」ではなく、とても長い。「その時」は木村にとっては「果(終わり)」がないのだ。
 この「時間」をめぐる思いは、さらに複雑にゆれる。
 「固定されたまま」。この受動態は何を意味するのだろうか。「固定した」のは誰なのか。何なのか。
 「頑なに動こうとはしない」とあるが、「時間」は自分自身の「意思」で動くものなのか。
 ここでは「時間」は物理的な存在ではないし、客観的な存在でもない。木村自身である。「固定された」のではなく「固定している」のだ。「動こうとはしない」のではなく、「動かされないぞ」と誓っているのだ。
 「頑なに」ということばが、とても美しい。美しいと呼んでいいのかどうか、よくわからないが、美しいということばがふいに出てきた。
 「錯覚」ということばがある。つまり、木村の書いていることは、「客観的な事実」ではない、ということかもしれないが、「事実」が「客観的」である必要はない。「主観的」であっていい。「頑なに」主観的に生きる、ということがあっていい。それが「誓う」ということだろう。木村は、この詩で「誓う」ということばをつかっているわけではないが、誓いの強さが響いてくる。

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安藤元雄『恵以子抄』

2022-08-16 21:45:55 | 詩集

安藤元雄『恵以子抄』(書肆山田、2022年08月12日発行)

 安藤元雄『恵以子抄』(「恵」は、正しくは旧字。本文中も)は、妻の死を書いている。死を書いていると書いたが、死は書きようがなく、書こうとすればどうしても生にもどってしまう。その生は、妻の生であり、安藤自身の生である。そこに人間の悲しみがある。
 この不思議な感じ、どうしようもない何か絶対的な不条理が「恵以子抄」に書かれている。
 21ページから22ページにかけての、次の一連。

思うように歩けなくなった恵以子のために
家中に手すりを取りつけた
寝室に居間 廊下と階段 手洗い
洗面所や風呂場 玄関に勝手口
恵以子がいなくなって手すりだけが残った
いまは足腰の衰えた私が
もっぱらそれに頼って暮らしている

 死は「いなくなる」ことである。それ以外のことは、わからない。死んだ人は死について語らないし、死を経験した人もいない。だから「いなくなった」人間を思い出す。たとえば、残された「手すり」を通して、「思うように歩けなくなった恵以子」を。
 そして、この「思うように歩けなくなった」は、恵以子が生きていたときは、一種の想像である。安藤が、恵以子は思うように歩けなくなったと思っている。それがどういうことか、わかるようで、わからない。自分の「肉体」ではないからだ。想像はできるが、想像は「わかる」ではあるけれど、どこかもどかしいものがある。
 それがいま、「足腰の衰えた」安藤が、追体験している。「思うように歩けなくなった」安藤が、「思うように歩けなくなった恵以子」になって、それを再確認している。繰り返すとき、事実は真実になる。このとき、真実とは変更できない、という意味である。事実は繰り返しによって真実になる。
 この真実から、かけがえのないものが現れてくる。

もっぱらそれに頼って暮らしている

 「頼る」という動詞。そこに「かけがえのない真実=正直」が、しっかりと現れてくる。安藤が頼っているのは「手すり」という「もの」ではない。「手すり」をつくったひとだ。それは、安藤の場合、安藤自身ということになるかもしれない。しかし、恵以子にとってはどうか。やりは安藤がつくってくれたのだが、その安藤は安藤という固有名詞であり、また「支えてくれるひと」という普遍(愛という真実)につながる人間である。恵以子は、「手すり」に頼ることで安藤に頼った。そのことを追体験するとき、安藤の中で何かが交錯する。いま残された「手すり」に頼ることは、恵以子に頼ることである。生きていた恵以子に頼って、安藤は「手すり」に触れるのだ。
 そして、このとき「頼る」とは、「思う」ことであり、「思い出す」ことである。その「思う」が「思うように歩けなくなった」ということばのなかにある。「思うように歩けなくなった」の「思う」は「自分の思うように」である。そして、そのとき「他人の(愛しているひとの)思い=思う力」に「頼る」ということが生まれる。恵以子が「手すり」をつけてくれと頼んだわけではないかもしれない。けれども安藤は、「手すり」をつけた。そのとき、安藤は「頼られるひと」になった。これが、生きているということだろう。
 そして、いま、安藤は「手すり」に頼っているのだが、それは「手すり」という形で残っている恵以子に「頼って」生きるということになるだろう。もちろん、そこに恵以子の「意思」を確認することは、客観的にはできない。しかし、主観は(安藤の主観)は、「手すり」になって安藤を助けようとする恵以子の意思を感じるだろう。
 恵以子は生きており、生きて、いま安藤を助けている。安藤は、その助けに頼っている。頼ることで、恵以子をよみがえらせている。
 いろいろな思い出がこの詩集には書かれているが、そしてそれは楽しく忘れられない思い出なのだが、その美しい思い出よりも、この「思うように歩けなくなった恵以子」という、いわばつらい思い出と、安藤自身の肉体が重なり、その重なりの中で「頼る」ということばが動き、ふたりがいっしょに生きる瞬間がとても美しい。
 「頼りあっていた」ふたりの姿がはっきりみえる。
 「愛しあっていた」というのかもしれないが、「頼りあっていた」ということばの方を私は選びたい。「頼りあう」というのは、やがては死んでいくしかない弱い人間(死の絶対性の前では、人間はかならず敗北する)の、「正直」をあらわしていると思う。
 私は、この七行を、繰り返し繰り返し読んでしまった。

 

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谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)

2022-08-15 22:26:09 | 詩集

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 「かなしみ」という作品がある。『二十億光年の孤独』のなかの一篇。私はかつて「谷川俊太郎の10篇』という「アンソロジー」をつくったことがある。(いま、どこにあるか、わからない。)「鉄腕アトム」「カッパ」「父の死」というのは絶対に譲れない三篇。あとは、その日の気分によって選ぶものが違うだろうなあ、と思う。しかし、あと一篇、「かなしみ」も外したくないなあ、と思う。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 青年というよりも、少年という感じ。しかし、幼い少年ではなく、思春期の少年。
 でも、どうして、そういう印象を持つのかなあ。
 たぶん、「かなしみ」と言っても、「おとし物」くらいのかなしみ。成長すると、もっとおおきな悲しみがある。と、言っていいかどうかわからないが、なんとなく、そう思う。それは、私が過去の「おとし物」を思い出し、いま、悲しくなることがないからだ。
 だからこそ、ここに書かれていることが、美しい、真実だとも思う。
 特に、一行目が「美しい」し、谷川にしか書けない「真実」が書かれている、と思う。

 ところで、この詩集には、ときどき歌人の枡野浩一の「つぶやきコラム」というのがついている。一口感想、かな。
 枡野も一行目に注目している。私とは、ちょっと注目の仕方が違う。枡野のコラムを全行引用する。

おとし物をよくするから、遺失物係にもよくお世話になる。なくしたものは、みつからない。なくしたものに似たものならある。《青い空の波の音が聞こえるあたり》は、空のようでもあり海のようでもある。手がかりのない広い世界で何かを探し続ける覚束なさこそが、生きる実感に思えてくる。

 読んだ瞬間、私は、非常に違和感を覚えた。「あれっ」と声に出してしまった。そして、谷川の詩を読み直してしまった。同じ書き出しの一行に注目しているのだが、注目のポイントが私とはぜんぜん違う。そして、私が、思わず「あれっ」と声に出してしまったのは、「あれっ、私が読み違えた?」とびっくりしたからである。もう一度読み返したのも、そのためである。
 でも、私は間違っていなかった。枡野の引用が間違っているというのではないが、不十分だ。不完全だ。谷川は、こう書いている。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 「あの」がある。枡野の引用には「あの」がない。行末の「に」も枡野は省略している。文字数の制限があり、省略したのかもしれないと思ったが、どうもそうではない。もっと長い「つぶやき」があるから。
 枡野は「あの」には「意味」がないと思ったのだろう。
 でも、私にとっては「あの」は「意味」がある。「意味」のほかにも、大切な働きをしていると思う。
 「あの」というのは、「ここ(近く)」「そこ(少し離れている)」ではなく「あこ(遠い)」に通じる。「青い空」だから、「遠い」。そこは「空の波の音」が聞こえるくらいだから、ちょっと「空想的」という意味でも「遠い」。
 でも、「あの」には、もう少し違った使い方がある。
 「このまえ食べた、あのカレーおいしかったね、また食べにいこうか」
 「あ、駅前のあのカレー屋?」
 こういう会話のときの「あの」は、会話しているひとの間で、カレー屋が「共通認識」としてある。ふたりとも知っている。だから「あのカレー(屋)」になる。
 それと同じように、

あの青い空

 という書き出しを読んだとき、私には、谷川が思い浮かべている空と同じものであるとはいえないけれど、なんとなく、一緒に見たことがある(あるいは、いま一緒に見ている)という感じがする。「あの」が私と谷川を結びつける。
 それは、それにつづく「青い空の波の音が聞こえる」という変なことば、空なの? 海なの?という疑問を消してしまう、強烈な「結びつき」だ。
 「青い空の波の音が聞こえるあたり」では、「結びつき」が生まれない。谷川少年がかってに「夢想」しているだけになる。
 引用するとき、「あの」を省略してほしくないなあ、と思う。
 それに。
 この「あの」があるから、「あたりに」がとても耳になじみやすい。「あ」の音が繰り返される。「あ」の「あ」おい波の音が聞こえる「あ」たりに。私なら「あの青い空の波の音が聞こえるあのあたりに」と「あの」を繰り返してしまうかもしれない。でも、そうすると、ちょっと音がうるさくなるというか、「あ」の音が多すぎる。「空」「波」のなかにも母音の「あ」があるからね。それに「あの」のなかの「の」のなかの「お」という母音の隠れ具合とも考えると、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」がいちばん美しいね。
 「音」のついでにいうと、二行目も「あ」と「お」の響きが交錯する。「し」という新しい音がくわわって、三行目に「し」が繰り返されるのも、とても自然。
 もっとも、こういう「音(音楽)」の問題は、ひとそれぞれの「好み」が大きく影響するから、いちがいには言えない。
 脱線しすぎたかも。
 脱線ついでにいえば、谷川が書いているのは「おとし物」であって、「忘れ物」ではない。「なくし物」でもない。これも、いいなあ、と感じる。「おとし物」は自分から完全に切り離されてしまった感じ。「忘れ物」なら、家に忘れた場合は、家に帰れば「ある」。「なくし物」は微妙。「なくす」よりも「落とす」の方が私には「肉体的」な切断感、痛みがあって、感覚的にしっくりくる。枡のは「なくしもの」に重点を置いているが、私の場合、とくに少年時代を思い出すと「なくし物」という意識はほとんどない。「おとし物」しかない。(忘れ物、はある。)
 二連目についても少し書いておく。
 二連目では「遺失物係の前に立ったら」がとてもいい。大好き。(変な感想かも。)
 最初に、私はこの詩の主人公を「少年」と書いたが、「少年」にとって「遺失物係」というのは、ちょっといかめしい。「遺失物」と漢字のテストで出たら「少年」には書けないかもしれない。ちょっと背伸びした感じが、「かなしみ」にぴったりくる。(「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びした悲しみ--悲しみには背伸びが似合う。)
 それに「遺失物係の前に立ったら」が、ほんとうに美しい。こういうとき「立ったら」と、書ける? 遺失物係へ「行ったら」(行って、問い合わせたら)と書いてしまいそう。「立ったら」には、何か、教室で叱られて、「立っていなさい」と言われるような響きもある。叱られている感じ。
 それに。「係」にも母音「あ」があるが「立ったら」にも「あ」だらけ。それが「悲しくなってしまった」と響きあう。
 こういう「音楽」は「作為」ではむずかしい。谷川は、根っからの「耳の詩人」なのだと思う。

 

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朝日新聞よ、それでいいのか。平気なのか。正気なのか。

2022-08-15 19:48:10 | 考える日記
朝日新聞デジタル版、
「特異集団は旧統一教会」閣議決定 公安調査庁の05・06年報告書
この見出し、この記事の書き方は、これでいいのか。
辻元清美の「質問趣意書」が掲載されていないので、その内容がわからないが、辻元は単に「2006年、2005年」の公安調査庁が「特異集団」と書いてあるのは、いったいどの団体かと質問しただけなのか。
↓↓↓
 政府は今回の答弁書で、いずれも旧統一教会を指すと認め、特異集団を「社会通念とかけ離れた特異な主義・主張に基づいて活動を行う集団」と定義した。
 一方、第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった。理由について答弁書は「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とした。
↑↑↑
問題は、記事の末尾に書いてある「第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった」だろう。
「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とあるが、「取り上げる必要性がない」というふうに判断基準を変えたのは誰なのか、それが問題だ。
辻元も、きっとこのことを問題にしているはずだ。
「特異集団」が「統一教会」であると推測し、その推測が当たっているなら、問題は、2007年以降、統一教会を「特異集団」と判断しなくなったものがいるはずであり、それを追及するための「準備」として「質問趣意書」を出したのだろう。
記事の書き方から「第一次安倍政権」が関係していたと推測できる。「第一安倍政権」とまで書いているのだから、それをもとに朝日新聞はもっと追及すべきである。
見出しは、
「特異集団=統一教会」07年報告書から消える
だろう。
この問題は、この先さらに辻元が追及するだろうけれど、辻元だけに追及をまかせるのではなく、「援護追及」するために、朝日新聞も書くべきだろう。
今の書き方では、07年報告書から「特異集団(=統一教会)」と明記しなくなったのは「当然」という意味になってしまう。
政府の言い分を鵜呑みにし、それを垂れ流すのではなく、閣議決定された「答弁書」に問題がないかどうか、それを書かないといけない。
朝日新聞が、朝日新聞の名前(記者の名前)で書けないのだとすれば、せめて辻元の意見、あるいは他の評論家なりの意見を紹介すべきだろう。
こんな、政府の宣伝を書いて、それで平気なのだろうか。
読者をだますことになるとは思わないのか。
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Estoy loco por espana(番外篇176)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-15 16:38:52 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

影もまた作品の一部だと教えてくれる作品。
作品そのものもシンプルでリズミカルだが、それにそって踊る影が、作品をより美しくしている。
作品をどこで見るか。そのときの空間、光がつくりだす変化をどう楽しむか。
どんな作品も、やはり、その度書へ見に行かないといけないと思う。

Esta obra nos dice que las sombras también forman parte del trabajo.
La obra en sí es sencilla y rítmica, pero las sombras que danzan junto a ella la hacen aún más bella.
¿Dónde se mira el trabajo? ¿Cómo disfruta de los cambios creados por el espacio y la luz en ese momento?
Creo que hay que ir a ver cualquier obra de arte cada vez que se va a ver.

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Estoy loco por espana(番外篇175)Obra, Antonio Pons

2022-08-15 07:25:09 | estoy loco por espana

Antonio Pons

Mangrana amb la palma
Gres CH, ferro i acer
(890x420x380 mm.)

素材がつくりだす対比、色の変化が美しい。
左の局面の光の変化は、宇宙がつくり出す一瞬のものだが、まるで最初からその変化を知っているかのような落ち着きがある。

Los contrastes y cambios de color creados por los materiales son hermosos.
El cambio de luz en la fase izquierda es algo momentáneo creado por el universo, pero hay una calma en él, como si el artista hubiera sabido del cambio desde el principio.

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Estoy loco por espana(番外篇173)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-14 17:07:26 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

制作過程のホアキンとその作品。
作品を単独で見ると、大きさがわかりにくいが、この写真からはだいたいの見当がつく。
ホアキンの作品は、だいたいが身体になじむ大きさだ。
ここにも彼の作品のもっている親しみやすさの要素がある。

Joaquín en el proceso de producción.
Cuando la obra se ve sola, es difícil hacerse una idea de su tamaño, pero esta imagen da una idea aproximada.
Las obras de Joaquín son generalmente de un tamaño que se ajusta al cuerpo.
Este es otro elemento de la familiaridad de su obra.

作品は、とても不思議。
不安定なものが不安定なまま出会い、安定している。
作品の世界が閉じるのではなく、世界へ向かって開かれているからだろう。
作品が向き合っている空間が、作品の声を聞き、強い声を返してくる。
何かと対話している。
私は、この作品と向き合ったとき、どんな対話ができるか。
直接見てみたい作品だ。

Esta obra es muy intaresto.
Los partes inestables se encuentran con los partes inestables, pero el conjunto es estable.
Esto se debe probablemente a que el mundo de la obra no está cerrado, sino está abierto hacia el mundo.
El espacio al que se enfrenta la obra escucha la voz de la obra y devuelve una voz fuerte.
Está en diálogo con algo.
¿Qué tipo de diálogo puedo mantener con esta obra cuando me enfrente a ella?
Es una obra que me gustaría ver con mis porpios ojos.

 

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谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』

2022-08-14 16:44:59 | 詩集

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』は、短い詩120篇のアンソロジー。田原が選んだ。こういう詩集は、最初から読んでいくのではなく、なんとなく開いたところから読んでいく。行き当たりばったりで読んで、行き当たりばったりの感想を書く。読み落としがあっても気にしない。「となりの」谷川俊太郎なら、なおさらそうだ。読み落としたって、「知っている」。というか、どうしたって田原が選んでいない詩が詩集の中にまぎれこんでいる。「本人も知らない」のが「となりの他人」の実態だから。あるいは「となりの住人」というのは、そういうものを含んでいるのだ。つまり、谷川俊太郎以外、この詩集でいえば田原以外の人間をかってに含めて、私は谷川俊太郎を「となりの谷川俊太郎」と思っているかもしれない。

 204、205ページに「牛」という詩がある。

のっそりと牛がやって来た
後脚をひきずっている 顔色も悪い
十牛図から出て来たのだという
禅の修行もせずに牛に出会えたかと喜んで
牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら
牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く
偉いものだ 衆生のために我が身を捨てるとは
私は自分を捨てられない 悟りは遠い
この一年どうやって生き延びようか

 これはなんだろう。
 いろいろ気になることがあるのだが、特に気になるのが「牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く」の「ひとり」である。
 牛が「ひとり」?
 ふつうは、一頭と数えるが、(あるいは、一匹が今風かなあ)、谷川は「ひとり」と書いている。
 そして、私はその「ひとり」につまずいてはいるのだけれど、読んだ瞬間の「つまずき」は、これは変だなあ、ではなく、「あ、ひとり」かと納得してしまったつまずきなのである。
 この詩では、絶対に、牛は「ひとり」でなくてはならない。
 なぜ、そう思ったのか。
 「牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら」という一行があるからだ。谷川は「牛に乗ってうちに帰ろうと思った」が、それを牛は拒んだ。「私には行くところがある」。つまり、ここに「他人」が出てきている。そして、その他人は谷川と対立する。こういうとき、それは「ひとり」なのだ。「ひとり」とは「意思」であり、「思想」だ。
 「一頭」だと、たぶん、「拒否された」という感じがない。
 なぜなら、牛だからだ。牛と人間は、交流できない。こころの交流があるかもしれないが、そういうものは、なんというか「屁理屈」。あとから付け足した、後出しジャンケン。牛と人間は別の存在。
 その「別の存在」であるはずのものが、「別の存在」ではなく、谷川と「地つづき」になって、「地つづき」のところから「拒否」している。
 この切断と接続の一瞬が「ひとり」であり、それが「禅/思想」なのだと、私は納得したのだ。
 最後の三行は「意味」であり、「意味」である限りにおいて、それは付け足しである。「ひとり」ということばを書いたときに、詩は完結している。そういう「完結」を提示できるところが「となりの」谷川俊太郎でありながら、「となり」を超越している。そして、「となり」ではなくなることで、また「となり」になる感じがする。
 不気味と親しみ。

 

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アメリカナイズの問題点

2022-08-14 10:30:34 | 考える日記

 「台湾有事」は「アメリカの夢」と書いたとき、世界で起きているアメリカナイズについて少し書いた。アメリカナイズの「悪夢」が世界をおおっているというのが私の見方だが、それを証明するような事件が起きた。
 『悪魔の詩』の著者、サルマン・ラシュディがアメリカで刺された。容疑者の動機は不明(読売新聞)だが、『悪魔の詩』はイスラム教を冒涜している批判されており、そのことが関係するかのように報道されている。
 これが「アメリカナイズ」とどう関係するか。関係するのはイスラム教だろうと指摘する声が聞こえてきそうだが、私は「アメリカナイズ」のひとつととらえる。

 「アメリカナイズ」とはアメリカのスタイルが世界をおおうということである。この動きは「自発的」というよりもアメリカが要求しているものである。それに逆らって自分のスタイルをつらぬくことはむずかしい。そのアメリカナイズのいちばんの典型が「核武装」である。
 アメリカが核を開発し、広島と長崎でつかった。そこから「核軍拡」が広がった。これをアメリカナイズと呼ぶひとはいないが(いないと思うが)、私はそう呼ぶのである。
 核攻撃をされたら自分の国は滅ぶ。対抗するには核を持つしかない。核を持つものが世界を支配する。その主張をソ連(いまはロシア)がまねをし、イギリス、フランス、中国がまねをした。そのあと、イスラエル、インド、パキスタンとまねする国が出てきて、北朝鮮も核をもっているらしい。ほかにも計画している国がうわさされるし、なんといっても、いま世界の注目を集めているロシア・ウクライナ問題でも「ウクライナがソ連時代の核をもっていたら(ロシアに渡さなかったら)、今回の侵攻は起きなかった」という主張もある。ゼレンスキーが求めているのも核の後ろ楯であり、核武装だろう。ここからウクライナのNATO加盟申請が起きた。
 この背景にあるのは、武力のあるものが武力のないものを支配してもいい、あるいは武力で自分の望む「体制」(社会)をつくっていいという思想であり、アメリカ大陸に「アメリカ合衆国」ができたときの考え方を踏まえている。ヨーロッパからやってきた人間が、ヨーロッパ式の武器をもたないネイティブアメリカンを力で制圧し、そこに自分の国をつくりあげた。武力を「文化」と勘違いし、武力をもったヨーロッパ系の人間が、その価値観をアメリカ大陸、アメリカ合衆国に広げていった。
 ネイティブアメリカンを差別し制圧した後は、アフリカ系の人間を差別し、「奴隷」として酷使した。白人の「文化」がアフリカ系の「文化」よりすぐれているから、アフリカ系の人間を支配してもかまわないという思想だろう。これが根を張り続けて、アフリカ系アメリカ人への差別につながっている。白人警官がアフリカ系アメリカ人を死に至らしめた事件は、まだまなまなしい。ヒスパニックへの差別も根強く残っている。自分とは違う文化を生きる人間を差別するというのは、「アメリカ」という土地で増殖したのである。「差別の拡大」が世界のアメリカナイズの「象徴」である。
 そしてそのアメリカナイズの基本、アメリカの理想は「合理主義」である。いかに効率的に世界のシステムを支配するか。この「合理主義」というアメリカナイズが世界を席巻しているのだけれど、「合理主義」というのは「合理」にあわないものは排除することによって促進される。これが、さまざまな問題を引き起こすのだ。「合理」ではかたづかないものを抱えて生きるのが人間であり、不都合(不合理)を抱えながら共存するのが人間である。宗教、それにともなう様々な生活習慣は、ときに抑圧を生み出す。差別を生み出す。
 もしラシュディ襲撃がイスラム系の人間の犯行だとしても、それは、アメリカのアメリカの主張している主義以外は認めない(イスラム社会のあり方を批判、否定する姿勢)というアメリカナイズへの抗議というものだろう。アメリカが「多文化」の国ならば、こういうことは起きない。どの宗教にもそれぞれの主張がある。それを認めるという世界観がアメリカで実現されているのだとしたら、そしてそれが世界に広がっていたとしたら今回の襲撃は起きなかっただろう。アメリカは「人種の坩堝」ではあるかもしれないが、「多様な文化を許容する社会」ではない。マルチ文化を否定するのがアメリカナイズである。アメリカの文化にあわせろというのがアメリカナイズである。
 中国のチベットや新疆ウィグル地区への弾圧が話題になるが、これも、私の見方では「アメリカナイズ」のひとつである。中国で起きているから(中国政府が引き起こしているから)中国独自の問題に見えるが、根っこは同じ。「他文化の共存」を拒否する。「自分の文化」を押しつけ、支配する。アメリカがやっていることと同じ。
 アメリカは、それを「台湾」に強要した。それが「台湾有事」である。台湾の人が中国の経済政策(金もうけ)を選ぶか、いまのままの台湾方式を選ぶかは、台湾に住んでいるひとの問題であり、アメリカ人の問題ではない。
 こうした「他文化」を拒否する、「文化の多様性」を否定する動きを変えていくためには、アメリカがかわらなければならない。アメリカが「多国籍文化」にならない限り、アメリカナイズの弊害は発生し続ける。「なぜ、アメリカの主張する生活(文化)スタイルでないといけないのか。我々には我々の文化(生き方)がある」という抵抗が起きる。
 アメリカが核兵器を廃棄し、アメリカ人が中国人のように、世界中に出かけてゆき、そこに「アメリカタウン」をつくるようにならないかぎり、世界は滅びる。世界のどこへでも出かけ、そこであまりひとが好まないような仕事でもせっせとして金を稼ぎ、生活を安定させ、家族を呼び寄せる、「チャイナタウン」をつくってしまうという中国人の生き方が世界をかえていくだろう。いまは「チャイナタウン」だが、それは多民族をまきこんだ社会システムになっていくだろう。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇174)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-08-14 09:29:16 | estoy loco por espana

Jesusはフェイスブックで、こう書いている。
"Sobre el Mundo", fragmento.
Cuadro pintado por encargo para el cartel de Pasión en Salamanca.
Año 2019
Un rayo de sol en el ocaso incide sobre el borde a través de un ventanuco.
*
小窓から夕陽が一筋、キャンバスに降り注ぐ。
しかし、まるで最初から、その赤い色が存在したかのような感じがする。
この瞬間にしか存在しない「作品」。
この効果は作者の意図を超えていると思う。
だからこそ、楽しい。
時間が生み出した、新しい作品に、Jesus自身が驚いている。
この作品を、こうやって共有できるのは、とてもうれしい。

*

Sin embargo, me parece que ese color rojo ha existido desde el principio.
Una "obra" que sólo existe en este momento.
Creo que este efecto va más allá de la intención del artista.
Por eso es agradable.
El propio Jesús se sorprende de la nueva obra que el tiempo ha creado.
Estoy muy contento de compartir este trabajo de esta manera.

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Estoy loco por espana(番外篇172)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-13 13:21:45 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

¿Es un dragón abstracto?
A la luz del atardecer, puedo ver que el pilar que sostiene al dragón también es una obra de arte.
Es interesante la correspondencia entre la luz que se refleja en el pilar y la que se refleja en el vientre del dragón en la foto de la izquierda. La luz en la fotografía de la derecha puede ser la luna.
Me gusta el cambio de expresión de la obra.
Todavía no he visto el trabajo de Joaquín en el exterior.

抽象的なドラゴンだろうか。
夕暮れの光の中、ドラゴンを支える柱もまた作品なのだとわかる。
左の写真の、支柱反射する光とドラゴンの腹に反射する光の呼応がおもしろい。右の写真の光は月だろうか。
作品の表情の変化が楽しい。
私は、まだ屋外でホアキンの作品を見たことがない。

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「関係を断つ」とは、どういうことか

2022-08-13 08:52:15 | 考える日記

 第二次岸田改造内閣。統一教会との関係が、すっきりしない。2022年08月13日の読売新聞(西部版・14版)の2面。(見出しは、ウェブ版)
↓↓↓
新副大臣・政務官でも旧統一教会と接点相次ぐ…パーティー券購入やイベント出席

 第2次岸田改造内閣が本格始動した12日、政府がこの日の臨時閣議で決定した副大臣、政務官でも「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)と過去に何らかの接点を持っていたことが相次いで明らかになった。
 山田賢司外務副大臣の事務所は12日、関連団体から2018年4月にパーティー券2枚(4万円)の購入を受けたと公表した。大串正樹デジタル副大臣も同日、首相官邸で記者団に、過去に関連団体からパーティー券を購入してもらったと明かし、「関係は断つ」と語った。
 中谷真一経済産業副大臣と野中厚農林水産副大臣は、いずれも関連団体のイベントに出席経験があった。野中氏は、関連団体とは知らなかったとしたうえで、「付き合いは今後わきまえていく」と記者団に語った。
↑↑↑
 山田の「関係は断つ」、中谷の「付き合いは今後わきまえていく」とはどういうことか。だいたい「記者団に語った」とあるが、記者に語ることにどんな意味があるのか。いまの「記者団」は、たんなる宣伝マンだ。実際、ここに書かれている記事も、山田、中谷は「関係を断つ」「付き合いは今後わきまえていく」と言っているから問題はないという「宣伝」に終わっている。
 記事の末尾には、こう書いてある。
↓↓↓
 10日に発足した改造内閣では、7人の閣僚に旧統一教会との接点があったことが判明している。岸田首相は関係を点検したうえで見直すよう求めており、松野官房長官は12日の記者会見で「副大臣や政務官に対しても同様のことを求め、これを了解した者のみを任命した」と説明した。
↑↑↑
 「岸田首相は関係を点検したうえで見直すよう求めて」いるというが、「関係を見直す」の具体的な内容は、どこにも書いていない。

 統一教会との「関係」をどうするか。国会は立法府である。議員は、立法する権限を付託されている。
 ほんとうに「関係を見直す」「関係を断つ」というなら「立法措置」を取るべきである。統一教会をカルト認定し、いま認めている「宗教法人」(だと思うが)の資格を取り消す。さらには悪徳商法の実態を国会で明らかにし(本来は司法の問題かもしれないが)、被害者救済のための法律を考える。
 これが「関係を断つ」ということだろう。「付き合いをわきまえる」とはつきあい方をかえるということでなければならない。単に、いままでつきあっていたけれど、それをやめるではなく、いままでのつきあいを清算し、統一教会のあり方の変更を求めるというところまで踏み込まないと、「過去を隠した」だけになる。
 岸田がやっていることは、「過去隠し(歴史の否定)」にすぎない。

 国会は立法府であり、国会義員の仕事は法律をつくることで社会をよりよいものにかえていくということだ。この「基本」から出発して、国会議員と統一教会との関係に踏み込まないといけない。
 山田や中谷が記者団に語るのは「自己宣伝」である。その「宣伝」を聞いたとき、それをただ読者に伝えるのではなく、「関係を断つ」というのは統一教会にあたえられている権限を剥奪するために立法措置をとることか、そういう動きを国会で積極的に進めることか、と問い詰めないといけない。
 統一教会は、山田や中谷が「関係を断つ」というのなら、別の自民党の国会議員に接触するだけだろう。「当選の応援をします」というだけだろう。
 議員の「いいわけ」を「はい、わかりました。その旨、ていねいに読者に伝えます」というのでは、ジャーナリズムは「言論機関」ではなく、「宣伝機関」であり、ウソによって読者をごまかす詐欺集団になってしまう。

 

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